2021年7月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記40章24〜25
    マタイによる福音書25章1〜13
●説教 「賢いおとめ」

 
   賢いおとめと愚かなおとめ
 
 本日の聖書箇所も、イエスさまのたとえ話です。「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃって始まっています。これもイエスさまがたとえ話をなさるときに、よく言われるフレーズです。マタイによる福音書では、24章から、いわゆる世の終わり、そしてキリストの再臨のことについて語られてきました。ですから、このたとえ話も、世の終わりとキリストの再臨のときのことを話しておられるということができます。
 世の終わりというと、たいへん恐ろしい感じがいたしますが、今申し上げたように「天の国は」と語られています。世の終わりは、同時に天の国、神の国の現れるときであるとも言えることになります。しかも今日のたとえ話では、天の国が結婚のお祝いの時にたとえられています。ですからそれは、実は喜ばしい出来事であるということになります。
 今日のたとえ話では、花婿を迎えに出ていった十人のおとめが登場いたします。ここでちょっと説明をしておかないとならないでしょう。と言いますのも、むかし私もが最初にこの個所を読んだとき、この十人のおとめというのは花嫁のことであると勘違いしたからです。つまり、十人の花嫁が十人の花婿が来るのを待っている、言わば集団結婚式なんだと勝手に思ってしまったんです。たしかになにも知らないで読むと、そのように誤解しやすいでしょう。しかし、実はこの十人のおとめというのは花嫁のことではありません。花婿は単数形になっていますので一人です。この十人のおとめというのは、花嫁の友だちなんです。
 むかしイスラエルでは、婚礼は村を挙げてお祝いしました。ヨハネによる福音書の2章ではイエスさまがなさった最初の奇跡として、カナという村で行われた婚礼の出来事が書かれています。そこで、イエスさまは大きな水がめ6つに汲まれた水を、ぶどう酒に変えるということをなさいました。言ってみれば、そんなにたくさんのぶどう酒を必要とするほど多くの人が集まり、会食をしながら何日も楽しんだのです。
 そのおめでたい婚礼の本番の前に、まず花婿が花嫁の家に行って、前祝いがなされました。その時のことが今日のたとえ話の題材となっているんです。そして花婿を迎える役をするのが、花嫁の友だちでした。今日のたとえ話では、それが十人いたということになります。「おとめ」と言われているのも、当時は女性は10代半ばで結婚するのがふつうでしたから、その友だちもまただいたい同年齢だからです。今日で言えば、まだ中学生ぐらいでしょう。そうすると、なにか情景が思い浮かんでくるように思います。遊びたい盛りの年ごろです。結婚する友人の花婿さんのことであるとか、お互いの結婚についてのこととか、お互いの婚約者のことなど、楽しくおしゃべりしながら待っていたかもしれません。
 時は夕方。持っていたともし火に火を付けて、結婚する友人の花婿が来るのを今か、今かと待っていた。この「ともし火」ですが、当時は今のランプのようなガラスで覆われた物ではなくて、ともしび皿と呼ばれる陶器の器でした。そこに油を入れ、芯を浸し、火をつけて明かりとしたのです。もちろん、電気などというものはありませんから、ともし火が唯一の明かりです。そのともし火を点けながら待っていた。ところが、花婿が来るのが遅れた。そしてみな眠くなって眠り込んでしまったというのです。どうも、そうとう遅れた様子がうかがえます。
 すると真夜中になって、ようやく花婿が到着しました。それで彼女たちは起こされて、ともし火を確認すると、10人の内の5人のともし火は油が切れかかり、消えそうになっていた。それが「愚かなおとめたち」と呼ばれています。いっぽう、予備の油を用意していたのが残りの5人のおとめたちで、そちらは「賢いおとめ」と呼ばれています。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに油を分けてくださいと頼むのですが、賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って自分の分を買ってきなさい」と答えたというのです。
 そうすると私などは、「そんなケチなことを言わずに、分けてあげれば良いのに」と思います。けれども、本当に分けてあげるほどはなかったのだと思います。というのも、ただ夜道の中を歩いてやって来た花婿を迎えるだけなら、少しの油でもよいのかもしれませんが、花嫁の家の中に花婿を迎えたあと、家の中をお祝いにふさわしく明るく照らすためにも、彼女たちのともし火は必要だからです。だから、分けてあげるほどはないということです。愚かなおとめたちは、断られて、店に油を買いに出かけます。ところが彼女たちが買いに行っている間に花婿が到着して婚宴の席に着き、家の戸が閉められた。賢いおとめたちは、ともし火をともして花婿を迎え入れる役割を無事に果たした。いっぽう、愚かなおとめたちは油を買って戻ってきたのだけれども、家の戸が閉じられて入ることができなかった。
 これが今日のたとえ話です。
 
