2021年7月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記下22章7
    マタイによる福音書24章45〜51
●説教 「帰ってきた主人」

 
   たとえ話の概略
 
 イエスさまのたとえ話です。ある主人が、自分の僕(しもべ)を、使用人たちの上に立て、時間通りに使用人たちに食事を与えることにした。「使用人」と「僕」とどう違うのか?と思われる方もいると思いますが、原文のギリシャ語では両方とも同じ言葉が使われています。ですからこれは、主人が、僕たちの中から一人を選んで他の僕たちの食事の世話をするようにさせた、ということになります。
 そして、主人はどこか遠い所に出かけて行ったようです。昔はこのようなことはよくあったようです。裕福な人が、自分の畑や家を僕に任せて出かけて行く。もちろん、家と言ってもそれ一件しか持っていないのではなくて、別宅や別荘があるわけです。そして主人は、「いつ戻ってくる」とは言わない。言わないのは、今日のように時間が分刻みでスケジュールが決められるような時代ではないからです。行った先での仕事や遊びなど用事の都合で、いつになるかということは分からない。そのように、世の中によくあることを題材にして、たとえを話される、というのがイエスさまのたとえ話です。
 そしてやがて主人が帰ってくる。ここで、2つのケースに分けてお話しになっています。1つは、主人に言われたとおりにしていた僕のケースであり、もう一つは、そうではない悪い僕のケースです。
 主人に言われたとおりにしていた「忠実で賢い僕」は、主人から全財産の管理を任された。一方、悪い僕のほうは「主人の帰りは遅い」と勝手に思って、仲間の僕を殴り始めた。また外から友人を連れて来たのでしょうか、酒飲みどもと一緒になって、食べたり飲んだりし始めた。すると主人が突然帰ってきて、彼は厳しく罰せられることになった。‥‥そのように、たとえ話のストーリー自体は、たいへん分かりやすいものです。
 忠実で賢い僕が主人の全財産の管理を任されることになったというのも、実際にそのような例がありました。たとえば、旧約聖書の創世記の最後を飾る「ヨセフ物語」です。ヤコブの息子の一人であるヨセフは、エジプトの国に奴隷として売り飛ばされました。そしてファラオの宮廷の侍従長であるポティファルという人に奴隷として買われました。しかし、主がヨセフと共におられ、ヨセフもまた忠実に僕として働きましたので、主人であるポティファルは、外国人の奴隷であったヨセフに全財産の管理を任せました。ですから、このたとえ話を聞いたイエスさまの弟子たちも、忠実で賢い僕ということでヨセフを思い出したことでしょう。
 一方で悪い僕のほうは、仲間を殴り、酒飲みどもと飲んだり食べたりして主人の財産を浪費し始めた。それで主人が思いがけないときに帰ってきたとき、「彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる」と語られています。この「厳しく罰し」という言葉ですが、もともと「2つに切る」という意味のギリシャ語が使われています。刀で2つに切る。それほどの主人の怒りを招くということです。そして、家を追い出されたのでしょう。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろうと‥‥。泣きわめいて歯ぎしりする、というのは、全然悔い改めていない証拠です。
 
