2021年6月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記14章17〜20
  マタイによる福音書23章37〜39
●説教 「主の涙」

 
   青山学院ウェスレーホール・ニュース
 
先週青山学院大学の相模原キャンパスの礼拝に説教奉仕のため行きました際、学院が発行している「ウェスレー・ホール・ニュース」をいただきました。その中に、大学4年生の方が書かれた文章が目身にとまりました。昨年、突然の新型コロナウイルス禍によって、学生さんたちも非常に大きな影響を受けました。部活動も対面でできなくなった、友だちとも遊べなくなった、それで何かにつけて「コロナさえなければ」とか「コロナが収束すれば」といった言葉を並べていたそうです。しかしそういう状況の中でも、あきらめずに今できるすべてをもって活動している人たちが、そばにいたそうです。それでこの方も焦りを感じたそうです。そんな焦りと不安の中で、旧約聖書イザヤ書14章26節の「これは、全地に向けて定められた計画である。また、これは、すべての国々に伸ばされた手である」という御言葉に触れ、焦る必要はないと思うことができたのだそうです。そして自分も、神の計画の一部として、できるすべてを神と共に歩みたいと思うようになったそうです。そして最後にこう結んでおられます。「私にとってこの一年間は『神と共に歩む』という思いを与えられたたいせつな年です。」
  この文章を読んで、世界を苦しめているこのコロナ禍の中でも、神さまが御言葉を通してご自分のもとに招いておられる、ということをあらためて思うことができました。
 
   主の涙
 
  本日の説教題は、「主の涙」といたしました。しかし、実は今日の聖書箇所を呼んでも、イエスさまが涙を流されたということは書かれていません。ルカによる福音書の13章にも、これと同じ出来事が記録されていますが、そちらにもイエスさまが涙を流されたということは書かれていません。
 では、どうして「主の涙」という説教題をつけたのか、ということになりますが、それはエルサレムの郊外に「主、涙したもう教会」、あるいは「主の涙の教会」という名前の教会があるからです。そして、その教会は、私にとって非常に印象的なものとなりました。確かに今日の聖書箇所には、主イエスさまが涙を流されたとは書かれていない。しかし、イエスさまが嘆き、悲しまれたことはたしかです。その嘆き、悲しみの深さを考えますと、イエスさまが涙を流されたに違いないと思えてくるほどなのです。
  今日の聖書箇所は、イエスさまの語られた言葉です。冒頭は、「エルサレム、エルサレム」という言葉になっていますが、これは詳しく言うと「エルサレムよ、エルサレムよ」という呼びかけの言葉になっているんです。直訳するとこうなります。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者を殺す者よ、お前に遣わされた者を石で打つ者よ。」と、日本語に訳してみると「よ」「よ」「よ」‥‥と表現が連続して出てくるんです。何かイエスさまの深い嘆き悲しみが、吐息となって表れているように思われます。
 イエスさまがそのように深く嘆き悲しまれたということになりますと、私たちも何か心が痛んでくるような思いがします。イエスさまは、何をそのように深く嘆き悲しまれたのでしょうか。
 「エルサレムよ」と言っておられる。これはエルサレムの町のことを嘆いておられるわけですが、これは擬人化表現です。エルサレムという町自体のことを言っているのではなく、その町の人間について嘆いておられるわけです。
 
   エルサレム
 
 エルサレムという町は、旧約聖書では神によって選ばれた町ということになります。聖書で最初にエルサレムが出てくるのは、今日最初に読んだ旧約聖書の創世記14章ということになります。そこでは「エルサレム」は「サレム」という名前で出てきます。イエスさまの時代よりも、2千年も前のことです。イスラエルのルーツである、アブラハムという人がいました。神さまの約束をいただいた人です。そのアブラハムの甥っ子は、ソドムとゴモラで有名なソドムの町に住んだのですが、あるときそのソドムの町を含む地域の町が、北から攻めてきた諸国の軍隊によって打ち負かされてしまったということが起きます。当時のそのあたりの国というのは、大きな国ではなくて、みな都市国家で、その連合軍が攻めてきたんです。そしてソドムとその同盟の町々は負けて、住民が連れて行かれてしまった。それを聞いたアブラハムは、自分の家の僕たちを引き連れて、掠奪していったその軍隊を打ち負かして、甥っ子のロトと住民たちを取り戻したという出来事です。一民間人に過ぎないアブラハムが、そのように戦いに勝利したというのは、神さまが味方をされたからに違いありません。
 そうして凱旋して帰ってきたアブラハムを、サレムの王であったメルキゼデクという人が出迎えて、祝福するんです。このサレムというのが後のエルサレムなんです。ついでに言うと、このサレムの王であったメルキゼデクという人は、「いと高き神の大祭司」でもあったと書かれているんです。「いと高き神」という表現は、聖書では真の神、聖書の証しする神さまです。つまり、アブラハムとは全く違う民族の、言わば異邦人である人が真の神を信じ、礼拝する大祭司であったという不思議なことが書かれています。そして、サレムの王メルキゼデクという人のことは、新約聖書のヘブライ人への手紙で詳しく書かれています。そしてそこでは、メルキゼデクが、のちのイエス・キリストを指し示す存在として書かれています。
 そして、エルサレムがイスラエルの首都となったのは、それからずっと後の時代のダビデ王の時です。ダビデ王は、もっとも神聖な神の契約の箱をここに運び入れました。そして、ダビデの子のソロモン王が、その神の契約の箱を安置する神殿をエルサレムに建設しました。こうして、エルサレムの神殿は神を礼拝する場所となりました。
 
