2021年4月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20章3
    マタイによる福音書22章34〜40
●説教 「愛なき世界の愛」

 
   人生の秘密
 
 私たちの人生には謎があります。その謎というのは、人生において様々なことが起こるのはなぜか、ということです。とくに、自分の願わないことが起きる。苦しいことが起きる。そうすると私たちは、「神がいるとしたら、なぜこのようなひどいことが起きるのか? なぜ自分の望まないようなことが起きるのか?」ということです。神がいるとしたら、なぜ自分の思うとおりにさせてくれないのか? 自分の望みをすべて叶えてくれないのか?‥‥そのように思われることです。
 その秘密の答えの一つが、今日の聖書箇所にあります。
 
   最も重要な掟
 
 今日の聖書では、ファリサイ派の中の律法の専門家の人が登場して、イエスさまに質問をしています。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?」
 これは純粋な質問ではないでしょう。なぜなら、質問をしたのは、今申し上げたように、律法の専門家だからです。律法というのは、ここでは旧約聖書における神の掟のことです。彼は律法の専門家なのですから、その答えについて自分なりの見解を持っていたはずです。だから純粋で、へりくだった気持ちでイエスさまに質問したのではありません。聖書には「イエスを試そうとして」と書かれています。
 律法の中で、どの掟が最も重要か。‥‥旧約聖書の律法には、多くの掟が書かれています。その数多くの掟の中で、どれが一番重要かという。このような問いは、私たちにとってはあまり関係のないことのように思われます。そんなことは私たちが生きていく上で、どうでもよい。そのように聞こえます。
 しかし、律法というのは神さまが定めた掟です。ですからこの律法の専門家の問いは、言い換えますと「神が求める最も大切なことは何か?」という質問だということになります。さらにもう少し言い方を変えると、「人生において最も大切なことは何か?」という問いでもあるわけです! すなわち、神さまが私たちに願う最も大事なことは何か?ということです。関係ないどころではありません。
 
   聖書が語っていること
 
 するとイエスさまは、二つの掟を挙げられました。それが37節と39節です。
 一つ目が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」であり、これが最も重要な第一の掟であるとおっしゃいました。二つ目が、「隣人を自分のように愛しなさい」であり、それは一つ目と同じように重要であるとおっしゃいました。そしてさらにイエスさまは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃったのです。
 この二つの掟が旧約聖書のどこに書かれているかということですが、最初の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟は、申命記6章5節などに書かれています。また、もう二番目の「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記19章18節に書かれています。
 しかしこの二つは、何百もある掟の中で、これとこれが一番大切だよ、というようなものではありません。つまり、百人一首の札の中で、この札とこの札が一番価値があるよ、というようなものではありません。なぜなら、イエスさまが40節で「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃっているからです。
 律法と預言者というのは、言い換えると「旧約聖書」ということです。当時は旧約聖書しかなかったので、聖書ということです。つまり、聖書はこの二つの掟に基づいているとおっしゃっているんです。言い換えれば、聖書はこの二つで説明できるということです。第一に、全身全霊であなたの神である主を愛せよ、第二に、隣人を自分を愛するように愛せよ、と。神に対する愛と、隣人に対する愛の二つです。上なる方である神への愛と、横にいる隣人への愛です。聖書はこのことを言っているのだということです。
 そうすると、有名な聖書の言葉に「神は愛です」という言葉があります。ヨハネの第一の手紙の4章16節です。その「神は愛である」というところに行き着きます。
 
