2021年7月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記7章16
    マタイによる福音書24章36〜44
●説教 「思いがけない来訪者」

 
   世の終わり
 
 世の終わりがいつ来るのか、ということは、やはり多くの人の関心を集めることに違いありません。もう30年近く前のことになりますが、当時私がいた教会に1通の手紙が届きました。封筒を見ると、韓国に本部があるという、ある団体の名が記してありました。中に入っていたパンフレットを見ますと、今年の10月某日にイエスさまが再臨する、と書かれていました。そして、この世が終わるのだと記されていました。ちなみにこの手紙は、どの教会にも送られてきたようです。
 そのパンフレットを読んだときに、私がまず思ったのは、「なぜこの人たちは、イエスさまの再臨の時を知っているのか?」という疑問でした。そして「これは嘘だ」と思いました。なぜなら、今日の聖書でイエスさま御自身が、「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃっているからです。「天使たちも子も知らない」と書かれているその「子」というのは、もちろんイエスさまのことです。ですから「イエスさまも知らないことを、なぜこの人たちは知っているのか?」と思ったのです。だから「これは嘘だ」とすぐ分かりました。
 パンフレットによれば、その年の10月某日にキリストが再臨されることは、その団体の教祖に預言があったというのです。そして、しばらくして、その10月某日がやって来ました。するとやはりキリストは再臨なさらず、世も終わりませんでした。
 翌日、その模様がテレビのニュースで報道されていました。その本部があるという建物の様子が映されていました。彼らの預言とやらでは、前日の夜中の12時にキリストが再臨されるという予定でした。それを前にして、その団体の信者さんたちが、続々とその団体の建物に集まってきました。身辺整理をして、家族を連れて集まってくるのでした。みんなイエスさまが再臨するという喜びにあふれた顔をしていました。そうしてその建物の中で、刻々と迫る時間の中、みんな賛美を歌ったり、祈ったりしてその時を待っているのです。おもしろいのは、その様子を多くのテレビ局のカメラが、まるで芸能人の婚約発表の会見か何かのようにまわりで撮影している点でした。そうしてついに予定の夜中の12時になりました。ところが何も起きない。すると次に何が起こったかというと、それまで祈ったり讃美歌を歌ったりしていた信者たちが、その団体の幹部とおぼしき人たちにつかみかかり、けんかが始まったのです。「家・財産を処分してきたのに、どうしてくれるのか!」ということでしょう。
 そのようにして、聖書を勝手に解釈して、人々を間違った道に導く教えは、今もいろいろあるようです。
 
   時は神のもの
 
 ただ今の例のように、世の終わり、キリストの再臨というと、それは「いつ起こるのか?」ということに強い関心を持ちます。イエスさまの弟子たちも同じでした。
 そのことに対して、きょうの個所でイエスさまは、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃっています。そして、先ほど申し上げたように、そこで言われている「天使たちも子も知らない」の「子」とは、神の子であり人の子であるイエスさまのことを指す言葉ですから、イエスさまも知らないとおっしゃっているわけです。
 イエスさまも知らないと言われると、私たちは不思議に思います。父なる神と、イエス・キリストとは、聖霊と共に三位一体の神ではなかったか?と。イエスさまは、たとえばヨハネによる福音書の14章では、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とおっしゃり、また「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられる」(同14:10)とおっしゃいました。それほど、父なる神とイエスさまとは固く結びついているはずです。なのに、なぜ父なる神さまは知っておられて、イエスさまは知らないのか? 父なる神さまが、世の終わりとイエスさまの再臨については教えてくださらないのだろうか?‥‥そのように不思議に思います。
 しかし、それはこういうことだろうと思います。すなわち、イエスさまが、父なる神さまに「いつ終わりが来るのか」という細かい時をお尋ねにならないのであろうと。それは父なる神のお決めなさることであって、その父なる神さまにすべてをゆだねておられるということだと思います。父なる神さまへの全面的な信頼ですね。
 ここに私は、神にゆだねるという信仰の見本を見る思いがいたします。私たちにも分からないことが多い。終わりの時がいつ来るのか、ということだけではなく、信仰生活において分からないことがいろいろ起きてきます。たとえば、「神を信じているのに、どうしてこのような不幸なことが起きるのか?」というようなことです。それはすぐには答が与えられないかもしれない。しかし、神さまが私たちを愛してくださっていることを信じて、ゆだねる。そのように神を信頼してゆだねる信仰の見本がここにあると思います。
 私たちは、すぐに、世の終わりがいつ来るのか?ということに最大の関心を持つ。しかし、それはイエスさまもご存じない。そしてすべてを父なる神にゆだねておられる。だから私たちも、神さまを信頼して、お任せするべきだと言われていると思います。
 
