2021年4月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書  詩篇148編2
    マタイによる福音書22章23〜33
●説教 「来世の人」

 
   オリーブ山の墓地
 
 エルサレムに行かれた方は、必ずオリーブ山に登ると思います。それはエルサレムの東側にある山と言うより丘と言った方がいいもので、そこに上るとエルサレムの市街地が一望できます。そしてその山がエルサレムの町に向かって下りの斜面になっているところに、墓地があります。その墓地の墓は日本の墓とはかなり違っていて、石で作った棺桶の形をしたものが並んでいます。その中に故人の遺体が納められているとのことでした。そしてその棺桶状の石の墓は、みなエルサレムの街の方を向いて並んでいるんです。街のどこを向いて並んでいるかというと、ガイドさんの言うには、かつてエルサレムの神殿があった丘、今はイスラム教の寺院である「岩のドーム」が立っている場所を向いているのだそうです。どうしてそこを向いて作られているかというと、メシアが来たときにその神殿が建っていた丘に降り立ち、死んだ人が復活すると信じられている。そして墓からよみがえった人が、その丘の方を向いて、スッと立ち上がることができるように、そちらを向いて並んでいるのだということでした。つまり、死んだ人がメシアが来て復活するのを待っているわけです。
 問題は、ユダヤ教徒にとっては、そのメシアはイエスさまではないということです。つまり、メシア(キリスト)は、まだ来ていない。これから来ると信じているんです。
 いずれにしても、メシアが来て死んだ人が復活することを信じているということは、現在のユダヤ教が、聖書に出てくるファリサイ派の系統のユダヤ教であることを示しています。
 
   サドカイ派
 
 本日の聖書箇所で、イエスさまを試しに来たのはサドカイ派という人たちです。サドカイ派は、当時のユダヤ社会では、おなじみのファリサイ派と並ぶ2大宗派でした。ほかにもエッセネ派というのがありましたし、聖書に出てくるところで言うと、熱心党とか、この前登場したヘロデ派というグループもありました。
 サドカイ派は、どういう人たちかというと、神殿で仕える祭司たち、そして貴族が多く加わっていた派でした。一方、ファリサイ派は、庶民を中心としていました。
 そして中身で言うと、ファリサイ派との違いは、サドカイ派は私たちが旧約聖書と読んでいる書物の中で、モーセ5書と呼ばれる書物だけを正典、つまり聖書としていたことです。モーセ5書というのは、私たちの旧約聖書で言えば、最初の5つの書物ですね。つまり創世記から始まって、申命記まで。これを「モーセ5書」と呼びます。なぜモーセ5書と呼ばれるかというと、モーセが書いたと信じられてきたからです。なおユダヤ教ではモーセ5書のことを「律法」と呼びます。
 そしてサドカイ派は「復活」ということを信じませんでした。それが今日彼らがイエスさまに尋ねた質問に表れているというわけです。
 
   復活とは
 
 復活という言葉は、聖書では体のよみがえりという出来事のことを言います。十字架で死なれたイエスさまが復活したということに見られるように、です。
 そういうことをサドカイ派の人たちは信じなかったんです。23節に「復活はないと言っているサドカイ派」と書かれています。また、(使徒23:8)「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」とも書かれています。そのようにサドカイ派は、死人の復活も天使も信じなかった。
 復活ということで注意しておきたいのは、いわゆる霊魂不滅と復活は違うということです。霊魂不滅というのは、私たちの肉体が死んでも、魂はあの世に行って生きるという考え方です。それは多くの宗教が言っていることです。
 それに対して新約聖書は、すなわちキリスト教では、死んだ人の霊は神さまのところか、または陰府に行く。そしてやがてキリストが再臨して復活する時を待つということです。その場合の復活は、体のよみがえりです。
 
   サドカイ派の問い
 
 さて、サドカイ派の人たちは、イエスさまに尋ねました。これは純粋に質問したのではなく、「復活」を信じない彼らの正しさを主張しようというものでありました。そして復活をいうイエスさまを民衆の前で論破しようとするものでした。彼らが持ち出したのは24節で言っているように、モーセの律法でした。
「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」
 これは旧約聖書の申命記25章5〜6節に書かれていることです。一般にこのような婚姻はレビラト婚、またはレビレート婚と呼ばれています。このように、ある夫婦に子供が生まれないままで夫の方が亡くなった場合、その夫の弟が夫の妻をめとる。なぜこのようなことをしたかというと、それは家を絶やさないためです。子供がいないと家系が断絶してしまいます。それでそうならないために、死んだ夫の弟が夫の妻をめとるんです。
 サドカイ派の人が持ち出したのは、長男が子供がいないまま死んで、その妻は夫の次男と結婚し、次男との間にも子供が生まれないまま次男が死んで、その妻は三男と結婚し‥‥という具合に、その女性は結局その兄弟7人と結婚した。そうすると、復活したときには、その女性は一体誰の妻になるのか?‥‥と。
 このサドカイ派の質問は、もっともな話だといえるでしょう。普通に考えると、「はて、かつて結婚した兄弟7人がみな復活したら、誰の妻になるのか?」と頭を悩ませることになります。だからこそ彼らはイエスさまを追い詰めようとしてこのような質問をしたわけですが。
 これが「復活」ではなく、「霊魂不滅」ならば、体はなくて、魂が生きているといっても幽霊みたいな感じで残るわけですから、また結婚するということはあり得ないように思えますが、復活となると体が伴うことになるので、たちまち「誰の妻になるのか?」という問題が起こるように思われます。ですから、サドカイ派の人々の質問は、もっともな話に聞こえます。
 しかし、体は死んでも魂は残り続けるというような霊魂不滅の考え方ですと、「誰の妻になるのか」という問題は発生しませんが、それは何か人間の抜け殻のような状態に思えますので、これならこの世の肉体を伴った、今の方がよほど良いということに思われるのではないでしょうか。
 
