2021年6月20日(日)逗子教会主日礼拝説教
●聖書 ルツ記1章16〜17
    マタイによる福音24章1〜14
●説教 「愛なき時代の愛」

 
   世の終わり
 
 本日の聖書箇所から、しばらくの間、世の終わりに関することが教えられています。
 世の終わりというと、たいへんセンセーショナルな言葉です。私たちは、自分の人生の終わりというよりも、世の終わりと言われた方が、何か不安に思うのではないでしょうか。
 世の終わりというと、たとえば「世界終末時計」というものを思い出される方もいるでしょう。アメリカの『原子力科学者会報』という雑誌の表紙に描かれている絵です。それは世の終わり、つまり終末までの残り時間を時計にしています。その時計の針は、原水爆実験や、冷戦など世界戦争の危機が迫るたびに進められてきました。現在では環境破壊なども考慮されるそうです。ちなみに、その世界終末時計の世の終わりまでの残り時間は、現在は「100秒」になっているそうです。たしかに、世界に何万発という核兵器が現存する以上、常に破壊的な核戦争の危機はあるに違いありません。
 また、私の若いころは、「ノストラダムスの大予言」なるものが流行しました。それによると、1999年7月に人類が滅びるというものでした。それは一大ブームを引き起こしました。しかしその時に人類は滅亡しませんでした。しかしその本が流行し、映画まで作られるほどに人々の関心を呼びました。
 ところで、聖書は、始まりと終わりがあることを書いています。聖書は、世の始まりを書いた創世記から始まって、世の終わりについて記したヨハネの黙示録で終わっています。つまり聖書の中の書物が、時間の初めから終わりの順にならんでいます。そのように、はじめがあって終わりがある。それが聖書の時間軸です。
 しかしこのような考え方は、むかしは一般的ではなかったようです。たとえば古代ギリシャでは、時間は円環的で、初めもなく終わりもない。ちょうど円が初めもなく終わりもないように、ぐるぐる回っているというような考え方です。
 それに対して、聖書は、初めがあって終わりがある、直線的な歴史を描いています。この考え方は、古代世界で見たら荒唐無稽なことであったかもしれません。
 しかし、現代では宇宙の研究が進歩して、この宇宙には始まりがあったことが明らかになっています。ビッグバン説です。この無限に広く見える宇宙も、今から百数十億年前に、ごく小さな一点から始まったのであるということが明らかになりました。そして地球にも、だいたい十億年後ぐらいに終わりがあるらしいようです。初めがあって終わりがある。このことが、荒唐無稽どころか本当だったということになっています。
 しかし、聖書が記しているのは、そのような仕方での終わりではありません。聖書が私たちに伝えることは、この世界が神によって始められ、神によって閉じられる終わりであるということです。無機質に終わるのではないんです。神の手に帰するということです。そこに私たちに対するメッセージがあります。
 
   予告
 
 今日の聖書箇所ですが、イエスさまが神殿の境内を出て行かれたところから書かれています。ここまでエルサレムの神殿の中での教えがありました。それを終えて、エルサレムの町を出て行かれた。オリーブ山の方に向かって、町の東側の門から出て行かれたようです。そうやって町を出ると、神殿の全貌が見えるんです。
 すると弟子たちが近寄ってきて、神殿の建物を指さしたと書かれています。マルコによる福音書の同じ場面の所を見ると、弟子が「先生、ご覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう」と言ったと書かれています。この神殿は、第二神殿と呼ばれ、ヘロデ大王が拡張した神殿で、それはみごとで大きく立派な神殿でした。それはまた、ユダヤ人にとって自慢の建物でもあったでしょう。私たちは、このようなみごとな神殿で神さまを礼拝しているんだと。
 ところがそれを聞いたイエスさまが、その神殿が壊滅するということを予告なさる所から始まります。弟子たちは神殿の崩壊を聞いて、まさかと思ったでしょう。しかしこの神殿は、歴史的に実際に、このあと40年ほどして、ローマ帝国によって破壊されてしまうんです。
 
