2021年8月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編103編8
    マタイによる福音書25章14〜30
●説教 「埋蔵タレント」

 
   平和聖日
 
 本日は、日本キリスト教団の暦で「平和聖日」です。昭和20年8月、広島と長崎に原爆が落とされ15日に終戦となった、そのことを覚えて定められました。その終戦から76年。戦争を経験した世代も、たいへん少なくなりました。当教会では、戦争を経験された方々に、戦争の時代の記憶とキリストとの出会いのときのことを書いていただき、順番に教会報に掲載する予定です。
 今もなお世界は平和ではありません。各地で戦争、紛争が起き、また独裁者によって国民が苦しめられている国がいくつもあります。また世界的な戦争が起きていないと言っても、それは莫大な量の兵器によるパワーバランスによって保たれているに過ぎません。それは本当の平和ではありません。私たちは平和の主であるイエス・キリストにより深く信頼し、また福音を宣べ伝えることをもって仕えていきたいと思います。
 
   タラントンのたとえ話
 
 さて、本日の聖書箇所は有名なたとえ話が語られている所です。子どもの頃、教会学校で聞いたとか、あるいはキリスト教学校で聞いたとか、そういう方もいると思います。そのように、このたとえ話が良く語られるのは、たいへん分かりやすいと思われているからです。これも天の国のことをたとえた話となっています。物語自体は、今申し上げたように分かりやすく、あえて説明する必要もないほどです。
 ある家の主人が旅に出かけるとき、僕たちを呼んで自分の財産を預けたというお話です。この主人はそうとう裕福な人だったようで、3人のしもべにそれぞれ、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けます。1タラントンとはどれぐらいのお金かということですが、昔のお金の価値を、現代の21世紀の価値に換算するというのは、実はたいへん難しいことです。しかしそんなことを言ったら何も見当が付かないことになりますので、聖書の後ろに付いている度量衡の表を見ますと、1タラントンは6,000デナリオンに相当することが分かります。1デナリオンというのは、このマタイによる福音書では20章に出てきましたが、当時の日雇いの労働者の1日の賃金であるということです。そこから見当をつけまして、分かりやすいように1デナリオンを1万円と仮に換算しますと、1タラントンは6千万円ということになります。5タラントンあずかった僕は、約3億円を預かったということになります。かなりの額ですね。何か事業を始めようと思えばできる額です。
 というわけで、主人はそのつもりでそれぞれの僕にお金を預けて、出かけて行きます。そして、5タラントンあずかった僕は商売をして他に5タラントンもうけた。2タラントンあずかった僕は、やはり他に2タラントンもうけた。しかしもう一人の、1タラントンをあずかった僕は、地面を掘って穴を掘り、そこにその1タラントンを隠しておいた。やがて主人が帰ってきたとき、5タラントン預けた者と2タラントン預けた者は主人のお褒めの言葉をいただいた。しかし1タラントンあずかった者は、主人からきびしい叱責を受け、外の暗闇に放り出された。‥‥そういう内容です。
 
   いくつかの典型的解釈
 
 そのように、ストーリー自体は分かりやすいたとえ話なのですが、これがいったい何をたとえているものなのか、ということが問題です。まず前提ですけれども、たとえ話に出てくる「主人」というのは、神さま、またはイエスさまのことをたとえています。その上で、いくつか典型的な解釈を、まずご紹介したいと思います。
 
@タラントン=タレントか
 これは今日の説教題とも関係があるのですが、今日の説教題は「埋蔵タレント」といたしました。タレントというのは、テレビに出てくる芸能人のことですね。このタレントというのは、英語では「才能」という意味です。そしてこのギリシャ語のタラントンから来ているといわれます。というわけで、このタラントンを神さまが一人一人に与えておられる「才能」のことであると解釈する。神さまは、ひとりひとりに違う才能を与えておられる。その才能を生かすことが大切だということになります。しかしせっかくの才能を、地面に穴を掘って埋めておいた僕のようにしてはならない。才能を生かしなさい、と。そうすればそれは必ず伸びていくんだというように解釈いたします。
 これは魅力的な解釈で、子どもにも分かりやすいし、向上心を喚起することが期待できるので、教会学校の教本やキリスト教学校で耳にすることが多いように思います。
 