   めん鳥が雛を羽の下に集めるように
 
 きょうの聖書で、イエスさまは、そのエルサレムについて、深い嘆き悲しみの言葉を述べておられます。そしてその嘆きが、先ほど見ましたように、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」ということです。すなわち、神さまが送った人々を殺したり迫害したりしてきたということをおっしゃっています。
 そうするとこれは、イエスさまの言葉というより、神さまの言葉であると言った方が良い言葉です。たしかに、この前のところの聖書箇所で、イエスさまは律法学者とファリサイ派の人々の問題点を厳しくしてきなさいました。それは、彼らがイエスさまを受け入れなかったし、それどころか排除しようとしてきたからです。もう最初のころから、ユダヤ人の先生であるファリサイ派の人たちは、イエスさまを非難し、イエスさまを排除しようとしてきました。
 しかし、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」という言葉は、イエスさまがこの世に来られるもっと前の出来事についておっしゃっているんです。旧約聖書を読めば分かるように、あなたがたは前からそうだった、ずっとそうであったと。ですから、これはイエスさまの言葉というよりも、神さまの言葉であるということができます。もっと言えば、父なる神さまと神の子イエスさまが、同じ思いであることが明らかになっているんです。
 そうすると、ここで言われている「エルサレム」というのは、単にエルサレムに住んできた人々と言うよりも、神を信じる民であったはずのイスラエルの民全体を指していると言うことができるでしょう。
 そのように、神にそむき続ける人々に対して、神さまはどうなさってきたか?‥‥それがここでイエスさまがおっしゃっている「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」ということです。めん鳥は、雛に危険が迫ると、自分の羽を広げて雛をかくまいます。そのようにして雛を守ります。すなわち、神さまは、背き続ける人々を、なおも愛して、めんどりが雛をかくまうように、あなたがたを守ろうとしてきたと言われるんです。招いてきたとおっしゃるんです。それほどに愛してきたと。
 なのにあなたがたは応じようとしなかったと言われる。神の招きに応えなかったと。そういう歴史がある。そして今もまたそうだと言われるんです。
「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」この「家」というのは、エルサレムの神殿のことです。神さまを礼拝している神殿。あなたたちは、立派な神殿を誇り、自分たちは神によって選ばれた民であると思っている。そして自分たちは神殿を建てて、熱心に神を信じていると思っている。しかし実はそうではない。神の御心を踏みにじり、悔い改めることを拒み、今またイエスさまが来られたのに、拒絶している。あなたたちが誇り、頼りにしている「家」、つまり神殿は捨てられて荒れ果てると言われます。あなたたちが頼りにしているものは崩れ去る、と。
 
   主の名によって来られる方に
 
 そして、最後に決別の言葉とも取れることをおっしゃっています。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
 ただ、その『主の名によって来られる方に、祝福があるように』という言葉は、少し前に人々が言った言葉です。いつ言ったかというと、イエスさまがろばの子に乗って、エルサレムの町に入られる時です。マタイによる福音書では21章9節です。そのとき、多くの人々がイエスさまを出迎えました。そしてこう言いました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」‥‥このように歓喜の声を上げて、イエスさまを迎えました。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って。
 しかし、そのようにして歓迎されたイエスさまが、今日の聖書箇所のあと間もなく、捕らえられて十字架にかけられる。その時多くの人々は、イエスさまを見捨てました。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んでいった人々が、イエスさまを見捨てたのです。そしてイエスさまは十字架へかけられた。十字架にかかって死んでしまうような人は、自分たちの思い描いていた救い主ではなかったと思ったのです。
 ですから、きょうの聖書のイエスさまがおっしゃったこの「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」という言葉は、このあと十字架にかかられるイエスさまを見て、悔い改めて、あらためて「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うとき、初めて本当にイエスさまに出会うことになるということです。
 十字架にかかられたイエスさまこそ、救い主である、信じるべき方であると分かったときにです。その時、本当にイエス・キリストと出会うことができるということです。十字架というのは死刑台です。しかしその十字架という死刑台に行ってまで、私たちを救おうとされるイエスさま。そのイエスさまを救い主としてお迎えするときに、今度こそ神と出会うことができる。そのようにおっしゃっていると思います。
 
   導いてこられたイエスさま
 
 もう亡くなりましたが、上方落語協会会長を務められた露の五郎という落語家がいたことは、ご存じの方も多いと思います。露の五郎さんは、晩年になって洗礼を受けられクリスチャンとなられました。『五郎は生涯未完成』という証しの本も出されました。
 露の五郎師匠は、戦争中の中国にいた時、アメリカ軍の飛行機の機銃掃射を受け、となりにいた友達は撃たれて死んでしまったが、自分はわずかに弾がそれて助かったという命拾いをしたそうです。それが最初の命拾いで、その後も、事故やら病気やらで何度か命拾いの経験をするんです。そしてまた、非常に重い病気にかかり、死線をさまよい、家族は医者から死を覚悟するように宣告されたそうです。娘さんはクリスチャンになっていて、それで娘さんと奥さんが聖書を置いて祈ったそうです。そうして助かった。そして露の五郎師匠は、人生における5度の命びろいの出来事を思い起こし、「もしかしたら、私を生かしているものは、イエス・キリストという神なのではないか?」と思うにいたり、洗礼を受けてクリスチャンとなったということです。
 私たちにも、同じような経験があるのではないでしょうか。思えば、あのとき不思議なことがあった。偶然ではないのではないか、と思うような出来事があった。‥‥それらは、神がキリストのもとへ導くようにして下さったことかもしれません。私たちが気がつかなかっただけです。
 めん鳥が雛を羽の下に集めるように、神さまが私たちをキリストの翼の下に招いて下さってきていた。そう信じることができれば、さいわいなことです。それは、私たちを救うために、ご自分の命を十字架にかかって捨ててくださった方だからです。


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