2021年5月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 民数記12章3
    マタイによる福音書23章1〜12
●説教 「神の恵みの流れ方」

 
   「先生」と呼ばれてはならない。
 
 イエスさまが、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(8節)とおっしゃっています。そうしますと、私も「先生」と呼ばれていますので、それはダメだということになります。またこの中には、ほかにも「先生」と呼ばれている人がいると思います。教会学校の先生もそうですし、また職業柄「先生」と呼ばれている人もいると思います。イエスさまは、そのように呼ぶこと自体がダメだとおっしゃったのでしょうか。
 加藤常昭先生の説教集を読んでいましたら、次のような出来事が書かれていました。‥‥ある人が、この御言葉に基づいて先生批判をやった。イエスさまもそう言っておられるではないか、と。そして、いっそ誰も先生と呼ぶのをよそう、と。すると一人が言い返して、あなたは父親だろう、家でお父さんと呼ばれるのを断っているかと、やりこめた。するとその人は先生批判をやめたというのです。
 確かにイエスさまはこの個所で、「地上の者を『父』と呼んではならない」とも言っておられます。また「教師」と呼ばれてもいけないとも言っておられます。そもそも、日本語の聖書では「先生」という言葉に訳されていますが、聖書の原語で言うと「ラビ」という言葉なんです。「ラビ」と呼ばれてはならない、と。その「ラビ」を「先生」と訳しているわけです。
 つまり、言葉を言い換えれば良いという問題ではないんですね。「先生」がダメなら「牧師」とか「司祭」なら良いとか、そういうことをイエスさまはここでおっしゃっているのではないんです。言葉の上っ面を代えても、中身が変わらなければ同じことです。つまりは、イエスさまがいったいここで何をおっしゃりたいのかということを聞き取らなければなりません。
 
   まとまった教え
 
 今日からマタイによる福音書の23章に入ったわけですが、この23章から25章にかけては、イエスさまの最後のまとまった教えが書き留められている個所となります。そしてこれは、イエスさまが捕らえられ十字架にかけられる、その受難前の最後のまとまった教えとなっています。
 イエスさまのまとまった教えが書き記されている個所と言えば、私たちは5章から7章にかけて語られていた「山上の説教」を思い出される方も多いでしょう。山上の説教は、「心の貧しい者は幸いである。」という言葉から始まりました。そしてまさに、これが福音と言われることが語られていました。それに比べますと、この23章から始まる最後のまとまった説教は、何か趣が違うな?と思われる方もいると思います。しかし、福音、つまり「喜ばしい知らせ」と言うことで言いますと、何も変わっていません。一貫しています。
 私たちは、そのような喜ばしい知らせを聞き取る気持ちをたいせつにしながら、この個所を読んでいきたいと思います。
 
   ファリサイ派への批判
 
 イエスさまのお話の舞台は、引き続きエルサレムの神殿の境内です。お話しになった相手は、群衆と弟子たちですから、山上の説教と同じです。そしてここでイエスさまが語られたことは、律法学者やファリサイ派の人々に対する批判です。それもかなり厳しい言葉で批判なさっています。
 律法学者とファリサイ派とは、言わば人々の先生です。聖書に基づいて人々を教える人です。ですから宗教家です。宗教家というと、現代日本では無宗教の人が増えましたので、ほとんどなにも影響力のない人たちですが、昔は違います。とくにイエスさまの時代のイスラエルでは、人々の生活すべてに関わる大事なことでした。ですから、律法学者やファリサイ派の人たちは、人々の間で力を持った人たちでした。また律法学者にはファリサイ派の人が多かったと言われています。
 そしてファリサイ派は、イエスさまを敵視する人たちでもありました。これまでも、ファリサイ派がイエスさまと対立したことがたくさん出てきました。それは安息日の掟をめぐって始まりました。そしてファリサイ派は、イエスさまを葬り去ることを計画し、その機会をねらっていました。このエルサレムの神殿の境内においても、イエスさまを捕らえる口実を得ようとして、イエスさまに質問をしたのは記憶に新しいところです。
 そのファリサイ派に対して、イエスさまはかなり厳しい批判をなさっています。しかし、3節で「だから、彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい」とおっしゃっています。つまり、ファリサイ派の良い点をちゃんと見ておられるんですね。ファリサイ派はイエスさまの命をねらっているわけですが、イエスさまは彼らの良いところをちゃんと評価しておられるんです。こういうところに、イエスさまがどんな方であるかということが表れていると思います。私たちは、全く意見が違う相手や、自分を攻撃してくる相手には、徹底してやり返そうと思うのではないでしょうか。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉がありますが、それが私たちだと思います。
 しかしイエスさまは違う。ちゃんと良い点は評価しておられます。しかも人格を否定していません。また、陰でコソコソ批判しておられるのではありません。このように神殿の境内というオープンな場所で、そこには当のファリサイ派の人たちもいたわけですが、堂々と批判をしておられます。ご自分の命をねらっているファリサイ派の人たちを批判しているわけですから、命がけで語っておられるわけです。そうすると、イエスさまは決して感情的になってお話しをなさっているのではなく、冷静に、良いところは評価しつつも、しかし批判すべきは堂々と批判しておられるということになります。このような形を取って、神の御心を教えているわけです。
 
