2021年5月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ミカ書6章8
    マタイによる福音書23章13〜24
●説教 「失われた入り口」

 
   天の国の門を閉ざす
 
 13節をもう一度読みます。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」
 天の国に入りたいと思って来た人を入らせない。私は、とても他人事とは思えません。神さまに会いたいと思って教会に来られる。ところが、そのようにして来られた人を、私が入らせないようにしている結果になっていないか。私たちは、畏れをもってこの言葉を聞かなくてはならないのだと思います。
 
   8つの「幸い」と8つの「わざわい」
 
 23章からイエスさまの最後のまとまったお話、つまり説教が書き留められています。マタイによる福音書において、最初のまとまった説教は、5章から7章に書き留められている「山上の説教」と呼ばれる個所でした。その「山上の説教」は、8つの幸いが語られるところから始まっていました。「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)という有名な言葉で始まっていました。続けて「悲しむ人々は幸いである。‥‥柔和な人々は幸いである。‥‥」というように、「幸いである」ということが8つ続けて語られていました。
 そしてこの23章からは、最後のまとまった説教が書き留められているわけですが、きょう読んだところでお気づきのように、「不幸だ」という言葉がいくつも出てきます。この「不幸だ」という言葉は、きょうのところから23節までに、8回出てきます。このように私が8回と申し上げて、数えてみられると7回しかないじゃないか、とおっしゃる方もいるでしょう。そう、たしかに7回しかないように見えるのですが、実は今日の個所の13節の次が15節になっていて、14節が抜けているのがお分かりかと思います。では14節はどこにあるのかと言いますと、実はマタイによる福音書の一番最後の所に欄外のようにして、あるんです。これはどういうことかと言いますと、昔の聖書の有力な写本にこの14節がないので、14節はマタイが書いたんじゃなくて、後からだれかが付け加えたんじゃないかと、学者たちの多くが考えているんです。それで欄外になっている。
 しかしこの14節は次のように書かれています。
「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」これは貧しい人の代名詞である「やもめ」の家を、律法学者とファリサイ派の人たちが守るのではなくて、逆に食い物にしているという断罪の言葉です。つまりここにも「不幸だ」という言葉が書かれている。そうすると全部で8回となるわけです。
 最初の山上の説教に「幸いである」という言葉が8つ最初に出てきた。そしてこの最後のまとまった説教には、「不幸だ」という言葉が8回語られている。これはやはり、最初と最後のまとまった説教が関係していると考えるべきでしょう。
 そして最初の山上の説教は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちの者である」という言葉で始まるわけですが、それは新約聖書の原典であるギリシャ語のほうでは語順が違っていて、日本語に訳すと「幸いなるかな、心の貧しい人々よ」というようになるということを、その時申し上げました。「幸いなるかな」という言葉が、それぞれの冒頭に来ているんです。
 では今回の「不幸だ」のほうはどうかと申しますと、これは「不幸だ」と日本語に訳すよりも、むしろ昔の文語の聖書のように「わざわいなるかな」と訳した方が良いんですね。つまりこちらは、「わざわいなるかな」という言葉でそれぞれ始まっているんです。
 こうしてマタイによる福音書は、「幸いなるかな」というイエスさまの祝福の言葉が強調され、ここでは「わざわいなるかな」という裁きの言葉が強調されているんです。
 そうすると、イエスさまが「幸いなるかな」という祝福の言葉で神の国の福音を語ってこられ、多くの働きをなさってこられたのが、どうにもそれを受け入れないばかりか、そのイエスさまを抹殺しようとする人々がいる。それはこともあろうに、宗教家であり、人々を神のもとに導くはずの人々であったという。それに対してイエスさまは、裁きの言葉を語られる。何が間違っているのかを、はっきりと指摘なさっているんです。そうして、それらの罪を背負うかのようにして、十字架へ向かって行かれるんです。
 