Aがんばって伝道せよ、か
 また別の解釈の仕方に、これは教会に対して「がんばって伝道しなさい」とイエスさまから発破をかけられているのだとするものがあります。たしかに、主人が僕に財産を預けて旅に出かけたというのは、キリストが復活ののち昇天されて、世の終わりの時に再臨されるまでの間、と考えることができます。それで、キリストが再臨されるまでの間、教会はがんばって伝道し、多くの人をキリスト信徒にしなさいとするこの解釈も、自然に受け入れられる解釈だと言えます。そして、伝道しないで、主からゆだねられた福音を地面の穴の中に隠しておくようなことをするならば、再臨の時に主から叱責を受け、裁きを受けることになると。
 しかしこの場合は、何か脅されて伝道に駆り立てられているようで、何かブラック企業が営業マンに厳しいノルマを課すというような印象を受けます。
 
Bお金を世のために使え、か
 もう一つ耳にしたことがあるのは、このタラントンとは文字通りお金のことであるとする解釈です。これは経済に関心のある方には分かりやすい解釈だと言えるでしょう。つまり、お金、経済というのは回らないと貧しくなる。たとえば経済が停滞して不況になる時というのは、国にお金がなくなるわけではなく、お金は銀行とか会社とか人々の家にあるわけです。しかし皆がお金を使わなくなるので、お金が動かない。動かないと収入が減り、それでますます皆がお金を使わなくなる。それでますます世の中のお金が動かなくなり、貧しくなるということになります。そのことから、神さまがお金を与えてくださったら、それを世のため人のためになるように使わなければならないのだ。なのに、それを使わないというのは、神さまの御心にそむくことになります。
 これも分かりやすい解釈でしょう。お金だけではなく、先ほどの才能にしても、物にしても土地にしても、神さまがその人に与えたのは、神さまのため、人々のために役に立つように使うために与えたのであって、隠しておくためではないというのは、聖書の考え方からいっても合致していますし、その通りだと言えるでしょう。しかし問題は、このたとえ話全体の解釈としては、どうかな、ということです。
 
 今、三つの典型的なこのたとえ話の解釈の例を挙げましたが、いずれも話としてはよく分かるし、部分的にはその通りだと言えるものもあります。けれども、きょうのたとえ話もまた、世の終わりとキリストの再臨に関するたとえ話であると言えますから、その点から見たらどうなのかという問題が残ります。とくに、3人の内の最後の僕、すなわち1タラントンを預けられた人が、天の国から締め出されるということを見たときに、いずれの解釈も十分ではないと思います。
 
