2021年8月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記12章5〜7
  マタイによる福音書26章14〜25
●説教 「最後の晩餐」

 
  礼拝プログラムについて
 
新型コロナウイルスの第5派と呼ばれる感染状況、および病院の逼迫状況を考えまして、本日から礼拝のプログラムをさらに短くすることにいたしました。礼拝堂内の滞在時間を短くするためです。そうすると皆さんの中には「どういう基準でプログラムを決めているの?」と思われる方もいることでしょう。それで最初にそのことを説明したいと思います。
 私たち日本キリスト教団においては、教団が発行している「式文」に礼拝順序について三つの例が書かれていますが、逗子教会の礼拝順序はその通りにはなっていません。他の多くの教会を見ても、式文に乗っている通りの順序でおこなっている教会は、むしろ少ないかもしれません。つまり、教会ごとに決めているというのが実情です。
 しかし、礼拝の大まかな構成というのは、だいたい共通しています。それはだいたい次のようになっています。
1.招き
2.悔い改め
3.神の言葉
4.感謝の応答
5.派遣
 すなわち、神が私たちを礼拝に招いておられる「招き」に答えて私たちが教会に集まり、悔い改めて御言葉を聞くことに備える。そして神の言葉に耳を傾ける。神の御言葉をいただいたら、それに感謝をもって答え、最後に神の祝福をいただいて世の中に派遣されていく。そういう流れになっています。
これを今日からの、言わば第2段階の短縮式次第で言いますと、「招き」が前奏と招詞、「悔い改め」が讃美歌と主の祈り、「神の言葉」が聖書朗読と説教、聖餐式があるときは聖餐式も「神の言葉」に入ります。そして「感謝の応答」が献金と祈り、最後の「派遣」が祝祷と後奏‥‥ということになります。つまり、この5項目を最小限で入れています。これをフルコースの料理にたとえると、品数は少なくてもフルコースを保っていると思っております。その救いない品数を味わいながら、礼拝にあずかりたいと思います。
 