   何がわざわいなのか
 
 「わざわいなるかな」とイエスさまはおっしゃいます。何がわざわいだとおっしゃっているかというと、「人々の前で天の国を閉ざすからだ」と言われます。人々が天の国、神さまの所に行くのを妨げていると言うんです。
 これは最初のときの「山上の説教」とは正反対です。山上の説教は、先ほど申し上げたように、「心の貧しい人々は幸いである天の国はその人たちのものである。」という言葉で始まっていました。天の国に入れるということで始まっていたんです。それに対して、ここでは、イエスさまが天の国に入れるとおっしゃっているのに、入れないようにする人たちのことが語られています。それが律法学者とファリサイ派の人たち、つまり人々の先生たちだと。自分たちも入らない。人々をも入らせないようにしている。つまり、イエスさまのなさることを無にしている。
 
   偽善者
 
 今日の聖書箇所をお読みになって、「不幸だ」という言葉の他に、何度も出てくる言葉があることにお気づきの方もいると思います。それは、「偽善者」という言葉と、「ものの見えない者」という言葉です。それが律法学者とファリサイ派に対して使われています。
 偽善者という言葉は、ギリシャ語では「役者」という意味であると前にも申し上げました。演じるわけです。役者が、刑事の役をやる、検察官の役をやる、大臣の役をやる‥‥というように演じる。つまり偽善者は、本当はそうではないのに、善人を演じてなりきっているわけです。
 ではファリサイ派はどうか?‥‥イエスさまが来られた時、それが神の子であることが分からない。神が旧約聖書で約束されていた救い主であることが分からない。つまりは、彼らは何も聖書が分かっていない。なのに自分たちは、だれよりも神さまのことを知っていると思っている。それは神さまから見たら、演じている、役者である、偽善者であるということになります。そういう意味での偽善者という言葉です。「ものの見えない」人たちだと言われるんです。
 
   具体的に
 
 イエスさまは具体的にいくつか挙げておられます。15節では、彼らが改宗者を作ろうとして巡り歩くとおっしゃっています。改宗者とは、異邦人からユダヤ教に改宗する人です。しかし改宗した人を、自分たちよりも「倍も悪い地獄の子にしてしまう」と言われます。
 私は、以前ロンドンでの体験を思い出します。旅行で、イスラエルに行く前に、ロンドンとスイスに行きました。そのロンドンで、ホテルから空港に向かうタクシーを予約していました。ところがそのタクシーが遅れました。20分ほど遅れて来て、ヤレヤレと思って乗りました。そして、そのタクシーがヒースロー空港に着きました。ところが降ろされた場所、空港は空港でも、スイス行きの飛行機が飛ぶのとは全く違うターミナルで降ろされたんです。しばらくして、一緒に行った宣教師の先生が、そのことに気がついて、あわてました。スイス行きの飛行機のチェックインに間に合わなくなる恐れがあるからです。格安チケットなので、それに乗り遅れたらアウトという状況です。しかし、ヒースロー空港は広いんですね。あわてて空港内の地下鉄に乗り、いくつかの駅を通り過ぎて、ようやく目的のターミナルに着きました。すると、チェックインにギリギリ間に合うというところでした。もちろん、地下鉄に乗っている間、ずっと神さまに祈っていましたが。
 そのタクシーの運転手のように、あやふやな知識で違うターミナルに連れて行かれると、とんでもないことになってしまいます。しかし私たちは知らない土地ですから、全面的に運転手に任せるしかない。ファリサイ派と律法学者は、まるでそのタクシーの運転手のようです。まるで見当違いの方に導いていく。異邦人は、そもそも聖書を知らないのだから、ファリサイ派と律法学者に任せるしかない。しかしとんでもないほうに行ってしまうということになります。その結果、イエスさまと出会うことができなくなってしまう。神さまに出会うことができなくなる。
 16〜23節では、誓いということについて言われています。誓いとは、「神さま、私はこのことをすることを約束します」というようなものです。しかしここでは、誓っても、誓いを果たさなくてもよい言い訳を考えているわけです。そもそもイエスさまは、誓ってはならないと以前教えておられました。誓ったことを果たせない人間の弱さをご存じだったからです。
 23〜24節は、「十分の一」の献げ物について言われています。旧約聖書では、収穫物の十分の一を神さまに献げることが定められていました。そしてイエスさまもそのことはおろそかにしてはならないと言われているのですが、彼らは、「薄荷、いのんど(はーぶ)、茴香」を収穫した時に、その十分の一を神さまに献げることにこだわっている。「薄荷、いのんど(はーぶ)、茴香」というのは、いずれも香草(ハーブ)ですね。そういうつまらないハーブと言っては失礼ですが、小さなことにはこだわるのに、神さまの求める正義や慈悲や誠実といった大切なことはおろそかにしていると。「ぶよ一匹さえも濾して除くが、ラクダは飲み込んでいる」と、たいへん面白いたとえを語っておられます。
 つまり彼らは、人々を教え導く立場でありながら、見当違いのことをしている。そうして人々を誤った方に導いている。その結果、人々を天の国に入れないようにしていると厳しく指摘しておられるんです。しかし、これは他人事としてではなく、私たち自身も省みざるを得ないことだと思います。
 