   キリストはどういうお方か
 
 そこで注目したいのは、1タラントンを地面の中に隠しておいた僕の言葉です。彼は、主人に言いました。「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っておりましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」
 いかがでしょうか。この僕が主人のことをこのように見ているということを聞いて、なにかお感じになりませんか? この主人は、イエスさまのことをたとえています。すると、イエスさまというのは、種を蒔かない所から穀物を刈り取ろうとするような、冷酷な独裁者のような方なんでしょうか?
 そこが完全に間違っています。罪人である私たちを愛し、神に逆らう私たちを救うために、十字架でご自分の命を捨ててくださったイエスさま。私たちの身代わりとなって神の罰を受けて下さったイエスさま。こともあろうに、そのイエスさまについて、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」だと言うというのは、いったいどういうことでしょうか。イエスさまについてそのように信じているというのは、信じ方が間違っているんです。ここに問題があります。
 ルカによる福音書の19章に、今日のこのタラントンのたとえと似たたとえ話が載っています。そちらではタラントンではなく、「ムナ」のたとえとなっています。そしてやはり、主人からあずかった1ムナを布に包んでしまっておいた僕がこう言っています。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と。それに対して主人が、こう言っています。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。」‥‥あなたのその言葉のゆえにあなたを裁く、と。
 悪い僕は、神さま、イエス様という方が、そのような冷酷非道な方だと信じていた。それゆえに、わが身を守ることに汲々としていたわけです。それはまるで、ファリサイ派や律法学者の信仰と同じです。ファリサイ派も、神を恐ろしい方だと信じ、それゆえに神の掟を守ることに汲々としていました。そうして、神を礼拝する喜びの日であるはずの安息日を、厳しい掟でがんじがらめにして、イエスさまが安息日に病気の人を癒したと言っては、非難したりしていたのはご存じの通りです。そのように信じていたのでは、信仰に喜びがありません。平安もありません。ただ神の罰を恐れて、我が身を守ることにしかなりません。信じ方が間違っていたんです。
 それに対して、こんな罪人であるわたし、こんな欠けた所だらけのわたしを救うために、あろうことか神の御子イエスさまが十字架で命を捨てて下さった。わたしの身代わりとなって罰と呪いを受けて下さった。そのように信じることができれば、それはもう感謝しかありません。言われなくても、イエスさまはすばらしいと自発的に言うことができます。隠しておくなんて考えられません。こんな私でも天の国に迎えてくれると言うんですから。こんな私でも、愛されているんだという喜びと平安が生まれます。
 私の若き日、大学に入り学生寮に入ったころ、最初のころはまだ教会に通っていました。すると寮生が私をからかって言いました。「お前みたいなのがクリスチャンか」と。私はなんだか恥ずかしくて、何も言い返せませんでした。しかし今は答えることができます。「そうだ」と。「こんな俺みたいなものでもクリスチャンにしてもらえるんだから、キリストさまはありがたいよ」と。前向きになれますね。2タラントンあずかったら、それを使ってみようという気になります。自然にです。もし失敗して、その2タラントンを失ってしまったとしても、イエスさまは赦して下さるし、慰め、励ましてくださる方であると信じているからです。
 そうすると、5タラントン、2タラントン、1タラントンという額の違いは、預かった人の受け取り方の違いを表しているのかもしれません。自分が、どれほどの恵みをいただいているのか、それぞれの人の受け止め方の違いです。それが表に現れてくる。
 
   にじみ出る信仰
 
 以前当教会にもお出でいただいた、北陸学院院長の楠本史郎先生の書かれた本に、『教会に生きる』(日本キリスト教団出版局)という信仰の入門書があります。その中に、このようなエピソードが書かれています。
 ある年輩の女性が倒れ、寝たきりとなったそうです。その女性はキリスト者であったそうです。娘さんだけでは十分に看護をすることができない。それで若い人たちが奉仕を申し出ました。看護のためにいろいろな知恵を出し合い、方法を考え出しました。看護ノートをつけて、お互いに連絡し合いました。その女性は話すことができなくなったので、どうやって女性と会話を交わしたら良いかということで、「あいうえお」の50音表を使い、まばたきの合図で言葉を交わす方法を発明しました。そうしているうちに、看護する側の若者たちが、その女性に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらうようになりました。しゃべることができませんが、ニコニコしながらじっと聞いてくれる。きっとその若者たちのために祈っていたのでしょうと、楠本先生は書いています。そうして重荷から解放された人たちがいました。その女性とのまばたきの会話で、信仰に導かれた人もいたそうです。
 寝たきりとなって言葉も話せなくなると、神さまのために何もできないのではありません。その女性も、きっと、イエスさまの喜ばしい信仰に生きていたのだと思います。そして、それが自然に人を救うことに用いられたのだと思います。キリストの信仰の喜びを、さらに見つけ出していきたいと思います。


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