   疑問点
 
 私たちは、このたとえ話を聞いて、「ああ、そうですか、よく分かりました」とは、すんなり行かないものを感じるのではないでしょうか。
 いくつか疑問点が残ります。とくに最後に家の主人が、愚かなおとめたちに対して言った言葉です。愚かなおとめたちは閉じられた家の戸を前にして「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言いました。それに対して家の主人が、開けないどころか、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えている。「知らない」とは何事でしょうか。あまりにも厳しすぎるではないか。たしかに、愚かなおとめたちと呼ばれている彼女たちは、予備の油を用意していなかった。しかしそれは、花婿さんの到着が大幅に遅れたからであって、そんなに遅れるとは思っていなかったからでしょう。遅れる方が悪い、と言いたくもなります。また、彼女たちは切れた油を夜中に買って戻ってきたのですから、家の中で始まるお祝いのために、その彼女たちのともし火を加えれば、たいへん明るくなる。だから入れてやれば良いではないか。‥‥そんなふうに思います。
 それに対して家の主人の「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」という言い方は、あまりにも厳しすぎるように思います。ふつうに考えて、おかしい。冷酷とさえ言えます。この厳しさが際立っています。彼女たちにしてみれば、「花婿がこんなに遅れるとは思わなかった」と言い訳もできる。しかしこの家の主人の厳しさには、なにか言い訳も許さないような、非常な厳しさであることが強調されています。
 もう一つは、これはたとえ話に続いて言われたイエスさまの言葉ですが、「だから目を覚ましていなさい」という言葉です。「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃいますが、ただ今お語りになったたとえ話では、愚かなおとめも賢いおとめも、両方とも眠り込んでしまっています。言ってみれば、どちらも目を覚ましておれなかったわけです。なのにイエスさまは、「だから目を覚ましていなさい」とおっしゃる。これはどういうことか?と思われます。
 
   分けることができないもの
 
 このたとえ話は、最初に申し上げたように、キリストの再臨をめぐって語られています。このあとイエスさまが十字架の死を経て復活をされる。そして天に昇られる。すなわち父なる神のところにお帰りになる。そのイエスさまが、再びこの世にお出でになるのがキリストの再臨です。そしてそれは同時に、世の終わり、終末ということになります。そしてここまでに、キリストの再臨がいつ来るかということは、誰も知らないことだということが語られていました。
 今日のたとえ話で言うと、花婿の到着が遅れたということにあらわれています。いつ再臨があるか分からない。ひょっとすると、人間が思っているよりも大幅に遅れるかもしれない。だとすると、地上の教会は、どのようにしてキリストの再臨を待てばよいのか。私たちはどのようにしてキリストの再臨を待っていればよいのか、ということが問題となります。
 今日のたとえ話で言うと、賢いおとめと呼ばれる人たちは、遅れたときのために油を用意していた。いっぽう、愚かなおとめと呼ばれる人たちは用意していなかった。そこが分かれ道となっています。賢いおとめも愚かなおとめも、みな眠ってしまったのです。ですから、違いは油を用意していたか、用意していなかったか、ということだけになります。
 そうすると、この「油」とは何をたとえているのか?ということが問題となります。このたとえ話では、愚かなおとめたちが、賢いおとめたちに向かって「油を分けてください」と頼んだのに、賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません」と答えています。これは、分けることができないものであるということを言っているのかも知れません。たとえば信仰とか、聖霊です。信仰や聖霊の賜物は、分けてあげたくても、分けてあげることができないものです。その人が信じるか、その人が聖霊の賜物をいただくか、ということだからです。それは神さまとその人の問題となります。
 聖書では、油は、神さまの下さるものを指すことが多いです。たとえば、「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」(一ヨハネ2:20)という聖句。そのように、神から油を注がれるという言い方が聖書にはよく出てきます。聖霊の賜物もそうです。そうすると、油を用意していたおとめたちは、神のくださる賜物、神の恵みに生きていたということを表しているのかもしれません。「かもしれない」というと、なんだか頼りなさそうな言い方になりますが、ここまでイエスさまが語られたりなさってこられたことをまとめてみると、そういうことになります。
 
