2021年6月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上8章39
    マタイによる福音書23章25〜36
●説教 「清めるべき心」

 
 先週金曜日の『ローズンゲン』(日々の聖句)の新訳聖書の聖句は、本日の説教を預言しているかのような御言葉でした。
(エフェソ1:4)「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 
   内側の問題
 
 現在、インターネット上で、人を誹謗中傷することが問題となっています。日本人のテニス・トッププレイヤーの大坂なおみ選手が、国際大会後の記者会見を拒否したことが報道されたことは皆さんご存じかと思いますが、そのことについて、インターネット上では、多くのバッシング(たたく)の投稿がありました。その後、その大坂選手が、自分が鬱病であることを告白なさいました。それはたいへん勇気がいることだったと思いますが、それでもなお彼女をたたき続け、心ない誹謗中傷をするような匿名の投稿が数多くありました。
 また、昨年にはテレビ番組に登場していた女子プロレスラー木村花さんが自殺をされました。その背景には、やはりインターネットのTwitterなどでの多くのバッシング、誹謗中傷があったと言われています。そのようなバッシングをする人たちは、匿名で投稿するので、だれが投稿しているのか分かりません。しかし度を越すと犯罪となり、警察の捜査の結果、誹謗中傷した人が書類送検されるということになりました。その人は、木村花さんに対してインターネットに「性格悪いし、生きている価値があるのかね。」「いつ死ぬの?」‥‥などと多くのひどい言葉を書き込んだということです。
 このようなことをインターネット上に書き込む人は、おそらくふだんは善良な一市民として生活しているのかもしれません。しかしどうしてそのような他人を誹謗中傷するような投稿を平気でするかというと、それは自分の名前を伏せている、匿名だからです。それで平気で人を傷つけるようなことを主張できるのです。
 イエスさまは、きょうの聖書の28節で、このようにおっしゃっています。「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」
 善良な一市民を装っていても、匿名だから、本音を言う。つまり、心の中が悪いもので満ちている。イエスさまの言葉によれば、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」。それが外側ににじみ出てくるんです。
 
   身近な問題
 
 それが人間社会にある問題です。私たちが生きている社会そのものです。学校でも、職場でも、身の回りでも、人間関係というものは、なかなか簡単ではありません。なにか知らないうちに悪い感情を持たれる、陰口をたたかれる、気持ちよくあいさつしてくれない人がいる、なにかつらく当たってくる人がいる‥‥。それぞれの人の心の中に何かがあるんですね。自分に対して良くない思いを抱いているということが。それが外ににじみ出てくるわけです。
 私たちが苦労し、悩むことの多くは人間関係ではないでしょうか。もちろん、仕事や勉強が難しいということでも悩むかもしれませんが、多くは人間関係で悩むのではないでしょうか。私たちは「疲れた」という言葉をよく聞きますが、それは肉体が疲れるということももちろんあるでしょうが、肉体が疲れたのなら休めば回復します。しかし本当に疲れるのは、心が疲れるということでしょう。そしてその多くは、人間関係によって疲れるということであると思います。新聞の人生相談のコーナーを読んでいると、つくづくそのように思います。
 
   反対にもしこの世界の人々が皆愛に満ちていたとしたら
 
 反対に、もしこの世界の人々が皆、愛に満ちていたとしたらどうでしょうか。もちろん、私たち自身も愛に満ちた人になったとしてです。
 そうすると、もちろん最初に例を挙げたような、他人へのバッシング、誹謗中傷は起きません。人をいじめるということもなくなります。パワハラもモラハラもセクハラも起きません。意見が違うことがあったとしても、相手を尊重し、お互いに理解しようとするでしょう。人が病気であれば、それを理解し、いたわりの心をもって言葉をかけるでしょう。職場でも、失敗を責め立てたりすることなく、どうすればよいかを共に考えるでしょう。人の足を引っ張るようなことは起きなくなるでしょう。陰口をたたくようなことはなくなるでしょう。お互いの弱さを認め合い、助け合うでしょう。
 さらには泥棒などいなくなり、ゴミを他人の敷地に捨てたりする人もいなくなるでしょう。マナーも劇的に改善するでしょう。我先にと、人を押しのけるようなこともなくなるでしょう。なぜなら、聖書で、愛は具体的に次のようなことだと書かれているからです。
(1コリント13:4〜7)愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 それに対して、今日の聖書箇所でイエスさまが指摘しておられることは、それとは逆のことです。
25節. 杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
27節. 外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28節. このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
‥‥これらの内側、すなわち心の問題は、愛がないということです。そしてそのことは、律法学者とファリサイ派の人たちだけの問題ではない。私たちの問題でもあるんです。なぜなら、愛がないということは、聖書で言う罪人であるということだからです。
 
