2021年8月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教/逗子教会創立記念日
●聖書 列王記上8章62〜63
    マタイによる福音書26章1〜13
●説教 「キリストの値打ち」

 
 1948年(昭和23年)8月15日、逗子教会は、宮崎繁一牧師のもと、第一回礼拝をこの地で守りました。「コンセットハット」と呼ばれる米軍兵舎のかまぼこ型の建物を払い下げてもらい、イスも講壇もなく、材木を4本渡して新聞紙をその上に敷いて腰掛けとし、講壇は大きな箱をひっくり返して用いたと伝えられています。最初の礼拝出席者は5名でした。
 なぜ教会を建てるのか。それはキリストの福音を宣べ伝えるために他なりません。そしれは 、復活なさったイエスさまが弟子たちにお命じになったことでありました。教会が宣べ伝えるべきことはなにか? そのことについては、使徒パウロが、コリントの信徒への第1の手紙で書いています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(一コリント15:3〜4)。すなわち、キリストの十字架と復活です。これが福音の中心にあります。
 逗子教会もまた、そのことを宣べ伝えるために建てられたのです。また終戦記念日が創立記念日であるということは、当教会が世界平和のために祈る教会として建てられたとも思っております。
 
   クライマックスへ
 
 本日の聖書箇所の最初の所、マタイによる福音書26章1節に、このように書かれています。「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」。この「これらの言葉」というのは何を指すのでしょうか? 直前にお話しになった三つのたとえ話でしょうか? それとも24章からお話しになった、世の終わりとキリストの再臨、そして最後の審判のことでしょうか?
 しかしこの「語り終える」の、「終える」という意味のギリシャ語には、「完了した」という意味があります。つまり、イエスさまはすべてお語りになった、教えを述べることを完了した、と読むことができます。そうすると「これらの言葉」というのは、これまでイエスさまがお語りになって来た、すべての教えであると言えるでしょう。
 そうすると、マタイによる福音書は、このあと十字架に至る受難へと舞台を移すことになりますが、それはなにか、イエスさまがまだお語りになるはずのことがあったのだけれども、残念ながら捕らえられて十字架にかけられ死んでしまわれた、ということではないことになります。イエスさまは、語るべき事をすべて語り終えられたのです。
 またそのことは、これで福音書の物語はほぼ終わった、ということでもありません。たしかに学校の倫理の授業ですとか、歴史上の人物の教えを学びたいという人にとっては、「山上の説教」などのイエスさまの教えが大事なのであって、このあとの受難と十字架、そして復活の出来事などはどうでもよいこととして扱われるでしょう。
 しかしそれも福音書が書かれた目的からすると、ここで話の重要部分は終わりなのではなく、むしろここからクライマックスに入っていくのです。そのことは、今日の個所でイエスさまが最初に十字架の予告をなさっていることからも分かります。マタイによる福音書では、イエスさまが十字架につけられる、または殺されるということを予告なさるのはこれで4回目です。つまり、イエスさまはこれまでも教えの合間に、十字架にかかって命を失うことになるのを予告なさってきたんです。言い換えれば、今までお語りになってこられた教えはすべて、十字架のほうを指し示していたと言えるのです。
 そういうわけで、いよいよ物語はクライマックスに入っていきます。
 
