2021年8月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記24章18
    マタイによる福音書25章31〜46
●説教 「小さなキリスト」

 
   天の国についての最後のお話
 
 いよいよ本日のところで、天の国(神の国)についてのイエスさまのお話は終わります。このあとマタイによる福音書はイエスさまの逮捕と十字架へと突き進んでいきます。そのイエスさまの天の国についての教えの最後、つまり、しめくくりが今日の聖書箇所です。
 ここまでいくつか、イエスさまはたとえ話をなさってきました。それは世の終わりのこと、キリストの再臨のことについて話されていました。そして今日のお話は、それに続くものとなっています。つまりそれは、世の終わりの時にキリストが再臨されてなされる「最後の審判」についてのお話となっています。最後の審判。それをもって、人間は、天の国において永遠に生きるか、それとも天の国に入ることができないかが決められるというものです。言わば人生の総決算ということになります。
 今日のお話は、「たとえ話」のようで「たとえ話」のようではないような、そんな描き方になっています。もしこれがたとえ話であるとしても、今までのたとえ話と違っているのは、最初に「人の子は」という言葉で主人公が登場している点です。これまでのたとえ話では、お話の主人公は「主人」とか「ある人」という言葉で出てきました。その「主人」とか「ある人」というのが、神さま、またはイエスさまのことを指していたわけです。しかし今日のお話では、直接「人の子」という言葉で出てきます。「人の子」というのは、イエスさまがご自分のことを指す言葉ですから、直接ご自分の再臨の時のことを言っておられることになります。そうするとこれは、たとえ話のような体裁を取っているように見えるけれども、なにか未来の予告をリアルに話されているようにも読めるわけです。
 
   信仰は無関係?
 
 そしてお話を読みますと、何か今までイエスさまがお話しになってきたことをひっくり返すような、そういう印象を受けるのではないでしょうか。なぜなら、これまでの聖書のお話では、罪人を救われるイエスさま、ということであったからです。天国に入る資格のない者、天国に入れていただく資格のない私たち。そんな私たちであるのだけれども、そういう私たちを救うためにイエスさまは十字架にかかられるのであり、そんな罪人である私たちがそれによって救われる。そのように聖書も語っているし、私もそのように説教をして参りました。
 ところが、今日のお話では、それがすべてどこかに行ってしまったように思われるのです。これまで、どんな罪人でも、私たちも、イエスさまを信じることによって救われることが語られてきました。ところが今日のお話では、信仰のことが1つも出てきません。イエスさまを信じるかどうかではなく、「最も小さい者」を助けたかどうかによって、天国に行けるか、それとも地獄に落とされるかが決まってしまうというのです。これが最後の審判だというのですから、これはもう絶句です。
 結局は、イエスさまを信じたか、真の神さまを信じたかということは関係なく、良い行いをしたかどうかによって決まる。だとしたら信仰は無意味ではなかろうか?‥‥そのように思われます。
 
   たしかに善行は良いに決まっている
 
 たしかに、困っている人を助けるのは尊いことには違いありません。とくに、見返りを求めないでする良い行いというのは、とても尊いことに違いありません。
 今日のお話しを聞いて、「靴屋のマルチン」というお話を思い出された方もいるのではないでしょうか。「靴屋のマルチン」は、ロシアの文豪トルストイの「愛あるところに神あり」という短編小説をもとにしているものです。このようなストーリーです。‥‥ある冬の日、靴屋のマルチンが眠っていると、イエスさまの声を聞きます。「あした、あなたの所に行く」と。翌日、マルチンは、本当にイエスさまが来るのかなあ、と雪のつもった外の通りをながめていました。そうすると、一人のおじいさんが目に留まりました。おじいさんは雪かきで疲れて、立っていました。マルチンは、こんな寒い日にたいへんだなあと思い、おじいさんを呼んで家の中に招き、温かいお茶をふるまいました。おじいさんは御礼を言って出ていきました。マルチンは、また靴を縫う仕事をした。そしてまた外を見ると、ボロの服を着て穴の開いた靴を履いて赤ちゃんを抱いた女の人がマルチンの家の前でしゃがみ込んでいました。マルチンは、これでは赤ん坊が死んでしまうと思い、女の人を中に招き入れました。聞けば朝から何も食べていないとのこと。マルチンは、その人に温かい食べ物を作って食べさせました。そして、タンスの中にあったコートをあげました。女の人は感謝して出ていきました。またしばらくすると、外でリンゴ売りのおばさんが男の子を捕まえて怒鳴っていました。聞けば、その男の子はお腹が空いて、おばさんからリンゴ1個を取って逃げたようでした。それでマルチンは、自分がリンゴの代金を払うから、男の子を赦してやってくれといいました。「神さまが、赦しなさいとおっしゃっているから」と。男の子はあやまって、おばさんと共に去っていきました。そうして1日が終わった。マルチンは夜、結局イエスさまはお出でにならなかったなあと思いました。すると、マルチンはイエスさまの声を聞きます。きょうあなたが助けた3人は、みんなわたしだったのだ、と。‥‥
 この「靴屋のマルチン」のお話は、多くのキリスト信徒の胸を打ちます。そして、悔い改めをうながします。そして、誰もこれを間違っていると思う人はいません。
 ご存じのように、マザー・テレサは、インドのコルカタで、貧しくて、路上で死を待つばかりの人たちを助けて働きましたが、彼女はそれらの貧しい人たちのことをイエスさまであると思って奉仕していました。世界の人々は、それを見て感銘を受け、自分たちも何かできることをしようと思いました。それはとても尊いことです。そして世界中の人がそのような心を持てば、世界はすばらしいところとなるでしょう。
 しかし、今日のイエスさまのお話として、飢えた人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、貧しくて裸の人に服を着せ、病気の人を見まい、牢屋に入れられている人を訪ねる、そのことによって、天国に行くか地獄に行くかが決まる、と解釈するのは、やはり最初に申し上げたように、違和感があります。結局、神さまやイエスさまを信じるということが、どうでもよいこととなってしまいます。罪人はどうやって救われるのか、十字架の救いとは何か、ということが見えなくなってしまいます。
 また、困っている人、貧しい人を助けることが尊いことであるという教えは、なにもキリスト教に限ったことではなく、多くの宗教に見られることです。なにも、イエスさまではなくても良いということになります。
 