   聖書も神の力も知らない
 
 さて、この難問と思えるサドカイ派の質問に対して、イエスさまがお答えになったのは次のような言葉でした。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
 あなた方は聖書も知らない、知っているつもりでいるが実は知らない、神の力も知らないから、そんなことを考えるのだと。たしかにサドカイ派は、聖書のうちモーセ5書しか聖書としていないけれども、そのモーセ5書には、神さまという方が天地を造られた方であり、私たちすべての者をお造りになった全能者であることが書かれているわけです。人間を土のチリで造られ、息を吹き込んで生きる者とされたのは神であることが創世記に書かれています。そういう偉大な神の力が書かれている。神には不可能なことがないことが書かれている。あなた方はそのモーセ5書を信じているはずなのに、そういうことが信じられないのか、と言われているかのようです。だから思い違いをしているのだと。この世の知恵で考えているから、そのような思い違いをしている。
 「天使のようになるのだ。」
 私が小学生の頃、夏になると、よく近くの山にカブトムシやクワガタムシを捕りに行ったものです。私どもの友だちの間では、カブトムシよりもクワガタムシの方が人気がありました。クワガタの中では、私はミヤマクワガタが好きでした。なんか名前が小宮山に似ていたからです。しかしみんなの中では、ヒラタクワガタが人気がありました。それが一番強かったからです。
 そういうわけで、みなクワガタを集めて飼うのがはやっていましたが、中にはクワガタやカブトムシの幼虫から飼っている子がいました。カブトムシやクワガタムシの幼虫というのは、芋虫に似ているのですが、色は白くて太く、丸まっています。そして土の中に住んでいます。とてもこれがカブトやクワガタになるとは思えないような姿です。その幼虫が、将来カブトやクワガタになるということを知らなければ、決して飼わないでしょう。しかしその土の中の幼虫が、やがて子どもに人気のカブトムシやクワガタムシになるという希望を持って、子どもはそれを飼っているんです。
 また、芋虫はどうでしょう。芋虫は、卵から孵ったときには親がいません。ですから芋虫は、将来自分がどのようになるかを知りません。芋虫は蝶を見て、「あのように自由に空を飛んであちこちいけるようになりたいなあ」と思うかもしれません。しかしまさか自分がその蝶になるとは、夢にも思わないでしょう。
 私たちは、今のことしかわかりません。しかし「天使のようになるのだ」とおっしゃった、この方、イエスさまは、天の父なる神の所から来られた方です。イエスさまは知っておられるんです。
 それにしても「天使のようになるのだ」という言葉は気になります。いろいろ想像してみたくなります。天使について聖書からわかることは何でしょうか。それはまず、神さまの使いであるということです。そして天使は、神さまのそばで神さまに仕えています。仕えるというのは、礼拝するということを含みます。神さまと直接お目にかかって、神さまを礼拝しています。そしておそらく永遠の存在です。永遠ということは、愛に生きているということです。聖書に次のように書かれています。
 (1コリント13:13)「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 しかし、それ以上のことはよくわかりません。聖書を通して今、私たちに知らされている以上に語ることはできないのです。使徒パウロは、復活したときには、肉の体ではなく、「霊の体」「天井の体」(1コリント15章)に復活すると述べています。あとは、愛である全能の神にお任せすることになります。神さまを信頼して、お任せするんです。イエスさまによってこのように言われているのですから、そのイエスさまを信じるんです。「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:13)とおしゃったイエスさまを信じてお任せする。それが私たちの希望です。
 
   生きている者の神
 
 イエスさまは、死んだ人間の復活のしるしは、サドカイ派が大事にしているモーセ5書にも書かれていることを述べられました。
 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)
これは、神さまがモーセを呼ばれたときにおっしゃった、神さまの自己紹介の言葉です。アブラハム、イサク、ヤコブ。これはイスラエルの先祖です。ヘブライ語でははっきりしませんが、ギリシャ語では、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という現在形で書かれています。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だった」ではない。「である」と言われています。これは現在もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、将来にわたってアブラハム、イサク、ヤコブの神であるということを強く印象づける言い方であろうと思います。そしてイエスさまはおっしゃいました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
 現在、水曜日の聖書を学び祈る会では、ヨハネの黙示録を読み始めています。先週学んだ箇所に次のように書かれていました。イエスさまの言葉です。
 「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」(黙示録1:18)
 世々限りなく生きておられるキリストが、私たちを招いておられる。キリストのもとに来るように、キリストと共に生きるようにと。私たちは喜んでキリストのもとに行く者でありたいと思います。


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