   十字架の予告
 
 イエスさまは、「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)とおっしゃっています。過越祭というのは、イスラエル=ユダヤ人にとって三大祭りの内の一つであり、最も重要な祭りです。その過越祭の時に十字架にかけられるとイエスさまがおっしゃったということは、やはり過越祭というものを強調していると言えるでしょう。
 そのようにイエスさまが、二日後に十字架にかけられると予告なさって、聞いていた弟子たちはどう思ったでしょうか? これまでなされた3回の予告の時は、おそらく半信半疑であったのだろうと思います。弟子たちは、イエスさまこそキリスト(メシア)であると信じて従って来ました。しかしその場合のキリストというのは、あくまでもユダヤの王さまになるはずのキリストでした。イエスさまを支持する民衆と共に武器を手に取って決起する。そしてローマ帝国の支配を覆して、ユダヤの独立を勝ち取る‥‥。おそらく弟子たちは、そのような革命の指導者としてのキリスト、そしてそれがイエスさまであると期待していたことでしょう。この世の王となるキリストとしてです。
 ですから、イエスさまがこのとき、二日後に十字架につけられるとおっしゃったのを、弟子たちは「いよいよ決起するんだ」と思ったでしょう。そして、もしかしたら失敗してイエスさまが十字架につけられることになるかもしれない、そのことも覚悟して進んでいくのだという意味に、イエスさまのこの言葉を取ったかもしれません。それぐらいの覚悟をしておきなさいと。
 そして続く3節では、場面がユダヤの大祭司であったカイアファの屋敷に移ります。大祭司は、当時のユダヤ人のトップです。そこに、神殿を管理する祭司長たち、そしてサンヘドリンと呼ばれるユダヤ人最高法院の議員である長老たちが集まったという。ユダヤ人の政治と宗教のリーダー達が集まって、イエスさまを捕らえて処刑する相談をしていました。しかし彼らは民衆を恐れていました。イエスさまを支持する民衆が抵抗するかもしれないと恐れていました。それで、過越祭の時には祭りの時をエルサレムで過ごそうとして、多くのユダヤ人がエルサレムに集まってくるから、その時は避けようということになりました。しかし、実際にはイエスさまは過越祭の時に十字架にかかられることになったのでした。つまり、イエスさまを亡き者にしようとする人々の計画ではなく、イエスさまのおっしゃったとおりになったわけです。過越祭に、にと。
 
   過越祭
 
 では過越祭とは何か。旧約聖書を読みになっている方には分かることですけれども、話は今から3千数百年前、イエスさまの時よりも千数百年前のことです。そのころ、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷にされていました。そしてそのイスラエルの民を解放してエジプトから脱出させるために、神さまが立てた指導者がモーセでした。モーセは、エジプトの王に交渉しました。イスラエルの民を解放してくれと。しかし答は「NO!」。それで神さまは、エジプトの国に次々と災いを下します。エジプトの王がイスラエルの民を解放するまで。しかしなかなか王は「Yes」と言わない。それで神さまがエジプトにくだした最後の災いが、「初子の死」という恐るべき災いでした。家の中に最初に生まれた子、つまり長子が一晩のうちに死ぬという災いだったのです。しかしその時、神さまがモーセを通して言われたように、それぞれの家の戸口に小羊の血を塗った家は、罰が過ぎ越す。実際に神さまが言うことを聞いて、その通りにした家は神の罰が過ぎ越して、初子の死は免れた。‥‥
 この出来事を記念して、過越祭というのは定められました。そしてイスラエルの民は、先祖代々この過越祭を守り、過越祭の時には過越の食事というものを家族でとるようになりました。ちなみに、このあとイエスさまと弟子たちがとられる「最後の晩餐」は、その過越の食事なんです。それはともかく、そのように小羊を屠り、その血を家の玄関に塗った家は神の罰が過ぎ越した。つまり神の罰を免れた。それが過越です。
 そしてイエスさまは、その時に十字架にかかられると言われました。それはまさに、イエスさまの十字架が、真実の過越となることを予告なさっていたのです。すなわち、むかしイスラエルの民が、小羊の血によって神の罰を免れ、奴隷の国エジプトから脱出していくことができたように。真の小羊がイエスさまで、そのイエスさまが十字架で流される血によって、神の罰を免れ、罪を赦され、この罪の世の中から脱出して神の国へ逃れさせていただく。
 あの旧約聖書の過越は、イエスさまの十字架による、人間の救いを預言するものであった。イエスさまの言葉は、そのような言葉として聞こえてまいります。
 