   世の終わり
 
 それで弟子たちは、イエスさまがオリーブ山に座っている時に、世の終わりについて質問をしました。それに対してイエスさまが答えられたのです。
 そもそも、世の終わりがなぜ来るのでしょうか? 言い換えれば、なぜ神さまはこの世を終わらせられるのでしょうか?
 それはこの世が罪にまみれているからです。神さまは最初天地を創造された時、極めて良く作られたと創世記に書かれています。しかしそれを悪くしてしまったのは、人間であることを同時に書いています。人間には自由意志が与えられていました。その自由な意思によって、神を信じ、隣人を愛することが期待されていました。しかしそれがサタンの誘惑によって、罪を犯しました。自由意志を、悪いほうに、神さまにそむくほうに使ってしまったのです。そうして、世界は人間によって悪いほうへ進んでいきました。そして私たち人間自身が、罪によって苦しむようになってしまったのです。
 それを、もう一度最初の極めて良い状態へと戻すために、神は歴史に介入されました。そして最後に、この世を終わらせられるというのが聖書の書いているところです。罪のこの世を終わらせるのです。しかしそれは一巻の終わりではなく、新しい世界への入り口でもあるということを聖書は教えています。そのための世の終わりです。
 ここでイエスさまは、世の終わりに向かってどんなことが起きるかということを語っておられます。イエスさまの名前を名乗る人が現れ、「私がメシアだ」、すなわち救うことができるというようなこと言って多くの人々を惑わすだろうと。たしかにそのような人が、現代になっておおぜい出てきています。「私こそ再臨のメシアである」とか「神である」と語っている人が何人も出てきています。皆さんにも思い当たることがあるでしょう。
 されに、戦争が起こったり、戦争のウワサを聞くだろうと言われます。戦争が起きると「もう世の終わりだ」と思うけれども、まだ終わりは来ない、慌てるなとおっしゃいます。民は民に、国は国に敵対して立ち上がると言われます。民族同士、国同士の憎しみ合いが高まるのです。そのような人間が引き起こす戦争や争いだけではありません。ほうぼうに飢饉や地震が起きると言われます。そうすると、「いよいよ終わりか」と思うけれども、まだ世の終わりは来ない。それどころか、それらのことは「すべて産みの苦しみの始まりである」と言われます。
 「その時あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。」
 これは迫害の予告です。どうして真の神さまを信じ、隣人を愛そうとする者が迫害されるのか。しかし実際に歴史上、迫害が起きてきました。このときイエスさまのおそばにいた使徒たちは、ヨハネと自殺をしたイスカリオテのユダを除いて、みな殉教しました。キリストを宣べ伝えたために殉教したのです。たしかにイエスさまの言葉通りになりました。また、その後ローマ帝国時代は、約250年間の間に多くのキリスト教徒が殉教しました。日本でも、江戸時代に多くのキリシタンが迫害によって殉教しました。どうしてそのような迫害が起きるのか。それは、この世が罪の世の中であるからです。
 更にイエスさまは、多くの人々がつまづき、互いに裏切り、憎み合うような世の中になると予告なさいます。偽預言者、つまり、神ではないものの言葉を神の言葉であると偽って語る者が横行すると言われます。これもまた実際にその通りになっています。
 
   愛が冷える
 
 そして「不法がはびこるので愛が冷える」と言われます。何かこう、心が痛むと申しますか、耐えられないような言葉です。幼子は愛がないと生きていけません。それと同じように、愛がない社会で生きていくのは、とてもつらく苦しいことです。誰も助けてくれる人はおらず、信頼できる人はおらず、人を見たら泥棒と思え、というようなことになる。お互いに自分のことで精いっぱいで、見て見ぬふりの世の中です。実際に、この言葉の通りになって来ていると、多くの人は思うのではないでしょうか。たしかにイエスさまのおっしゃるとおり、愛のない世の中になって来ていると思います。
 