   キリストが見えていない
 
 「人々の前で天の国を閉ざす」‥‥天の国はイエスさまと共にあるのですから、つまりは神の子イエス・キリストが見えていないということになります。それはすなわち、神さまが見えていないということです。
 ヨハネによる福音書5章39節で、イエスさまは次のように述べておられます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
 旧約聖書は、イエス・キリストを指し示し、預言し待望するものだったのに、あなたがたはそれが分かっていない。なぜでしょうか? なぜイエスさまが見えなかったんでしょうか? 神の御子に会っていながら、出会いに至らなかったのか?
 それは、この前の個所、11〜12節で言われていることです。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
 彼らは、自分たちの方が偉いと思っていたんです。自分たちが先生だからです。ですからイエスさまが奇跡をなさっても、福音を語られても、自分たちが先生だと思って、聞く耳を持つことができなかった。それでイエスさまが神から来られた方であることが分からなかった。天の国がイエスさまと共に来ていることが分からなかったんです。
 分からないなら分からない、イエスさま教えてください、とへりくだるべきなんです。これらの言葉を聞いて、「ああ、本当に自分たちは間違っていた。罪人であった」と悟るべきなんです。そのとき、最初の「山上の説教」の冒頭の言葉が、心に響いてくるはずです。その喜びの言葉が。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」その最初の福音、「幸いなるかな」に戻るように、イエスさまは願っておられるに違いありません。
 
   教会は神に出会う所
 
 キリスト教放送FEBCの月刊紙の6月号に、ある視聴者の投稿が掲載されていました。その女性は、自分は何年も教会に通っていたが、それは単に人恋しさに通っていただけであったと、思い当たったそうです。自分は亡くなった夫にDVを受けていた。それで家から逃げる場所を求めて、教会の門をたたき、温かい人を求めて歩いていたということです。しかし、どうも聞いてくれる人も面白おかしく自分の話を聞いていたようで、話したかったけれども、人に話さなくなったそうです。祈っても聞かれず、見放された気持ちになり、教会から足が遠のいたそうです。しかし、わたしはイエスさまが好きであると。難しい聖書の内容は、正直理解できませんが、時々私でも、これはわかる‥‥と思える個所に出会えるのです。その時は嬉しくて。「教会はこの神をただ見上げる所。わたしは人ばかり見ていたのですね‥‥」と正直な気持ちを書いておられました。
 教会は神を見上げる所。私たちのこの礼拝堂も、見上げると十字架がかかっています。どうにも鈍い私たち、過ち多き私たち、その私たちを天の国に導くために、天の国の扉を開けるために十字架にかかってくださったイエスさま。心の貧しい私たちに向かって、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とおっしゃって、神との出会いに招いてくださるイエスさまを見上げつつ歩んでまいりたいと思います。


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