   内村鑑三の再臨運動
 
 そしてもう一つは、先ほど指摘したように、戸を閉ざしてしまって、愚かなおとめたちを入れなかったこの家の主人の冷酷なまでの厳しさですね。これをどう考えるか。
 話はそれるようですが、内村鑑三は、1918年(大正7年)ごろから、ホーリネス教会の中田重治、組合教会の木村清松らとともに「再臨運動」というものを始めます。再臨運動というのは、文字通り、キリストの再臨を強調した信仰を演説して、全国各地を回ったのです。それまでキリスト再臨について慎重だった内村が、なぜ再臨を強調しはじめたかということですが、それには内村の最愛の娘であったルツ子が病死したこと、また第一次世界大戦が起こったことがあると言われています。内村らの再臨運動は、日本のキリスト教界に大反響を呼ぶものとなりました。それまで日本のキリスト教界では、キリストの再臨があまり語られることがなかったのが、内村は再臨信仰こそが初代教会の信仰であったとし、熱を入れました。たしかに新約聖書を見ても、使徒たちの手紙はキリストの再臨の信仰であふれています。
 そのようにして再臨運動に熱を入れた内村でしたが、やがてこの運動から身を引きます。どうして身を引いたか。それは、再臨運動が盛り上がることによって、迷信的になったり、熱狂的になる人々がいたということがあったようです。内村の晩年、昭和5年の彼の主宰した信仰雑誌『聖書の研究』357号に、次のようなことを書いています。すなわち、キリストの再臨は、聖書の中心真理と言うよりは、むしろその最終真理と言うべきものであると。ゆえに、聖書の少なくとも大体が解ってのちに説かれるのが再臨の教義であるということ。‥‥なるほど、マタイによる福音書でも、再臨についてイエスさまが話されるのは、十字架の前、つまりその地上でのお働きの最後のほうです。‥‥そして、内村は、十字架が再臨の前提であると書きます。 「十字架の苦杯を飲まずして再臨の饗宴にあずからんと欲す。それで、迷信が百出し、再臨狂が続出する」と。分かりやすく言えば、イエスさまが十字架にかかってくださったのはなぜなのかを知らずして、世の終わり、イエスさまの再臨に備えることにはならないということでしょう。
 イエスさまの十字架を中心に据えたとき、今日のたとえ話の最後の主人の厳しい言葉が分かってきます。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」‥‥本来、私たちはみな、神さまにこのように言われて、天の国の扉を閉ざされるはずの者だということを忘れてはならないと思います。「自分は賢いおとめだろうか?それとも愚かなおとめのほうだろうか?」と皆さん考えると思いますが、私は間違いなく「愚かなおとめ」のほうです。罪人であり、不十分な者であり、失敗ばかりしている。再臨の時に天の国に入れていただく資格のない者です。だから、神さまから「わたしはお前たちを知らない」と言われても仕方がない者です。
 しかしそのような私たちを天の国に入れるようにするために、そのために、イエスさまは十字架にかかってくださったのではありませんか? 言い換えれば、本来ならば天の国に入れていただく資格がない私たちに、「油」を用意してくださり、「賢いおとめ」としてくださる。そのためにイエスさまは、十字架にかかってくださったはずです。
 十人とも眠りこけてしまったという点では違いがないのに、「賢いおとめ」と呼ばれる人たちは、油を用意していた。この油は、神がキリストによって与えてくださる恵みを表しています。こんな私でも救ってくださる、キリストの十字架の恵みです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」知らない。だからいつイエスさまが再臨されても良いように、こんな私でも喜んで迎え入れてくださるイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。


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