2021年5月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記下16章12
    マタイによる福音書22章41~46
●説教 「真の主人」

 
   母の日
 
 本日は母の日です。日本キリスト教団の教会のカレンダーに「母の日」が入っているのは、この行事が教会で始まった行事だからです。
 今年も1954年版の讃美歌510番を歌いました。この歌は歌詞を見ると、母のためにうたう歌ではなく、母が我が子の救いのために熱い思いで祈っている歌です。親は子の幸せを願うものです。そしてこの讃美歌は、我が子の幸せは、何よりも我が子が神を信じることであると確信し、そのために涙を流しつつ祈っています。その思いが強く私たちに伝わってまいります。私たちも、お互い家族のために、また、隣人の救いのために熱く祈る者でありたいと思います。
 
   質問なさるイエスさま
 
 さて、本日の聖書箇所ですが、今日はイエスさまがファリサイ派の人々に質問しています。これまでは、もっぱらファリサイ派やサドカイ派といった人たちが、イエスさまに質問してきました。それは純粋な質問というよりも、なんとかしてイエスさまの言葉尻をとらえて逮捕しようという策略でした。ところがきょうは、逆にイエスさまの方から、ファリサイ派の人々に質問をしています。これはたいへん珍しいと申しましょうか、新鮮な印象を受けます。イエスさまは何を質問なさるのか?
 イエスさまが質問なさったのは、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」というものでした。
 ここで「メシア」ということについて、もう一度説明しておく必要があるでしょう。メシアというのはヘブライ語であり、ギリシャ語に直すと「キリスト」となります。ですから、私たちがイエス・キリストと呼ぶ時、それは「イエスさまがキリストである、メシアである」と言っていることになります。もちろん、ファリサイ派の人たちは、イエスさまがメシアであるなどとは思っていないわけですけれども。
 では彼らが考えるメシアとは、どういう人のことであったでしょうか? それは、自分たちの国を救ってくれる英雄であり、約千年前の自分たちイスラエルの国が栄えたダビデ王朝の再来をもたらしてくれる人だと考えていたようです。今自分たちの国ユダヤは、ローマ帝国によって支配されている。しかしもう一度独立を勝ち取り、国を再興してくれる英雄であると。それが神が遣わして下さるメシアであると考えていました。
 イエスさまが彼らに、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」とお問いになったときに、彼らは「ダビデの子です」と即答しました。ダビデの子と言った場合、それはダビデの息子、という意味ではありません。ダビデの子孫という意味です。どうして即答できたのかといえば、それは聖書にそのことが書かれているからです。旧約聖書のサムエル記下7章12節13節です。それは預言者ナタンを通して、ダビデに語られた主の言葉でした。こう書かれています。
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」
 そのように、ダビデの子孫の王国をとこしえに、すなわち永遠に堅く据えると言われています。これは神さまの約束です。そしてそれがメシアのことを約束されていると考えられています。それは神さまの言葉ですから、メシアがダビデの子であることは間違いありません。だから彼らは、メシアは「ダビデの子です」と即答できたのです。
 
   メシアを主と呼ぶダビデ
 
 その答えを聞いて、イエスさまはさらに問いました。「では、どうしてダビデは、霊を受けてメシアを主と呼んでいるのか?」‥‥ダビデのずっと後に生まれるはずのメシア、だからダビデの生きているときには影も形もないはずなのに、ダビデはそのメシアを主と呼んでいる。もうすでにメシアがいる者として語っている。これはどうしてかと。
 そこでイエスさまは、44節で旧約聖書のダビデの言葉を引用なさっています。詩篇110編の1節の言葉です。「主は、わたしの主にお告げになった。」
 確かにこれは読んでみると、なんだかよく分からない文章に聞こえます。「主は、わたしの主にお告げになった」と、「主」が二つ出てくる。「主が主にお告げになった」というのは、なんだか変です。これを解説いたしますと、最初に出てくる「主」は神さまのこと、父なる神さまのことを指しています。そして次に出てくる「主」がメシアのことを指しているのです。
 
   主について
 
 そうすると、最初の「主」が神のことであり、次の「主」がメシアのことであるというのはどういうことか、日本語の聖書を見ても分かりません。英語の聖書を見ても分かりません。新約聖書の原文であるギリシャ語聖書を見ても分かりません。それが分かるのは、ここで旧約聖書の詩編が引用されているわけですが、その旧約聖書の言葉であるヘブライ語の聖書を見ると分かるんです。
 ヘブライ語の聖書を見ると、最初の「主」のほうは、神聖4文字が使われているんです。神聖4文字というのは、hwhy (ヘブライ語で)です。そして次の「主」のほうは、一般に「主」と訳される言葉、つまり主人とか主君とかいう意味の「主」という言葉が使われているんです。違っているんですね。ではなぜ最初のほうのHWHYとは何か、ということですが、これは昔の文語の聖書では「ヱホバ」と日本語に訳していたんです。そう申し上げると、年輩の方で文語訳聖書をご存じの方は「ああそうだった」と思われるでしょう。ただし「ヱホバ」と読んでいたのは昔のことで、実はその読み方は間違いで、本当は「ヤーウェ」もしくは「ヤハウェ」と読むらしいということが分かっています。
 「らしい」というのは、本当はどう読むのか、読み方が分かっていなかったからです。なぜ読み方が分からなかったかといえば、それは神さまの名前なので、ユダヤ人、イスラエル人は神さまの名前を口にするのは畏れ多いということで、長い間この神聖4文字を発音しなかったんです。そしてその文字が出てきたら、代わりに「主」と読み替えるようになったんです。それで長い間に、本当はどう読むのか分からなくなってしまったんです。
 ヘブライ語の文字は子音しかないのです。母音がない。英語やドイツ語は母音がなければ読めませんね。しかしヘブライ語は最初から母音がない。それでも、つまり子音だけでも読むことができるのは、いつもその言葉を使っているから読むことができるわけです。しかし長い間使っていなかったので、どう読むのか分からなくなってしまった。それで、ユダヤ人がこの文字を「主」と読み替えているように、私たちの今の聖書も「主」と訳してあるわけです。
 ですから、ここを読み替えると、「ヤーウェは、わたしの主にお告げになった」ということになります。
 
