2021年6月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書7章13〜14
    マタイによる福音書24章15〜31
●説教 「キリストの再臨」

 
   世の終わりについて
 
 本日の聖書箇所で気になるのは、15節の終わりにある「読者は悟れ」という言葉でしょう。この言葉はイエスさまの言葉ではなく、この福音書を書いたマタイが挿入した言葉であると考えられています。わざわざそのように注を入れたということは、その言葉の表面的な意味ではなく、そこに込められた真実の意味をよく考えなさいということでしょう。
 また、わざわざそのような言葉を挿入したということは、世の終わりということが、以下に多くの人々の関心を集め、また誤解されやすいことであるかということを物語っているとも言えるでしょう。
 24章3節からイエスさまが語っておられる教えは、オリーブ山の教えとも呼ばれています。エルサレムの都の門を出て、東側にあるオリーブ山。エルサレムの町と神殿がよく見えるその場所に、イエスさまはお座りになって、弟子たちの質問に答える形で、世の終わりについて教えられたのが、このオリーブ山の教えです。
 前回の個所では、世の終わりに起きる出来事として、具体的なことをお話しになりました。エルサレムの神殿が破壊されること、多くの偽メシア(偽物の救い主)が登場すること、戦争と戦争のウワサを聞くこと、民族間・国家間の対立があること、キリスト教会が迫害され、殉教者を出すこと、偽預言者がおおぜい現れること、不法がはびこり愛が冷えることを語られました。そして、そのような中で、イエスさまの福音が世界中に宣べ伝えられることを語られました。そして、それから終わりが来るとおっしゃいました。すなわち、世の終わりについてのあらすじを予告なさったと言えるでしょう。
 
   今回の強調点
 
 そして今日の所では何が語られているかというと、やはり世の終わり、終末について語っておられるのですが、同じことを繰り返して言われているのではなく、私たちが注意すべきことについて教えられていると言えるでしょう。
 まず初めに「逃げなさい」ということが語られています。そして偽メシア、私が救い主だというようなことを語る偽物に惑わされないようにということが言われています。そして、世の終わりということは、同時にイエスさまが再び来られるということであることが、ここではっきりと語られています。世の終わりに再びイエスさまがお出でになる。これを「キリストの再臨」と言います。つまり、世の終わりは一巻の終わりではなく、キリストが再びお出でになって、御心にかなう人々を救われる時であるということがはっきりいたします。
 したがって、そのようにキリストが再臨なさって、言わば救いが完成する時を希望をもって見つつ、注意を払って歩みなさいということが、今日のイエスさまの教えであるということができます。
 
   逃げるべきこと
 
 さて、今日の聖書箇所の最初の所ですが、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら・・読者は悟れ・・」とあります。
 その「憎むべき破壊者」の予言というのは、ダニエル書11章31節とか、12章11節などに書かれています。そしてその予言とは、イスラエル人がもっともたいせつにしていたエルサレムの神殿が汚されることを予告したのだと考えられています。実際、過去にそういうことがありました。紀元前2世紀、ユダヤを支配したシリアの王アンティオコス・エピファネスという人は、エルサレムの神殿にギリシャのゼウス神のための祭壇を作りました。エルサレムの神殿は、言うまでもなくイスラエル・ユダヤの信仰の中心で、聖書に証しされた唯一の神のみを礼拝する、もっとも聖なる場所でした。そこに、異教の偶像のための祭壇を築き、そこに律法で禁じられている豚を犠牲として献げました。さらに、神殿の建物に娼婦の部屋を作ったといわれます。それが結局ユダヤ人の怒りを呼び覚まし、戦争につながった。そういう過去がありました。
 ここでイエスさまがおっしゃるの「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たなら」という言葉は、そういうことがまた起きる、というふうにも読めます。実際に、このイエスさまがおっしゃった時から30年以上経って、ユダヤ人はローマ帝国に対して反乱を起こしました。ユダヤ戦争といわれるものです。ユダヤ人はエルサレムに立てこもりました。そして西暦70年、エルサレムはローマ軍によって陥落しました。古代の著述家のヨセフスによると、エルサレムが陥落した時、市内には飢えて死んだ人の遺体が2千以上あったそうです。エルサレム市内に踏み込んだローマ兵は、そのあまりの悲惨さに、ぼう然と立ち尽くしたといいます。そのような悲劇の原因は、一人の偽預言者が「神殿に上れば助かる」と公言したことにあるといいます。たしかにユダヤ人にとっては、エルサレムの神殿はもっとも聖なる場所であり、神が臨在される場所に違いありませんでした。しかしその神殿にすがった結果、悲惨な結末を迎えたのです。そして神殿は破壊されました。
 現在、その神殿のあった場所にはイスラム教のモスクが建っており、ユダヤ人たちは、発掘された神殿の壁、いわゆる「嘆きの壁」で、神殿の再建を目指して祈っているというわけです。
 それに対して、イエスさまは16節に書かれているように、「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と言われました。それで、ユダヤ戦争の時、ユダヤ人でもキリスト信徒はエルサレムの都に立てこもらず、逃げたと言われています。
 人間は物に頼ろうとします。神殿にすがりつけば大丈夫、お守りをもてば大丈夫‥‥という具合です。しかしイエスさまは、そのような物に頼るのをやめなさい、とおっしゃっていると思います。だから「逃げなさい」と言われる。
 