   教会に対して言われている
 
 さて、このたとえ話が何をたとえているかということです。まず、これまでの話の流れからいって、これは世の終わりとキリストの再臨のことをたとえていると言えます。したがって、この「主人」とはキリストのことをたとえているということになります。そうすると、主人がどこかに出かけて行ったというのは、キリストの昇天のことをたとえていると言えるでしょう。
 次に、使用人たちの上に立てた「僕」とは何を指しているかということですが、これは僕仲間の食事の世話を任されていますので、このたとえ話を聞いている弟子たちのことをたとえていると言えるでしょう。ですから、それは教会のことをたとえているといっても良いと思います。つまりこのたとえ話では、一般の人々のことをたとえているというよりも、キリスト・イエスさまを信じた人たちに教えておられると言えます。
 主人が旅に出る。つまり、このあと間もなく起こることですが、イエスさまが十字架と復活を経て天に昇られる。‥‥もちろん、このときはまだ弟子たちはイエスさまの十字架も復活も知らないわけですが。‥‥そして聖霊が降臨して教会が誕生する。その教会がどうあるべきか、ということを教えておられるのです。主人である、イエス・キリストが再びお出でになる再臨の時を待ちつつ、忠実であるように、と。
 しかし実際のキリスト教の歴史は、ここに書かれている悪い僕のようであったことが少なくありません。たとえば、キリスト教がローマ帝国の迫害が終わって、やがてヨーロッパ中に広がり、国教となっていきます。そして中世になると、西ヨーロッパでは教会が時の政治も左右するほどの大きな力を持つようになります。すると腐敗が始まりました。ときどき未信者の方から言われることの1つに、「キリスト教は『十字軍』のような誤りを犯してきた」というものがあります。私もそう思います。イエスさまの名前を、異教徒と戦争をするために使うなどということは、私たちの信仰からしたら、ありえないことです。しかしそういうことが実際にあったわけです。「免罪符」もそうです。正しくは免罪符は「贖宥券」と言うそうですが、大聖堂を建てるために、お金を出すことによって罪の償いができると教えるなど、これもありえないことです。
 それらのことは、聖書を正しく読めば、イエスさまの教えとは相いれないことは明らかです。教会が傲慢だったんです。あたかも自分たちが主人になってしまったかのように、勝手なことをし始め、おごり高ぶった結果だと言うことができます。自分たちが主の僕であること、そして謙遜になって常にイエスさまのみことばに耳を傾ける、ということを忘れてしまったんですね。そのみことばを取り戻すために始まったのが宗教改革であり、そこから生まれたのがプロテスタント教会です。
 しかし、私たちプロテスタント教会も、謙遜になって神の御言葉に耳を傾けないならば、同じ過ちを犯す危険と常に隣り合わせであることを忘れてはなりません。たとえば都市部の比較的規模の大きな教会にありがちなのが、イエスさまが教会に与えられた使命である伝道ということを忘れて、自分たちが楽しくやっていければ良いというような考えになってしまうことです。そのようなことを考えると、前回の個所でイエスさまがおっしゃったように、教会は常に「目を覚まして」いなければなりません。
 
   誤解される読み方
 
 さて、このたとえ話を読んで、「なぜ主人であるキリストに忠実であろうとするのか」ということを考えてみたいと思います。それは、このたとえ話を読んで、多くの人が誤解をするからです。なにをどう誤解するかというと、いつキリストが再臨されるか分からないから、キリストの言われるとおり忠実にしておれ、というたとえ話であるという誤解です。つまり、いつキリストが再臨されて、よろしくない所を見られて罰を受けるかもしれないから、ちゃんとしていろ、という読み方です。聖書の解説書の中にも、そのように解釈しているものが多くあります。
 もしそうだとすると、キリスト信仰というのは、罰が怖いから、信心に励めということになってしまうと思います。それは「福音」、すなわち「喜ばしい知らせ」と言えるのでしょうか? そうすると、キリスト信仰というのは、結局のところカルト宗教や「偽善者」と変わらないのではないか。カルト宗教というのは、脅して信者を駆り立てようとします。あるいはまたこれは、監視カメラや防犯カメラがあるところでは善人を装うが、そうでない所では万引きをしたり、平気でゴミを捨てるというのと、あまり違わないことになると思います。
 キリストが再臨されたとき、ちゃんとしていないところを見られたら、ひどい罰を受けるから、マジメにしている。それは、心から神とキリストを信じていると言えるのでしょうか?
 きょうのたとえ話の最後のところで、イエスさまが「彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる」とおっしゃっています。この「偽善者」という言葉は、ギリシャ語では「役者」という意味であるということを前に申し上げました。役者というのは、その役を演じているわけです。本来の自分ではないが、演じている。そしてイエスさまは、この偽善者という言葉を、当時の宗教指導者であったファリサイ派と律法学者の人たちに対して使われました。それと同じだというのです。
 心から神を信じていない。しかし、罰が怖いから信じることを演じている。それを、演じているとしたら、疲れ切ってしまうでしょう。ありのままの自分の姿ではないんですから。いつ主人が帰ってくるかも分からないから、常に緊張していろよ、ということであれば、常にストレスを受けていることになります。ここでイエスさまがそういうことを言われていると考えるのが、大きな誤解なんです。
 