   十戒も愛
 
 今日網一個所読んでいただいた聖書は、旧約聖書の出エジプト記20章3節です。出エジプト記20章と言えば、これはキリスト教会も重んじている十戒が書かれている所です。そして20章3節は、その十戒の最初、第一戒の言葉です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
 律法と言えば十戒です。モーセが神から直接賜った十戒が、律法の基本です。ではその十戒はどうなのか? 十戒には、「神を愛しなさい」とも「隣人を自分のように愛しなさい」とも書かれていないけれども、どうなのか?
 そこで「十戒」を見てみましょう。それは出エジプト記20章と申命記5章に書かれています。実は、十戒の数え方は、教派によって違いがあるのですが、プロテスタント教会の多くでは次のように分けています。
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・第1戒(3節)
 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
・第2戒
 あなたはいかなる像も造ってはならない。
・第3戒
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
・第4戒
 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
・第5戒
 あなたの父母を敬え。
・第6戒
 殺してはならない。
・第7戒
 姦淫してはならない。
・第8戒
 盗んではならない。
・第9戒
 隣人に関して偽証してはならない。
・第10戒
 隣人の家を欲してはならない。
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 たしかに、ここには「神を愛しなさい」とも「隣人を愛しなさい」とも書かれていません。しかし十戒を前半と後半の二つに分けることができます。前半が第1戒から第4戒、後半が第5戒から第10戒です。そして、前半は「神への愛」、後半は「隣人への愛」が書かれているということができるのです。
 たとえばきょう読んだのは出エジプト記20章3節の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」でしたが、これは聖書で証しされている主なる神さまだけを神とするとことです。これは考えてみますと、本当に主なる神を愛するのであれば、他の神と言われるものをあなたは神さまにしないよね、ということで、なるほどその通りだと思えます。そのように読んでいくのです。
 後半は隣人への愛に関して書かれています。たとえば第6戒「殺してはならない」ですが、隣人を愛するなら殺さないはずです。第7戒の姦淫もそうですし、第8戒の盗むこともそうです。なるほど隣人を愛していたら、姦淫したり、盗んだり、偽証したりしないはずです。
 そうすると、「私は人を殺したことはないし、殺したいとも思わないから、第6戒は守っている」というかもしれない。しかし本当にそうだろうか。たとえば、宗教改革者のマルティン・ルターは、この第6戒について、「隣人の身に危険災害の起こらないように未然に防ぎ、保護し、救助することができながら、それをしない人間も同罪である」と述べています。たとえば、着物を着せず裸で帰らせる、飢餓に苦しむ人を見て食を与えない、危機に瀕している人に救助の方法を知りながら救いの手を差し伸べない、などを挙げています。これらを殺人と同等の罪と考えた上で、隣人愛へと導きます。「それゆえ、人に不幸が降りかかるのを私たちが見過ごしにせず、むしろすすんで親切と愛とを示せ、というのが神のご真意なのである」‥‥と、この「殺してはならない」の意味について説いています。
 ここまでくると、私たちは本当に、この第6戒さえも守っているのだろうかと思わざるをえなくなってきます。そして、自分には愛が足りない、いやもっと言えば「愛がない」のだということが分かってくるように思います。神への愛がない、隣人への愛がない。それは私のことであるということが分かって来るように思います。そして聖書では、愛がないことを「罪」と言うのです。
 
   愛がない
 
 しかし、ではがんばって隣人を愛することができるかと言えば、それもできないのが私たちです。罪人だからです。しかしその愛が足りない、愛がない私たち、つまり罪人の私たちを、文字通りの愛で愛してくださる方がいる。それがイエス・キリストです。愛のない私たちを救うために、十字架にかかってくださったのです。愛がないわたしたちを愛してくださるのです。
 さて、今日の最初の質問はどうなるでしょうか? すなわち、「神がいるとしたら、なぜこのようなひどいことが起きるのか? なぜ自分の望まないようなことが起きるのか?」という私たちの人生の謎です。
 その答えは、私たちが神を愛し、隣人を愛するようになるためだ、ということになるかと思います。たとえば、私は昔、ずいぶん喘息という病気で苦しみました。神さまを信じるようになってからも、それは直ちに治りませんでした。私は「神さまなぜですか?」と問うたものです。しかし、もしあの苦しみがなかったとしたら、私はどんなに高慢な人間のままであったかと思います。もちろん今は人間が良くなったというのでは決してありません。しかし、病気をしたことによって、病気の人の苦しみが少し分かるようになったということは事実です。そして神さまへの感謝ということも、少しずつ分かることができたように思います。
 現在、新型コロナウイルスという困難に、私たちは直面しています。「神さまがいるのなら、なぜこんなことが起きるのか?」と思いたくなる方もおられるでしょう。しかしこのようなときこそ、隣人を愛すること、そして神を愛することへと導かれているのではないかと思います。
 私たち、愛のない罪人を、心から神を愛すること、そして隣人を自分のように愛することへと導いていってくださるということです。それは奇跡です。キリストが私たちになしてくださる奇跡を楽しみにしつつ、イエスさまに手を引かれて歩んでいきたいと思います。


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