   最も小さい者とは誰のことか
 
 そこでもう一度ていねいに今日の聖書箇所を見てみます。このお話では、人の子であるイエスさまが再臨されるときのことを書いているわけです。天使たちを皆従えてきます。そして栄光の座について、すべての国の民がその前に集められる。この「国の民」という言葉ですが、これはユダヤ人にとっては、「異邦人」を指す言葉として使われたということです。異邦人というのは異教徒と言い換えても良いものです。つまりここでは、キリスト信徒ではない人々ということになるでしょう。つまり、全人類ということではなく、キリスト信徒ではない人々です。イエス・キリストのことを知らないでいた人たちと言ってもよいでしょう。世の終わり、最後の審判の時に、そういう人々がいることは当然予想されることです。そうすると、そのときに、イエス・キリストのことを知らないで終わりの時を迎えた人たちということになります。
 次に、このお話の中で、王なるキリストが、正しい人たちに対して言っている言葉ですね。「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。この「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」というのは誰のことか、ということになります。もちろん、先ほど述べましたように、これは世の中で着る物もなく、食べる者もないもっとも貧しい人のことであり、あるいは病気の人や、牢屋に入れられている人のことだ、という解釈もあります。
 しかし、ここもていねいに言葉を見てみますと、王が、つまり再臨のキリストが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と言っている、その「わたしの兄弟」という言葉ですね。この言葉は、イエスさまはもっぱら、イエスさまに従っている人たちに対して使っておられる言葉です。たとえば、マタイによる福音書では12章の最後のところで、イエスさまの母とはだれか、兄弟とはだれかと言うことについて、イエスさまは弟子たちを指しておっしゃいました。「みなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(マタイ12:49)。そのように、イエスさまの弟子たちがイエスさまの兄弟であります。そしてこのあと最後の晩餐のところで、実際に義兄弟の杯を交わすわけです。
 また「小さな者」という言葉についても、たとえばマタイによる福音書17章6節でこうおっしゃっています。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」この場合、「小さな者」とは子どもを指していると考えられますが、それはイエスさまを信じる子どもという形で言われています。同時にそれは、イエスさまの弟子についても言われています。そしてその言葉は、きょうのお話を理解する上での、決定打ともなるような御言葉です。
(マタイ10:40〜42)「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
 このイエスさまのお言葉が、すべてを物語っています。イエスさまの弟子が「小さな者」と呼ばれています。そしてその小さな者である弟子を受け入れる人は、イエスさまを受け入れることであり、それはまたイエスさまを遣わされた天の父なる神さまを受け入れることだと言われています。そして、イエスさまの弟子に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受けると言われているんです。そのことを思い出してください。
 
   ご自分のように私たちを愛してくださるイエスさま
 
 そうすると、今日の聖書箇所の謎が解けてきます。やがて教会が誕生し、弟子たちが福音を宣べ伝えるために出かけて行くことになります。お金も着がえも持たずに出かけて行きます。そのようなキリストの弟子たち、すなわちキリスト信徒に、水一杯でも飲ませてくれる者は、その報いから漏れることはないとイエスさまは約束された。飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたとき訪ねてくれる、と今日の個所で語られていることと一致します。とくに、イエスさまが「牢にいたときに訪ねてくれた」とおっしゃっていることは、キリスト信徒が迫害によって牢屋に入れられたと考えると、「ああ、そういうことか」と思うでしょう。何か犯罪を犯した人が牢屋に入れられたのを訪ねるというのも、もちろん尊いことでしょう。しかし、これをキリスト信徒が迫害されて牢屋に入れられたときに、訪ねていくということであると考えると、もっとも良く分かります。
 このように、イエスさまのお話の最後は、キリストの福音を宣べ伝えるキリスト信徒に対して、どのように接したかということによって、最後の審判がなされるということが言われていると言えます。
 これは、別の見方をすれば、そこまでしてイエスさまは、私たちキリストを信じる者を大切に思ってくださるということになります。私たちキリストを信じる者を受け入れる人は、ご自分を受け入れるのと同じだとイエスさまは見ていてくださる。逆にわたしたちを迫害する者は、イエスさまを迫害するのと同じであると。私たちとご自分を、同一視しておられるんです。もったいないことです。ありがたいことです。感謝としか言いようがありません。このようにイエスさまは、お話の最後を、私たちへの限りない愛と励まし、慰めで終えられているのです。私とあなたがたは一つだと、言われるのです。


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