   神の名
 
 ついでに申し上げますと、ではヤーウェと読むらしいYHWHは、神の名前であると言ったけれども、どういう意味か?ということです。これはもう分からないわけです。ただ、ヒントがあります。それは、聖書の中で、ただ一個所、私たちの神の名前が記されている、つまり天地万物をお造りになった私たちの神の名が明らかにされている個所があります。それは、出エジプト記3:14に書かれています。モーセが神さまの名前を尋ねたとき、主なる神さまご自身が答えておられるところです。そこで主は、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と答えておられるんです。これが私たちの神さまの名前です。
 「わたしはある」、存在しているということですね。そのように言われると、私たちは「私たちも存在していますよ」と言いたくなるかも知れませんが、果たしてそう言えるでしょうか。私たちは、この地上でほんの数十年を生きることしかできません。世界最高齢の人でも現在118歳です。それに対して、宇宙は今から百数十億年前に誕生したと言われます。その宇宙を造ったのが神さまです。今ここにいる私たちは、100年前には存在していませんでした。また、おそらく今から100年後には存在していないでしょう。あっという間の人生です。それに対して神さまは、百数十億年よりももっと前から存在し、この先も永遠に存在しておられる。‥‥そう考えると、常に「わたしはある」と言うことのできるのは神さまだけです。そういうものすごい言葉であると思います。
 この「わたしはある」という神さまの本当の名前が、ヤーウェの語源であると言われています。
 
   神の子であるメシア
 
 さて、イエスさまは詩編110編1節を引用なさったあと、さらにファリサイ派の人たちに尋ねました。(45節)「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか?」
 断っておきますが、イエスさまは、メシアがダビデの子(子孫)であることを否定しておられるのではありません。それは正しいということを前提にして、さらにおっしゃっているんです。ダビデの子孫としてやがてこの世に生まれるはずのメシアを、ダビデは聖霊によって見ている。そして「わたしの主」と呼んでいる。すでにダビデよりもずっと前から存在しておられた。ヤーウェである神と共に、時間を超越して存在しておられる。すなわち神の子である方が、人の子ダビデの子孫として、メシアとして、神の約束通りお生まれになる。
 そうすると私たちは、このマタイによる福音書の一番最初のページを思い出すことができます。それはイエスさまの系図で始まっていました。マタイによる福音書の最初の言葉はこうです。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」。イエスさまがキリスト(メシア)であり、約束通り、アブラハムの子孫として、ダビデの子孫としてこの世に来られましたよ、という言葉で始まっていたんです。
 イエスさまは、今日のファリサイ派の人たちとのやりとりを通して、「あなた方が待ち望んでいるメシアとは、どういう方であるのか、よく考えてみなさい」と、おっしゃりたいのではないかと思います。あなたがたが考えているメシアと、実際のメシアは違っているのではないか」と。イエスさまはここで「わたしがメシアだ」とは言っておられません。しかしそのイエスさまは、このあと間もなく捕らえられ、十字架につけられるのです。ご自分の命を十字架で捨てて、私たちを救うためにご自分の命を十字架で投げ打ってくださる。そういうメシアであることを、身をもって明らかにされるのです。
 
   主君であるイエス
 
 さて、あらためて「主」という言葉について考えてみたいと思います。ダビデは聖霊によって幻のうちに見せていただいた、この世に来られる前のメシアを「主」と呼びました。主とは、主人とか、主君とかいう意味です。ダビデはイスラエルの王だったので、自分が一番偉いはずでした。しかしその王であるダビデが、「主」と呼んでいる方がいる。本当の主君が、別にいるということです。それが神であり、キリストであるということです。
 主君とか、主人とかいうと、何か昔の封建社会のことのように感じる人も多いでしょう。たしかに、会社では社長が偉いわけですが、それは仕事上のことであって、何か心から主君として仕えているわけではないということになります。心の中では社長や上司をバカにしていたりする。現代は、自分中心の世の中です。主君に仕えるというような発想は古い考えとされます。自分さえ良ければ良いのだという風潮です。その結果、神さまも信じない。もっとも、私もその一人でした。
 そこには、本当に仕えるに値する人がいないということがあるでしょう。たしかにそうです。人間みな罪人ですから、仕えるに値する人がいるかといわれれば難しい。信じて裏切られることも多い世の中です。
 しかしここに一人、主君と呼ぶことに値する方がおられる。それがイエスさまです。メシアであるイエスさま、キリストであるイエスさまです。なぜなら、この私を救うために、十字架で命を投げ出してくださったからです。救うに値しない私という人間を救うために、命を投げ出してくださった。身代わりとなってくださった。ここに私は、「主」とお呼びし、主君として仕えていくべき方を見いだしたのであります。


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