   何がたとえられているのか?
 
 私たちの信仰というのは、脅されて信じるのではなく、感謝して信じるはずです。脅されてキリストという主人に仕えるのではなく、感謝して仕えるはずです。
 ですから、このたとえ話を通してイエスさまがおっしゃりたいのは、「偽善者であるファリサイ派と同じような信仰になるな」ということでもあります。見せかけは敬虔に信じているように見える。しかし本心はそうではない。信じて仕えているふりをしている、演じている。なぜ演じているかといえば、神の罰、キリストの罰が怖いからだと。それでは、律法主義者であるファリサイ派や律法学者と同じであるということです。
 イエスさまが求めているのは、そのような演じている信仰ではない。キリストによって罪を赦されて、救われていることへの感謝の信仰です。罰が怖くて主にお仕えするのではない。すばらしい神とキリストを知って、感謝をもってお仕えするのです。
 
   赦された喜び
 
 この私のような者でさえもキリストは赦して、救ってくださった。私たちはそう信じています。そのように言うと、「では、何をしても赦されるのか? どうせ赦されるのだから、何をしても良いのか? このたとえ話の悪い僕のように、仲間を殴り、教会を破壊するようなことをしても良いのか?」という質問が必ず出てきます。
 そうすると私は、椎名麟三(終戦後活躍した作家)が『私の聖書物語』という本で書いていることを思い出します。椎名麟三は、戦前に共産党に加わり、それで逮捕されて牢屋に入れられますが、転向して牢屋から出ます。彼は、失意と苦しみの中に置かれるのですが、そういうときにドストエフスキーの小説『悪霊』を読みます。その中で、スタヴローギンというニヒリズムの権化のような男がキリーロフという男を訪ねてきます。キリーロフは、人間はすべて許されているという。それでスタヴローギンは、その彼を追求して、それでは、子どもの脳みそをたたき割っても、少女を陵辱しても良いのかと尋ねます。それに対してキリーロフは、それも許されている、ただ「すべてのことが許されているとほんとうに知っている人間は、そういうことをしないだろう」と答える。‥‥そのところで椎名麟三は心を打たれるわけです。キリーロフが言った、「すべてのことが許されていると本当に知っている人間は」という言葉と、「そういうことをしないだろう」という言葉の間には、深い断絶がある。そしてふしぎなことに、この断絶から、何やらまぶしい新鮮な光がサッと私の心に射すのであった‥‥と椎名麟三は書いています。
 八方塞がりで、生きていく道を失った椎名麟三には、そのキリーロフの言葉が、自分の知らない道を暗示している気がして、いつまでも心に残ったのでした。そしてこう書いています。「この『すべてを許されていると本当に知っている人間は』が『そうする』ではなく、『そうしないだろう』と転換する点に実はキリストが立っているのであり、このような転換はキリストにおいてだけ可能だと知ったのはずっと後のことであった。」
 この私の罪と過ちのすべてを、キリストはほんとうに赦して下さっている。そのしるしが十字架である。‥‥このことを本当に知ったとき、私たちは感動し、感謝せずにはおれないのです。そして、よろめく足でも良いから、イエスさまに従って行きたいと心から願う。それは、罰が怖くて従って行くのではありません。こんな私をも赦して迎えて下さるキリスト、そのためにご自分の命までも十字架でささげてくださったキリストに感謝して、従っているのです。


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