   言うだけで実行しない
 
 イエスさまがファリサイ派や律法学者の良い点を評価しておられるのは、彼らが「モーセの座に着いている」ということです。モーセは、旧約聖書で神から律法をいただいた人です。ですから「モーセの座」とは、神の律法を教える人と言うことになります。神さまの掟を教える人ですから、そこはちゃんと見ておられるわけです。
 しかしイエスさまは、「彼らの行いは、見ならってはならない。言うだけで実行しないからである」とおっしゃっています。言うだけで実行しない。その説明がおそらく続く言葉です。4節「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」‥‥いろいろと細かく神の掟を教えていたのが律法学者でありファリサイ派でした。しかしそういう掟の重荷を人々に載せるけれども、重荷を負わせながらも自分たちは指一本貸そうともしない。
 対するイエスさまはどうでしょうか。たとえば山上の説教の中で語られた有名な言葉、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。」(5:39)とか、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)とイエスさまは語られました。それはある意味、モーセが語った掟よりもさらに厳しいことに聞こえます。それは私たちにはとうてい無理な命令に思われます。私たちは「やられたら、やり返す」と思うのが普通です。ですから、イエスさまの掟はとうてい私たちにはできない、無理なこと、重荷に聞こえます。しかしイエスさまは、そのような神の掟を守ることのできない私たちを愛し、赦し、受け入れてくださる方です。そして導いてくださる方です。そこが違っています。
 何よりも、モーセを通して与えられた神の律法は、愛を教えているものであることを忘れてはなりません。それはこの少し前に、ファリサイ派の質問に対してイエスさまがお答えになったとおりです。
(マタイ22:37〜40)「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』"これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 神の律法は、神に対する愛、そして隣人に対する愛なのだと明らかにされました。神を愛することが難しい、隣人を愛することが難しい私たち。それは私たちが罪人であるということです。その罪人である私たちに対してこの言葉をおっしゃったイエスさまは、その罪人である私たちを救うために自ら命を投げ打って救ってくださった。それが十字架です。
 そう考えますと、ファリサイ派の人たちは、重荷を負わせるけれども、負わせた人に少しも助けることをしないというのはその通りということになります。しかし神さまは、決して言いぱなしの方ではありません。
 先週、ある姉妹とお話をしました。彼女は、体調を崩し、病気で非常に苦しい思いをしました。起き上がることも辛いほどの症状に襲われました。その症状が非常に重い間、彼女はずっと御言葉を口にしていたそうです。それは、たとえば「恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザヤ書43:5)というような御言葉、またその他の御言葉を口にしていたそうです。そして讃美歌を歌ったそうです。そしてその辛い間を絶えることができたと。そして「御言葉がなければ」とおっしゃいました。私はそれを聞いて、とても心を打たれました。そして、主は御言葉をもって彼女を支えてくださったんだなあ、と思いました。また、私がそのような苦しい目に遭ったとき、果たして彼女のように御言葉に信頼し、主に信頼して耐えることができるだろうかと、思いました。
 イエスさまは、決して言いっぱなしになさらず、ちゃんと最後まで私たちを背負って行ってくださる方です。
 
   自分のためにしている人々
 
 イエスさまはさらにおっしゃいます。彼らのすることは、すべて人の目に見せるためであると。「聖句の入った小箱」、これは黒い小さな箱で、ヒモで腕に縛り付けたり、昔の日本の山伏が着けていたように、ひたいに着けたりする物です。それを大きくする。つまり、自分は信心深い、神さまの掟をちゃんと守っていますよということを、他人にアピールするためにそうしている。また、上座を好み、「先生、先生」と言われて人々から丁重に扱われることを好むと。ここで「先生」が出てくるわけです。
 これはすべて見栄のため、尊敬されようとしてそうしていることになります。つまりは自分が偉くなりたいために宗教家になっている。人々から認められようとして、信仰をしている。神さまのためにしていないんですね。
 
   へりくだる者は高められる
 
 「モーセの座」という言葉が出てきましたが、今日もう一個所読んだ聖書、それは旧約聖書の民数記12章3節でした。もう一度読んでみます。
 「モーセという人はこの地上に誰にもまさって謙遜であった。」
 謙遜というのは、へりくだることです。自分を低くするということです。律法学者とファリサイ派の人たちは、自分を偉く見せようとした。偉くなりたいと思った。しかしそのモーセの律法の元祖であるモーセは、全く逆に、この地上の誰にもまさって謙遜であったというのです。世界で一番謙遜であったということです。
 モーセは、かつてエジプトで、民族解放の正義感から一人を殺してしまった人です。そしてエジプトから逃げて行った人です。挫折し、失敗した男です。いったんは何もかも失った人です。罪人です。しかし、神は、そういうモーセをお選びになり、出エジプトの大使命をお与えになったのです。そしてモーセは、そういう自分を受け入れてくださった神と共に歩んでいきました。そして、神さまの多くの奇跡を見ることができました。当時の世界の大国エジプトの王に対してくだされた神の数々の災い、そして海を二つに分けてイスラエルの民を渡って行かせられた奇跡、荒れ野という名にもないところで食べ物がなくなった時に、神が天からマナという食物を与えてくださったこと‥‥などなどです。
 主は、へりくだる者と共に働かれます。神の子であるイエスさまは、自分を低くして私たちのために仕え、私たちの身代わりに十字架にかかって下さいました。それによって私たちは救われました。神の恵みは低いところに流れます。


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