   香油を注ぐ
 
 さて、それに続いて、ベタニヤ村のらい病人シモンの家で、イエスさまが一人の女性から香油を注がれるという出来事が書かれています。マタイによる福音書では名前を明らかにしていませんけれども、ヨハネによる福音書のほうを見ると、この女性はマルタとマリア姉妹のマリアであったと書かれています。そのマリアが、食事の席でイエスさまの頭に香油を注いだというのです。
 その香油はたいへん高価なものであったようで、弟子たちがそれを見て憤慨し、「なぜこんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言っています。マルコによる福音書とヨハネによる福音書の同じ個所を見ると、それは「ナルドの香油」と呼ばれるものであったことが分かります。それはたいへん高価なものでした。現代でも香水の類いはたいへん高価ですが、ヨハネの福音書のほうでは、このナルドの香油について、イスカリオテのユダが「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と女に言っています。300デナリオン。当時の労働者の1日の賃金が1デナリオンでしたから、300デナリオンというとだいたい1年分の賃金ということになります。いかに高価なものであったかが分かります。ちなみに、ネットで調べますと、今でもちゃんとナルドの香油が売られていまして、Amazonで、15ミリリットルの小瓶に入ったモノが4,300円でした。むかしはもっと高かったわけです。それをイエスさまの頭から注いだ。
 なぜこの女性は、イエスさまにそのように貴重な香油を注いだのでしょうか?‥‥イエスさまが過越祭の時に十字架にかけられると予告なさったとき、彼女はどのように思ったかということを考えたいのです。イエスさまが捕らえられて十字架にかけられる。考えただけでも恐ろしいことでしょう。そのようなイエスさまに、何ができるかを考えたと思うんです。自分はイエスさまに何ができるだろうか、と。自分がイエスさまに救っていただいた感謝を、どのように表そうかと考えたに違いありません。そして考えた結果が、自分がたいせつにしてきたであろうナルドの香油をイエスさまに注ぐということであったのです。
 たしかに弟子たちがこの女性を非難したように、そんな高価なものをイエスさまに注いでしまうのは、もったいないかもしれない。それを売って貧しい人々に施した方が、ためになるかもしれない。しかし、「貧しい人々に施した方が良い」と言って非難する人は、実際は貧しい人々にあまり施さないものです。神さまのためにしない人は、貧しい人のためにもあまりしないものです。実際に、この女性を非難したイスカリオテのユダは、次の個所になりますが、イエスさまを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡したではありませんか。貧しい人々に施すどころか、こともあろうに主であるイエスさまを売り渡したのです。
 マザー・テレサは、どんなに忙しいときも、毎朝早朝にする1時間のミサ(礼拝)を欠かしませんでした。マザー・テレサを取材していたテレビ局の人が、マザーに言いました。「マザー、その1時間のミサをしなければ、もっと多くの貧しい人を助けることができるのではありませんか?」と。するとマザー・テレサはこう答えたといいます。「あなたはとんでもない思い違いをしている。わたしが貧しい人のために奉仕できるのは、この毎朝のミサがあるからなのです」と。彼女は、キリストのために貧しい人々に仕えていたのです。同じように、私たちがする奉仕も、イエスさまのためにするものであります。
 イエスさまは、ナルドの香油を注いだ女性を非難した弟子たちに向かっておっしゃいました。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 イエスさまを葬る準備をしてくれたと。ちなみにキリストという言葉の意味をご存じでしょうか? それはヘブライ語では「メシア」という言葉になりますが、どちらも「油を注がれた者」という意味です。むかし旧約聖書の時代、新しい王が選ばれるときに、頭から油が注がれました。今日の聖書箇所で、この女性がイエスさまの頭からナルドの香油を注いだ。それはまさに、イエスさまがキリストになったということでもあります。それでイエスさまは、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃったのでしょう。
 私たちに対する神の罰を十字架で代わりに引き受けてくださり、私たちに対する罰が過ぎ越す。それによって私たちは罪が赦され、救われる。神の子としていただける。その主イエスさまに感謝して、この女性はナルドの香油を注いだのです。私たちも、そのイエスさまの愛と恵みに感謝して、お応えする者でありたいと思います。


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