   この世から天の国へ脱出する
 
 しかし、いっぽうで、イエスさまの言われた「逃げなさい」という言葉は、実は深い意味が隠されている。それが最初に申し上げた15節の「読者は悟れ」という言葉が重みを持ってくることだと思います。
 たとえば、旧約聖書において、神の裁きによって滅びた町がありました。それが有名なソドムとゴモラの町です。旧約聖書の創世記19章です。神は、罪と暴力で満ちていたソドムとゴモラの町を滅ぼされました。ソドムには、アブラハムの甥っ子であるロトとその家族が住んでいました。神は、その町を滅ぼされる前に、ロトとその家族を助けるために御使いを遣わされました。御使いは、ロトと妻と2人の娘を町から連れ出して言いました。
(創世記 19:17)「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。」
 それでロトたちは逃げて行きましたが、途中で町の様子を見ようとして後ろを振り向いたロトの妻は、塩の柱になってしまいました。‥‥有名な物語です。
 世の終わりというと、人々は、核戦争によって滅びるだろうとか、大きな隕石が地球に衝突するのではないかとか、あるいは環境破壊によって滅亡するとか、そのような現象面だけを注目します。たしかにソドムの町が滅びた時も、神が天から硫黄の火を降らせて町が壊滅したと書かれています。
 しかし創世記の、そのソドムの町の滅亡の物語は、滅びる町から出て行けばよいと言うことを教えているのに過ぎないのでしょうか? 地球が環境破壊によって滅びるから、火星に移住すれば良いというようなことでしょうか? イエスさまがおっしゃった「逃げなさい」「読者は悟れ」といわれるのは、そういうことなのでしょうか?
 
   天路歴程
 
 そこで思い出すのが、『天路歴程』という小説です。これは17世紀にジョン・バニヤンという人によって書かれました。プロテスタントの書物としては、聖書以外でもっとも売れた本と言われるほど読まれてきた小説です。皆さんの中にも読まれた方がおられることと思います。
 『天路歴程』は、ある男が自分の町を出て行って、永遠の命を与える天の都を目指して旅をするという物語です。物語は、ある男がボロを着て、背中に重荷を背負って一冊の書物(聖書を暗示)を読んで涙を流し、身を震わせるところから始まります。そして自分たちの住んでいる町が、天からの火で焼かれて滅亡するということを知り、苦しみます。家族の者に話すと、妻も子どもも理解してくれず、逆に彼がおかしくなってしまったと思うのです。どうしたら良いか、どこに逃れて行ったらよいのか、分からずにいると、男は伝道者に会います。すると伝道者は、向こうの方を指さし、輝く光が見えるか?と問います。男が「見えるように思います」と答えると、「あの光から目を離さないで、まっすぐ登って行きなさい‥‥」と言います。それで男は、家と町をあとにして旅を始めます。家族が止めるのも聞かずに、走り始めます。町の人々は、ある者はあざけり、ある者は脅かし、またある者は引き返すように叫ぶ。しかし彼は、進んでいきます。この男は「基督者」と名付けられます。そしてこの基督者は、途中のさまざまな困難や試練、悪魔の誘惑を、さまざまな助けを受けて、乗り越えながら、天の都へと向かっていきます。‥‥そのような物語です。
 この『天路歴程』の物語は、実際にこの地上のあちこちを旅したようにして書いていますが、実際に言いたいことは、そうではありません。人間の魂の物語、心の内面を旅に見立てて書いているわけです。すなわち、このままでは自分は滅びてしまうということに気がつき、聖霊の導きによって、天の都に向かって旅をしていく。この人間の信仰の旅の物語を描いているのです。
 その天の都、神の国を目指しての旅は、「逃げ出す」ことから始まります。それまでの自分から出ていくのです。『天路歴程』の基督者が、家族が止めても近所や町の人がとめたり、嘲ったりしても、歩み出す。それはまさに、ソドムの町を急いで脱出するように言った神の御使いが「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言ったようにです。
 今日の聖書箇所でも、イエスさまが17節で「屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない」とおっしゃっています。直ちに逃げよ、と。滅びの町から。キリストを信じるということはそういうことだろうと思います。
 私が以前牧会した教会で、80歳を過ぎてから教会に来始めて洗礼を受けた人がいました。その方のご両親もクリスチャンだったのですが、その方は「自分は80歳になったら教会に行く」と決めていたのだそうです。なぜ80歳までは教会に来なかったかというと、日曜日はゴルフをしていたかったからだそうです。だから80歳までは日曜日も遊んでいて、80歳になったら教会に行くと決めていたそうです。実際に来始めたのは82歳になってからでしたが。それでも、亡くなる前に教会に来て洗礼を受けて、まだよかったのかもしれませんが、そういう問題ではなく、「キリストを信じて生きるということは、日曜日にゴルフで遊ぶよりも、もっとすばらしいのになあ」と私は思ったものでした。
 
   再臨のキリスト
 
 世の終わりが近づくと、いろいろと人を惑わす人が出てくると言われます。いろいろな人が、自分が救い主であるとか神であるとか名乗って惑わそうとすると。しかし、本当にイエスさまが来られた時には、誰の目にも分かる形で来られると、おっしゃっています。
 その時、地上の人々は悲しむと言われています(30節)。なぜなら、キリストが再臨された時、そのキリストは、自分たちを罰する者であるとしか思えないからです。
 しかし私たちにとってはどうでしょうか。キリストの再臨は喜び以外の何ものでもありません。なぜなら、その方は、この私を救うために、この私の罪をつぐなうために、十字架にかかってくださった方だからです。イエスさまは、こんな私のような罪人を救うために、ご自分の命を十字架で捨ててくださったからです。そのお方が、私のような者を天の都に連れて行くために、迎えに来てくださる。感謝というほかはないのです。


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