   わざわいだ
 
 そしてこのようなことを、主は「わざわいなるかな」(新共同訳聖書では「不幸だ」)とおっしゃっていることを忘れてはなりません。「どうせ世の中そんなものだよ」と言われるのではないんです。「わざわいだ」「不幸だ」とおっしゃるんです。それは神さまの忌むべきことであり、神さまが心を痛めておられることであるんです。
 問題は人間の外側ではなく、内側であるとおっしゃるんです。外見や見かけではなく、心の中であると。
 26節「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」とおっしゃっています。内側をきれいにする。それは言葉を変えて言えば、罪人である私たちの救い、ということになります。
 旧約聖書の創世記に、次のように書かれている個所があります。
(創世記6:5〜6)「主は、地上に人の悪が増し、常に悪い事ばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」
 神さまが心を痛められたのは、外見ではありません。見かけではありません。行動ではありません。神さまが人間に対して心を痛められたのは、人間の「心」なんです。「常に悪い事ばかりを心に思い計っている」ことについてです。内側なんです。
 それでご存じのように、ノアの時の大洪水を起こされました。悪い人が皆滅びました。しかしそれで人間が良くなったのではありません。なぜなら、生き残ったノアとその家族もまた罪人であった、すなわち心が愛に満ちていたのではなかったからです。それで神さまは、もう大洪水のような形で人間を滅ぼすことはせず、代わりにご自分の子、イエス・キリストを犠牲にして人間を救う道を用意された‥‥というのが聖書が語る救いの物語です。そこまでして神さまは、私たちを救おうとされているんです。罪人である私たち人間を滅ぼすのではなく、救おうと。
 
   病める魂の癒やし
 
 メソジスト教会の創始者である、ジョン・ウェスレーは、キリスト教の本性について、それは「病める魂を癒すための神の方法」であると言っています。イエス・キリストは魂の偉大な医者であると言っています。神さまは、キリストによって、私たちの病める魂を癒そうとなさっているのです。
 ファリサイ派と律法学者の例を見ると分かるように、「本当の自分」と「他人にこう思われたい自分」には違いがあります。しかし神さまは、「私たちが実際、どのような者であるか」ということを重要視されます。
 それは、医者が病気を診断するのにも似ています。医者が診断するには、問診があり、聴診器を当てます。また、血液検査や尿検査をし、必要とあれば、レントゲン撮影、さらにはCTを撮ったりします。それは、本当のその人の状態がどうであるかを調べようとするわけです。そして正確な診断をくだします。その人の状態がどうであって、どのような病気であるかを確定します。そこから初めて治療方針が決まり、治療が始まることになります。
 神さまは、すでに私たちひとりひとりの内側の問題をご存じであり、そしてそれにふさわしい治療方針を立てられ、治療されようとなさいます。それは根本的な治療です。
 一方、この世の治療は、表面的な治療、つまり外側の治療です。処世術に関する情報は本屋やインターネットにあふれています。「人との上手な付き合い方」であるとか、自分をどのように表現したらよいか、というような情報や本です。しかしそれは、表面的な治療です。外側を清めているに過ぎません。
 たとえば、私はアレルギー体質で、昔から喘息やアレルギー性鼻炎などで悩まされてきました。お医者さんに行くと、喘息なら喘息の発作を抑える薬を処方してくれます。しかしそれでアレルギー体質が治るわけではありません。表面的な発作を抑えるだけです。しかしイエスさまのなさることは、言わば根本的にアレルギー体質を治してしまおうとするものです。すなわち、内側を清めることをなさろうというのです。
 たしかに、私たちの内面、内側を美しくすることをうたい文句にしている方法も、この世の中にはあります。しかしこの世の方法は、努力を必要とするものです。それに対して、キリストの方法、癒やしは、奇跡によるものです。主が奇跡をなさるんですね。私たちの内側に。聖霊の働きによって治療なさるんです。
 実際に、私は今まで、何人もの人が、キリストによって変えられるのを見てきました。いつも眉間にシワを寄せて、人を疑ったり、人の悪口ばかり言っている人が、キリストをすなおに信じるにいたり、その結果、穏やかな人となり、感謝を口にするようになり、顔つきまで変わったという人がいました。あるいは、クリスチャンであるにもかかわらず、常に人に小言を言い、不平不満を口にしていた人が、病気にかかったことを通して、本当にキリストにすがるようになり、聖書を本気に信じるようになり、その結果、本当に穏やかで、だれからも愛され尊敬される人、祈りの人になったという人がいました。そのように、主が変えてくださるんです。
 お医者さんの治療が十分になされるためには、どうしたらよいでしょうか。それはお医者さんの治療にゆだねることですね。手術台に載ったら、あとは抵抗したら手術になりません。まな板の上の鯉になることです。それよりもなによりも、医者に行くことです。すなわち、自分には治療が必要であることに気がつくということです。それと同じです。
 ファリサイ派の人たちは、むかし迫害によって亡くなった預言者たちについて、「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」と言っている。つまり自分たちなら神の預言者を迫害しなかったと。しかしそれは自分たちの罪を認めていないことなんです。「私も預言者を迫害しただろう。私も神の言葉を神の言葉として聞かなかっただろう」と言って、自分の罪に気がつかなければ始まらないんです。
 自分には、神さまの治療が必要であると気がつく。もちろん、この私にも神さまの治療が必要です。言い換えれば、自分が罪人であることに気がつくことです。そこから始まります。そして神さまにゆだねる。キリストの御言葉にゆだねるんです。そうして聖霊の働きに期待することができます。


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