   ユダの裏切り
 
さて、本日の聖書箇所は、聖書の中でも最も人々の興味を引く個所の一つであると言えるでしょう。それはイエスさまの弟子の一人であるイスカリオテのユダという人が、イエスさまを裏切るということです。クリスチャンではない方々に、イエス・キリストの弟子の名前を知っているか尋ねたとしたら、おそらくこの「ユダ」の名前を挙げる人が一番多いでしょう。それは、イエスさまの側近である12弟子でありながら、イエスさまを裏切ったということが衝撃的だからです。それで日本でも、「ユダ」という言葉が裏切り者の代名詞のように使われたりします。
イスカリオテのユダは、多くの弟子たちの中から、イエスさまの代わりになって悪霊を追い出したり、福音を宣べ伝えるために選ばれた12人の使徒のうちの一人でした。そのように、イエスさまを信じ、またイエスさまによって選ばれ用いられたユダが、どうしてイエスさまを裏切ったのか? これは大きな謎です。
 それについて、さまざまな説があります。ユダは、祖国解放のためになかなか立ち上がらないイエスさまの決起をうながすために、あえて裏切ってみせたのだ‥‥というような説もあります。ユダは悪くないということを言う説もあります。そういうさまざまな説がありますが、本当のところは聖書には何も書いていないので分かりません。分かりませんけれども、きょうの個所にありますように、ユダは銀貨30枚でイエスさまを売った。イエスさまを抹殺する機会をねらっていた祭司長たちの所に行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか?」と言っています。どんな理由があろうとも、またいくらユダを美化しようとしても、「幾らくれますか」と、お金で主であるイエスさまを売ったという事実は、最低の行為に違いありません。いくら理屈をつけても、美化しようがありません。
ユダは、イエスさまに見切りをつけたのかもしれません。人間は、未来に希望を与えるものにかけるものです。これまで、ユダはイエスさまに未来を見てきたのでしょう。イエスさまに未来を託し、イエスさまに従って行った。しかし、イエスさまが数日後に十字架につけられるために引き渡されると予告なさいました。4度目の十字架の予告です。しかも今度は期限を切っての予告です。そして自分たちユダヤ人の指導者たちは、皆こぞってイエスさまを捕らえようとしている。状況は、圧倒的に不利になっている。‥‥もうイエスさまには未来を見れなくなった。そういうことかもしれません。
 むかし私が学生のころ、衆議院選挙の投票日に、その地元のテレビ局のアルバイトに行ったことがあります。選挙事務所に各テレビ局がカメラを設置する。そこは初当選を目指す候補の事務所でした。最初は、その事務所には後援会の幹部とか、十人ほどがテレビの開票速報を静かに見守っているだけでした。しかし、どこかのテレビ局がその候補に「当選確実」を出すと、状況が一変しました。まず歓声が上がりました。そして私がビックリしたのは、それから続々と人が事務所に集まってくるんですね。誰かも分からない人たちが、お祝いのために。それだけではなく、酒屋さんがいろいろな人から注文されたお祝いのお酒を入れ替わり立ち替わり配達してくる。たちまち事務所の一角は届けられた清酒で埋め尽くされ、駆けつけてきたいろいろな人がぎゅうぎゅう詰めとなってごった返す。そこに候補者夫妻が登場し、万歳が三唱され、酒がふるまわれる。候補者にはテレビのインタビューが始まる‥‥という具合でした。もしこの候補者に「当確」が出なかったら、事務所は閑散としたままだったでしょう。そして落選が決まったら、後援会幹部以外は誰もいなくなったかもしれません。しかし「当確」が出たので、大勢の人々がお祝いに駆けつけ、お祝いの品が続々と届けられることになった。私は「こういうのを勝ち馬に乗る」というんだな?、と思ったものです。みんな未来のある人の所に集まるんです。
イスカリオテのユダも、それまではイエスさまに未来を見ていたに違いありません。しかし、十字架が目前に見えてきた。それでユダはイエスさまに見切りをつけ、イエスさまを十字架につけようとする者たちのほうに乗り換えた。‥‥銀貨30枚でイエスさまを売ったという事実には、そのようなものがあったように、私には思えます。
これはユダだけではなく、他の弟子たちもそうですが、十字架というのは終わりであると見えた。失敗にしか見えなかった。誰にとってもそうでしょう。十字架は死刑ですから、終わりにしか見えない。その先の復活までは信じられない。しかし、そのイエスさまに永遠の未来があることを、弟子たちは復活によって知ることとなります。したがって、イエスさまは、たしかに永遠の未来を切り拓くために十字架へ向かって行かれたのです。しかし、この時点ではそこまで見ることができなかった。
 
  最後の晩餐
 
そして場面は次の「最後の晩餐」へと移ります。レオナルド・ダ・ビンチの絵であまりにも有名なこの晩餐は、単なる夕食ではなく、聖書に書かれているように「過越の食事」でした。「除酵祭」とも呼ばれる「過越祭」は、ユダヤ人にとって大切な行事でした。その過越祭の中心とも言うべきものが過越の食事でした。前回も申し上げたように、その起源は、イエスさまの時代から千数百年前の出エジプトの出来事にさかのぼります。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を解放させるために、神がエジプトに10回の災いを与えます。そしてその最後に下された災いが、「初子の死」でした。その家の長子が死ぬという恐るべき災いです。しかしその死を免れる方法が同時に神から示されました。それが、きょう読んだもう一つの聖書箇所である出エジプト記12章5?7節に書かれていたことですが、小羊を屠ってその血を家の玄関の柱と鴨居に塗るということでした。その血を塗った家は、神の罰が過ぎ越す。それで過越祭と呼ばれるわけです。つまり、小羊が犠牲となって人の命を救ったのです。そしてそれを記念する過越の食事が最後の晩餐の食事であった。すなわちそれは、イエスさまの十字架の本当の意味を教えるものとなったのです。すなわち、イエスさまの十字架の死によって、私たちが救われるということです。しかし、このとき、弟子たちはその意味が分からなかったことでしょう。
そしてそこでイエスさまはおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)。この言葉によって、イエスさまは、ユダが祭司長たちにご自分を売ったことをご存じであることが分かります。
しかしたいへん興味深いのは、そのイエスさまの言葉を聞いて、弟子たちが代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは?」と言い始めたことです。弟子たちは、「主よ、わたしは裏切りません」と言ったのではない。「まさかわたしのことでは?」と口々に言っている。動揺しているんです。自分の心の中で。このことは、皆、実はイエスさまに対する確信がなかったことを表していると言えます。ユダだけではない。ひたひたと危機が迫ってくる状況の中で、弟子たちはみな動揺していた。人間とは弱いものです。
 
