2021年4月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上18章30
    マタイによる福音書22章15〜22
●説教 「神のものは神に」

 
   皇帝への税金
 
 本日の聖書箇所は、イエスさまを罠にはめようとする人たちとイエスさまとの問答です。そして、イエスさまを罠にはめようとする人たちが去って行きます。
 この出来事を読んで、なにかイエスさまは賢いなあ、うまく罠をかわしたなあ、と感心して終わってしまってはなりません。何か一見、イエスさまが一休さんのごとく、とんちを効かせて、相手をぎゃふんと言わせた出来事のように見えますが、実はそういうものではない。もっと人間の本質の問題に迫っていると言えます。
 イエスさまに対して問いを持ってきたのは、ファリサイ派とヘロデ派の人たちでした。ファリサイ派とヘロデ派は、お互い仲が悪かった者同士です。ところがここでは一緒になってイエスさまに質問を持ってきている。こういうのを「呉越同舟」と呼びます。
 ファリサイ派は厳格な宗教家でしたから、イエスさまが自分たちの教えと違うことを教えていることに我慢がならない。民衆がイエスさまの方を信じていっているのを、これ以上放置できないと考えています。また、ヘロデ派というのは、そのときの領主であるヘロデ支持派ですから、現実重視ですね。しかしイエスさまをメシア=救い主と信じる人々が増えていって、騒動になったらローマ帝国が介入してきてとんでもないことになるかもしれない。だから放っておけない、というわけでしょう。つまり、両者は利害が一致したわけです。それで呉越同舟で、イエスさまを罠にかけ、取り除こうというわけです。イエスさまを排除するという一点だけで一致している。それはすなわち、神さまを排除することだけで一致したということに等しいわけです。自分たちこそ最も忠実な信仰者であると自負するファリサイ派が、実は神を排除しようとしているということになります。
 彼らは一緒になって、神殿の境内で人々を教えているイエスさまのところにやってきて言いました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。」こういうのを「心にもないことを言う」と言うのでしょう。つまり、イエスさまを尊敬をしているふりをして質問を持ってきたわけです。
 もっとも、彼らの言ったその言葉そのものは、当たっています。まず「あなたが真実な方」であると言っています。イエスさまが真実な方であると。この「真実」という言葉のギリシャ語は「アレーセイア」という言葉で、「まがいものや不完全なものではなく本物である」という意味です。本当に真実で、本物であるという方、それはまさにイエスさまのことです。さらに、「真理に基づいて神の道を教え」ていると言っています。そして、「誰をもはばからない」。これもその通りです。イエスさまは、相手が宗教指導者であっても、どんなに偉い人であっても、言葉を割り引いたりしない方です。そして「人々を分け隔てなさらない」。これもまたその通りであって、イエスさまは、人を分け隔てするようなことはなさいません。相手が地位のある人だからと言って特別扱いをなさらないし、名もなく貧しい庶民であるからと言ってぞんざいに扱うということもなさらない。あの人の言うことは聞いて、私の言うことは聞いてくださらない、ということがない。イエスさまという方は全く人を分け隔てすることはありません。そういうことですから、彼らがイエスさまに言った心にもないことの、その言葉自体は正しい。
 しかし問題は、彼ら自身は少しも自分たちが言ったようには思っていないということです。そして、イエスさまを罠にかけるためにこのような質問をしたということです。そして彼らの持ち出した質問は、皇帝に税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、かなっていないでしょうか、ということでした。律法というのは神の掟ですから、要するに皇帝に税金を納めることは神の御心にかなっているでしょうか、いないでしょうか、ということです。
 この問いが罠であるわけです。もしイエスさまが、「かなっている」と答えたとしたら、それは人々の失望を招くことになります。なぜなら、人々はローマ帝国に納める税金で苦労していたからです。そもそも異教徒であるローマ帝国によって自分たちが支配されていることが我慢ならないことです。その異教徒の皇帝のために、重い税金を納めるというということを喜んでする人はいません。なのに、メシア=救い主であると人々が信じ始めていたイエスさまが、「皇帝に税金を納めることは律法にかなっている」と答えたとしたら、失望落胆し、去って行く。そうすれば、イエスさまを亡き者にしようと企んでいる人たちは、やすやすとイエスさまを逮捕し、抹殺することができることになります。なぜなら、彼らは民衆の反発を恐れていたからです。
 いっぽう、逆にその問いに対してイエスさまが「かなっていない」と答えたとしたら、今度は、イエスさまがローマ皇帝に対して反逆を企てたという罪を着せて、彼らはローマ帝国に訴えることができます。そしてイエスは捕らえられ、処刑されるという算段です。そのように、どちらに転んでも、イエスさまを取り除くことができるという計略であり、そういう質問をしたのです。
 まさに手に汗を握る展開であり、周りにいた群衆もイエスさまの答えを固唾をのんで見守っていたことでしょう。もっとも、イエスさまという方は、民衆の支持をつなぎ止めるために考えを曲げたり、あるいは捕らえられて処刑されることを避けるために、本当のことをおっしゃらない‥‥というような方ではありません。罠だろうが何だろうが、本当のことをおっしゃる方です。それが彼ら自身の言葉の中にあった、「あなたが真実な方で、真理に基づいて教え、誰をもはばからない方」であるということです。
 