   一人は連れて行かれ、一人は残される
 
 さて、そこでイエスさまは、ノアの箱舟の例を挙げられ、そして「人の子」、すなわちイエスさまが再臨されるときも、同じようであると言われます。つまり、それまでは平凡な日常生活を送っていた。しかし突然その時はやってくるのだと言われます。40節〜41節では、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」とおっしゃっています。
 「連れて行かれる」というと、なにか誘拐されるかのように聞こえますが、この「連れて行かれる」という言葉は、ギリシャ語では「受け入れられる」とか「迎え入れられる」という意味の言葉が使われています。ですから「一人は迎え入れられ、もう一人は残される」というように日本語に訳すこともできます。つまり、一人は神に迎え入れられ、一人は残されるという意味です。迎え入れられるというのは、もちろん、神の国に迎え入れられるということです。すなわち、世の終わりのキリストの再臨というものは、キリストが神の国に迎え入れるために来てくださる時ということになります。
 同じ場所にいて、同じことをしていたのに、一人は神の国に迎え入れられ、一人は残されるという。私たちは、世の終わりというと、最初に申し上げましたように、それは「いつ」来るのか?ということをすぐに考えます。そして次に、「どこに」逃げたら、破滅から逃れることができるのか?と考えるだろうと思います。たとえば、巨大な隕石が地球に衝突するらしいと言われれば、「どこに逃げたら良いのか?」と思うでしょう。ましてや、世の終わりと言われれば、「どこに」逃げたら良いのか?と思うでしょう。
 しかしここでは、それぞれ二人は同じ場所にいたんです。だから、地理的に「どこの場所に逃げたらよいのか」と考えても、全くムダだということになります。アメリカに逃げても、アフリカに逃げても同じことになります。洞窟に逃げたらよいとか、ジャングルに逃げたらよいとか、そういう問題ではないことが分かります。
 ではどうしたらよいのか?ということですが、それは、キリストを信じるということです。言い換えれば、キリストの所に逃げ込むということです。このたとえで言うと、一人はキリストを信じた。しかしもう一人は信じなかった。そういうことになります。したがって、世の終わりに際しては、地球上のどこかの場所に逃げるということではなく、イエスさまを信じるということが必要であることになります。
 
   ノアの洪水の時のように
 
 イエスさまは、「ノアの時と同じだ」とおっしゃっています。ノアの箱舟で有名な大洪水。その出来事は旧約聖書の創世記の6章から書かれています。
 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪い事ばかりを心に思い計っているのをごらんになって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6:6)と聖書に書かれています。そして大洪水が起きるわけですが、主なる神を信じて従うノアとその家族を救うために、大きな箱舟を造らせます。それがノアの箱舟です。陸上に大きな箱舟を造るノアとその家族。おそらく、ノアは人々に対して最後まで大洪水が来ることを語り、いっしょに箱舟を造るよう呼びかけたことでしょう。そして箱舟ができてからも、雨が降り始めるまでに、箱舟に乗るようにみんなに呼びかけたことでしょう。しかし人々は、手伝わなかったし乗らなかった。ばかばかしいと思ったでしょう。箱舟に動物たちが入り、ノアとその家族も入った。おそらく最後の最後まで、ノアは、この世の人々に呼びかけたのだろうと思います。神の言葉を信じるように、と。
 しかし、箱舟の戸が閉ざされるときが来ました。最初に読んだ聖書、創世記7章16節には「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」と書かれています。主なる神が箱舟の戸を閉ざされたと書かれています。そうすると、もう誰も船に乗ることができない。そういう時が来たんです。
 キリストの再臨と世の終わりの時も、永遠に先ということではない。いつかは終わりが来る。それは、私たちの人生に必ず終わりの時が来るのと同じです。私たちには、神とキリストを信じるために、永遠の時間が残されているわけではないということです。その時が来る。そして、一人は連れて行かれ、一人は残されるようなことになると言われる。これは、悔い改めて神を信じるようにとの、キリストの招きの言葉です。
 
   目を覚ましているとは
 
 「だから目を覚ましていなさい」(42節)と、イエスさまはおっしゃいます。キリストの再臨は、思いがけないときに来るからだと。
 目を覚ましていなさい。この言葉は、ここでは準備をしていなさいという意味で使われています。それで、泥棒を警戒している主人にたとえられています。「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」と。キリストの再臨を、泥棒を警戒することにたとえておられるのは、イエスさまがご自分を泥棒にたとえられているようで、ドキッとしますが、これは「目を覚ましている」ことのたとえとして言われているわけです。たしかに、いつ泥棒が家に入ると知っていたら、泥棒に入られることはないに違いありません。ちゃんと備えをすることができるからです。しかし実際は、いつ泥棒が入るかは分からない。だから常に備えをしておくことが必要だ、ということになります。
 それと同じように、いつキリストが再臨されるかは分からない。この言葉をおっしゃっているイエスさまご自身が知らない。父なる神が、その時を定めて、ある日突然イエスさまを再び地上にお遣わしになる。そして世の終わりが来るという。それに備えておきなさい。目を覚まして準備をしていなさいと言われるのです。
 むかし、ある牧師が、「私は、いつキリストの再臨があってもいい。明日世の終わりが来ても大丈夫」と言いました。私はそれを聞いて、「ずいぶんすごいこと言うなあ」と思いました。そして、「俺はダメだなあ。今キリストの再臨があったとしたら、『イエスさま、今はダメです。もうちょっと待ってください』と言いたくなるなあ」と思いました。自分は、いつも中途半端な信仰しかないし、品行方正でもない、善行に励んでいるわけでもない。がんばっているわけでもない。だから、ダメだと思ったのです。そして、その牧師は傲慢なことを言っているように聞こえたものです。
 しかしのちに、それは決して傲慢ではないことに気がつきました。「目を覚ましている」ということが、いつも立派に良い行いをしていなさい、ということだとしたら、私には希望がありません。今、イエスさまの再臨があったとしたら、絶望しかありません。一巻の終わりです。
 しかし、わたしは「福音」というものがまだよく分かっていなかったんです。「福音」とは、「喜ばしい知らせ」という意味です。イエスさまがなぜこの世に来られ、そして十字架にかかられたかを思い出したいのです。それは、罪人を救うためです。(マタイ9:13)「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 もしイエスさまが来られ、十字架にかかられたのが、「正しい人を招くため」であったとしたら、わたしには希望がありません。しかしイエスさまは、「罪人を招くために」来られたとおっしゃいました。そこに大いなる希望があります。こんな私のような者でも招かれている。このことを忘れないで、イエスさまに感謝を献げることこそが、何よりの準備であるということができます。


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