   愛なき時代の愛
 
 では、真実の愛はどこにもないかと言えば、あるというのが聖書の答です。どこにあるかと言えば、この言葉を語られたイエス・キリストにあるのです。
 愛のない人々、罪人を救うために、このあと十字架へ向かわれるのがイエスさまです。愛のない人々を救い、ご自分を憎む者を救われるんです。それが本当の愛です。
 たとえば、パウロという人は、教会が誕生したあと、その教会を激しく迫害しました。老若男女の別なく、キリスト信徒を摘発し、訴えて牢に入れていました。しかしイエスさまは、すでに天に昇られていましたが、その天から声をかけられ、パウロを回心させました。そしてそのパウロを、異邦人の使徒としてお用いになり、世界に向かってキリストの福音を宣べ伝えるように導かれました。これがキリストの愛の表れの例です。
 そしてそのキリストの愛は、愛が更に冷えた現代においても変わることはありません。何よりも、この私自身が信仰に導かれたことがその証拠です。私はキリストによって、命を救われながら、その後キリストも神も信じなくなり、好き勝手なことをし放題の男でした。そして死にかけました。しかしそんな、救う値打ちのない罪人である私の叫びを聞かれ、主は救ってくださったのです。そしてキリストのもとへ導いて下さったのです。そういう意味で、私たち自身が、キリスト愛の証人です。愛が冷えた、愛なき時代において、ここに愛があるというのがキリストの十字架です。
 そもそも、なぜ世の終わりはすぐに来ないのかということです。愛が冷え、さらに人々の間の不信や憎しみが高まっていくのなら、なぜもっと早く世を終わらせて下さらないのかという疑問を持たれることでしょう。それについては、ペトロの手紙二3章9節が答を与えていてくれます。
 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
 皆が悔い改めて、真の神を信じるように、キリストを信じるように、待っておられると言われているのです。ここにもキリストの愛が現れています。キリストは愛なきこの世の中で、今も愛をもってひとりひとりを招いて下さっているのです。
 
   耐え忍ぶ
 
 主は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とおっしゃいました。「耐え忍ぶ」というと、何か歯を食いしばってがまんするというように聞こえますが、そうではありません。キリストにおいては、耐え忍ぶというのは、希望をもって待つという意味です。キリストが必ず最善をなしてくださる。そのことに信頼して、ゆだねて待つのです。ですからそれは、主を礼拝しつつ、主を賛美しながら待つのだということができます。
 時々引用しますが、テサロニケの信徒への第一の手紙5章16節〜18節を思い出したいところです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 こうして主に感謝をして礼拝しつつ、主と共に歩んでいくことが、希望を持って耐え忍ぶということです。
 先日、ある牧師がインターネットのTwitterで、「毎日100個感謝できることを探してみて下さい」と言われたことを実行して、不思議な平安に満たされたという牧師のことを紹介していました。
 毎日100個、神さまに感謝できることを探し、感謝することができるでしょうか。なんだかものすごく難しいようにも思えますが、よくよく考えると難しいことではないと思いました。私たちがふだんの生活の中で、見過ごしてしまっていることを感謝すれば良いのです。
 たとえば朝、目が覚めたら「主よ、目を覚まして下さって感謝します」と言う。もしかしたら、目を覚まさなかったかもしれないのです。すると、歩けたならば歩けることを感謝し、聖書を読んだら聖書を読めることを感謝し、お祈りをすることができたらお祈りをするこことができたことを感謝し、水道から水が出たら水が出たことを感謝し、ご飯を食べることができたらそれも感謝する。歯を磨くことができたらそれを感謝し、やらなければならない仕事があったら、それを感謝する。‥‥といった具合に、私たちが当たり前のように思って神さまに感謝することもしなかったことを感謝すると、100個はあると思いました。
 ちなみに、今日は100個感謝することを忘れたと思ったら、夜寝床に入ってから布団の中で、一つ一つ当たり前のようなことを思い出して、心の中で感謝していってみるのです。すると、いつの間にか眠っています。羊を100匹数えるより、よほど良いことではないでしょうか。
 たとえばそのようにして主と共に終わりに向かっていく。そのとき、終わりは終わりではなく、新しい世界に向かっていくのであるという希望を持つことができます。


[説教の見出しページに戻る]