   生まれないほうがよかった
 
そしてイエスさまの口から語られた言葉が、「生まれなかった方が、その者ためによかった」(24節)でした。
生まれなかったほうがよかった‥‥。これは、ある意味、もっとも残酷な言葉ではないでしょうか。もし私たちが、「あなたは生まれてこないほうがよかった」と言われたとしたら、どうでしょう。たいへんなショックではないでしょうか。
しかしもう一度注意して読みますと、ここは「生まれなかった方が、その者ためによかった」という言葉になっています。「その者のためによかった」と。「生まれなかった方が、世の中のためによかった」ではなく、「生まれなかった方が、その者ためによかった」。生まれなかった方が、本人のためによかったというのは、どういう場合でしょうか?‥‥いろいろ考えられますが、このときのユダに置き換えて考えてみると、結局このあとユダは自殺をしてしまうんですね。自分が主イエスさまを裏切ったことの罪の呵責に耐えかねてだろうと思います。苦しんで絶望したんです。それで結局、よみがえりのイエスさまに出会うことがなかった。イエスさまの復活を見ることなく、自ら命を絶ってしまう。悲劇です。
そうすると「生まれなかった方が、その者ためによかった」とおっしゃったイエスさまの言葉は、イエスさまを銀貨30枚で裏切ったことが許されない罪だから「生まれなかった方が、その者ためによかった」とおっしゃったのではないでしょう。なぜなら、他の弟子たちはどうだったかというと、他の弟子たちも、イエスさま逮捕の次の瞬間、みなイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまったからです。ペトロなどは、「お前もイエスの仲間だろう?」言われて、三回もそれを否定してイエスさまを裏切りました。どの罪が重くて、どの罪が軽いなどと比べてもあまり意味がありません。
そもそも、のちに使徒パウロが「わたしは罪人の頭である」「最たる者である」(1テモテ1:15)と書いていることを思い出して下さい。最たる者というのは、もっともひどい罪人ということです。そのひどい罪人であるパウロを救うために、天からイエスさまが現れて救ってくださったことを忘れてはなりません。
それに、このときイエスさまが弟子たちと共にとっている過越の食事は、小羊の犠牲によって、人が救われたということを示しているわけです。それは、これからかかられるイエスさまの十字架によって、私たちの罪が赦され、救われるということを指し示しているわけです。そのことを信じるように、イエスさまはユダをも救いへと招いておられるのです。
 
  生まれてきて良かった
 
そうすると、「生まれなかった方が、その者ためによかった」というイエスさまの言葉は、「このまま死んでしまうのでは、生まれなかった方が、あなたのためによかった」という言葉に聞こえて参ります。「このまま死んでしまってはならない。十字架で終わりではない。そのあと起こる出来事を見なさい。待ちなさい。確かに名希望が与えられるから」‥‥。その時、十字架の本当の意味が分かるだろう。そういう招きの言葉であろうと思います。
私たちは「自分なんか生まれてこない方が良かった」と思うでしょうか。「自分なんか、生きていてもいなくても一緒だ」と思うでしょうか。そうではありません。「あなたは生まれてきて良かった」というのがキリストの福音です。「喜びなさい」というのが聖書の福音です。なぜなら、その私たち一人一人を救うために、イエスさまが命を投げ出してくださったのが十字架だからです。そして復活の主に出会ったとき、「生まれてきて良かった」と思えるのです。
 私にとって、生まれてきて本当に良かったと思えるのは、イエス・キリストに出会えたということです。どうか多くの人が出会うことができるように、神とキリストを求め始めるようにと祈りたいと思います。


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