   イエスの応答
 
 彼らの質問に対して、イエスさまはまずおっしゃいました。「偽善者たち」と。彼らが、イエスさまを罠にかけようとする自分たちの本心を隠して、このような質問をしてきたことに対して、イエスさまは「偽善者」とおっしゃった。厳しい言葉です。しかし本当のことです。
 しかしもう少し踏み込んで考えると、この偽善者という言葉は、彼らが自分たちの本心を隠し、いかにも教えを請うような姿勢で尋ねたことについておっしゃったとのではないような気がします。すなわち、そういうことを「偽善者」とおっしゃっているのではなく、彼らの信仰のあり方がまさに偽善者だとおっしゃっているようにも聞こえます。すなわち、例えばファリサイ派は、自分たちは忠実に神を信じている信仰者であると思っているけれども、それは見せかけではないか、ということです。彼らの信仰そのものが見せかけ、つまり偽りであるとおっしゃっているのではないか。それは、続く出来事が明らかにしています。
 イエスさまは彼らに対して、「税金に納めるお金を見せなさい」とおっしゃいました。すると彼らがデナリオン銀貨を持ってきました。するとイエスさまは、そのデナリオン銀貨を見て、「これは、誰の肖像と銘か」と言いました。
 デナリオン銀貨。それはローマ帝国の発行している銀貨で、皇帝の肖像が刻まれ、銘が刻印してありました。それはその貨幣の所有者がローマ皇帝であることを示すものでした。同時にそれは、ユダヤ人にとって忌まわしいものでありました。ユダヤ人にとっては、そのコインに彫られた皇帝の彫刻は、偶像そのものでした。言うまでもなく、偶像は彼らの律法で禁止されていました。さらに、そのコインを使わざるを得ないということは、自分たちが異教徒の支配の元にあることを歴然として示すものでした。そのようなお金を使って生きざるを得ないという屈辱そのものでした。
 イエスさまは、そのお金を持ってこさせたのです。彼らが今使っているお金、そして彼らが持っているデナリオン銀貨を持ってこさせたのです。言葉で説明するのではなく、実物を持ってこさせました。実物を前におっしゃったのです。
 イエスさまはいつもそのようになさいます。机上の空論ではなく、現実を示しておっしゃいます。たとえば、「神はいるのか、いないのか」というようなことについても、イエスさまは「野の花を見なさい」(マタイ6:28)とおっしゃいました。その時、イエスさまのお話しを聞いていた人々は、自分たちが座っている地面の近くに咲いている野の花を見たことでしょう。そしてイエスさまは、野の花でさえも神がそのように美しく装ってくださる事を示し、「だから、何を食べようか、何を飲もうかと明日のことで思い悩むな」とおっしゃったのでした。実際に神が生かしていてくださる実物を前に教えられたのです。
 
   イエスの返答
 
 イエスさまは彼らに「税金に納めるお金をみせなさい」とおっしゃり、デナリオン銀貨を持って来させました。そして「これは誰の肖像と銘か」と尋ねました。あなたが持っているそのお金の肖像と銘は誰か、と。すると当然彼らは、「皇帝のものです」と答えました。するとイエスさまは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。彼らはこれを聞いておどろき、イエスをその場に残して立ち去った、と書かれています。
 彼らは何に驚いたのでしょうか? そして、なぜ去っていったのでしょうか?‥‥彼らの問いをうまくかわしたからでしょうか? その知恵に驚いたのでしょうか?
 そうではないと思います。彼らは、イエスさまの言葉に対して、返す言葉がなくなってしまったからだと思います。彼らはイエスさまに質問しました。しかし、このイエスさまの言葉は、逆に質問した彼ら自身ヘの問いとして戻ってきてしまったに違いありません。そして彼ら自身の矛盾、そして不信仰に自分で気がついた。そのことに驚いたのだろうと思います。それで言葉を失ってしまった。
 イエスさまは、彼ら自身が持っていた貨幣を持って来させ、「これは誰の肖像と銘か」とお尋ねになりました。すると彼ら自身が「皇帝のものです」と答えました。そしてイエスさまは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。道理です。だとしたら、彼らは持っているお金すべてを皇帝に返さなければならないことになる。しかしそうすると、彼ら自身がその皇帝の刻印されたお金を使って生活しているので、生活できなくなる。しかし本当に彼らが神を信じているのなら、皇帝にお金をすべて返してしまっても、神さまが養ってくれると信じることができるはずです。しかし、そこまで信じられない。‥‥それで彼らは言葉を失ってしまった。自分自身の不信仰に気がついて、驚いた。‥‥そういうことではなかったかと思うんです。
 
   神のものは神に
 
 ここで浮かび上がってくるのが、もう一方のイエスさまの言葉です。すなわち「神のものは神に」のほうです。
 「神のものは神に返しなさい」‥‥「神のもの」とはなんでしょうか?‥‥本当のことを言えば、神さまがこの世界を造られたのですから、この世界のすべてのものは神さまのものです。
(出エジプト記19:5)「世界はすべてわたしのものである。」
 とくに、(創世記1:27)「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と記されています。デナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻印されていました。私たちには、いわば神の刻印が押されているのです。「あなたは私のものだ」と、神の刻印が押されている。だから、その神のところに帰りなさいと。「神のものは神に返しなさい」!「あなたは神さまのものだから、神さまに返しなさい」と。そういう言葉として聞こえてまいります。
 そう考えますと、神を信じるということは、ごく当たり前のことだと言うことができます。「なぜ神を信じるのか?」と聞かれたことが、皆さまにもあるかもしれません。その問いに対してはいろいろな答えがあると思いますが、突き詰めて言うと、今日の言葉に行き着くのではないかと思います。「神のものは神に返しなさい」と、イエスさまは言われました。私たちが神によって造られた、神のものである。だから神さまの所に帰る。神を信じるのだということです。
 そしてイエスさまは、私たちを神に返すために十字架に向かって行かれたと言うことができます。神にそむき、不信仰で、罪を犯してきた、本来ならば、神のもとに帰る資格がない私たちを、神のもとに返すために十字架へ向かって行かれたのです。それで私たちはイエスさまに感謝して、もう一度神のものとしていただくことができます。


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