2021年4月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ルカによる福音書24章28〜35
●説教 「よみがえりの食卓」

 
 本日のイースター礼拝のために選んだ聖書箇所は、昨年のイースター礼拝で読みました箇所の続きです。
 思い返せば、昨年は新型コロナウイルスの感染拡大状況に伴い、イースター礼拝から、礼拝堂に集まっての礼拝を休止といたしました。それでイースター礼拝は、この会堂に役員など数名のみが集って行われました。ガランとした礼拝堂の中で守られたイースター礼拝。このようなことは、今まで日本の教会が経験したことがないことでした。
 しかし一方で、それぞれの方がご自宅でイースター礼拝を守ることによって、それまでにない気付きを与えられたということもあったのではないかと思います。それは、私と復活のイエスさまという、一対一の関係です。この私という一人の人間に近づいてこられる復活のイエスさま。そういうことがより強く思われたのではないでしょうか。
 本日も、ご自宅で礼拝を守っておられる兄弟姉妹たちのことを覚えつつ、みことばに耳を傾けてまいりたいと思います。
 
   エマオへの道にて
 
 さて、本日の聖書箇所ですが、先ほど申し上げましたように昨年のイースター礼拝で読んだ聖書箇所の続きです。
 イエスさまが十字架にかけられ、死なれて葬られてから三日目の夕方。二人の弟子が、エルサレムの都を去り、エマオという村に向かって歩いていました。エマオという村は、現在のイスラエルのどこにあるのか分かっていませんが、「エルサレムから60スタディオン離れた」と13節に書かれていることから、エルサレムから北西方向に約11キロ行った所にあったと考えられています。
 その道を歩いていたのは二人の弟子であり、そのうちの一人がクレオパという人であったと聖書に書かれています。もう一人の名前は書かれていません。それでもう一人の弟子とはだれかということですが、クレオパの妻ではないかとか、あるいはもっとほかの弟子ではないかとかいろいろ推測されています。とにかく、クレオパにしても、聖書ではここにしか出てこない名前ですので、12使徒以外のイエスさまに従って行った多くの弟子のひとりとしか分かりません。
 その二人の弟子が、イエスさまの十字架の出来事があった首都エルサレムから、エマオの村に歩いていた。おそらく、自分の家に帰っていったのでしょう。イエスさまが十字架で死んで墓に葬られてから三日目です。イエスさまのことを救い主であると信じていた弟子たちにとって、そのイエスさまが死んでしまわれたということは、もう終わった、ということ以外の何ものでもなかった。だから、いつまでも家を空けているわけにもいかない。それで、この二人の弟子は自分たちの家に帰って行った。
 その道中、ふたりは、今朝聞かされたビッグニュースについて話し合っていました。そのニュースとは、朝早くイエスさまの葬られた墓に行った婦人の弟子たちから聞かされたことでした。それは、イエスさまが葬られた墓が空になっており、さらに天使からイエスさまのよみがえりを聞かされたというものでした。そのことについて不思議に思いながら話し合いつつ歩いていたのでした。
 するとその二人と一緒に、いつの間にかイエスさまが一緒に歩き始められた。しかし二人は、なぜかそれがイエスさまであることが分からない。聖書は、二人の目がさえぎられていたと書いています。
 なぜよみがえられたイエスさまが、この二人のところにその姿をお見せになったのか? 今まで名前も出てこなかったようなこの二人に? 以前のイエスさまのいなかった時の生活に戻りつつあった二人のところに、よみがえられたイエスさまが、いつの間にか近づいて、歩き始められたように見えます。
 そのイエスさまが二人に何を話し合っていたのか?とお尋ねになる。それで二人は、イエスさまの十字架の死と、空っぽの墓のこと、そして復活が天使によって告知されたということを不思議そうに述べる。するとイエスさまは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシア(=キリスト、救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃって、聖書全体にわたり御自分について書かれていることを説明されたのでした。
 ここで不思議に思うのは、なぜイエスさまは二人に対して「ほら、私だよ、イエスだよ」とおっしゃらなかったのか、ということです。この二人は今一緒に歩いているその人がイエスさまであることがまだ分かっていないわけですから、「私をよく見なさい、イエスだよ、よみがえったんだよ」とおっしゃれば話は早いわけです。ところがイエスさまはそれをなさらないで、聖書、すなわち旧約聖書全体からキリストについて予言していることを解き明かして、苦しみを受けた上に栄光に入る、すなわち復活することを説明なさる。‥‥どうしてこんな回りくどいことをされるんだろうと思うわけです。
 キリストが復活されることを、聖書を通して悟れと言われる。しかし私は、ここに意味があると思うんです。つまり、イエス様はご自分の正体を明かすことによって、復活の事実を知れと言われるのではなく、聖書をちゃんと読むことによって復活を悟れと言われるんです。
 私たちもそうです。私たちも、「イエスさま、そのお姿を見せてください」と言いたい時があると思うんです。しかしイエスさまは、聖書をちゃんと読むようにと導かれるのだと思います。それで十分なのだと。
 
   なおも先へ行こうとされるイエス
 
 さて、そうして歩いていると、2人の目的地であるエマオの村の近くまで来ました。もう日も暮れつつある。しかしイエスさまは、なおも先に行かれる様子だったと書かれています。それで二人は、無理にイエスさまを引き留めて、家に迎え入れた。
 ここが謎です。イエスさまは、いったいどこへ行こうとされていたのでしょうか? まだ二人は、それがイエスさまであること、すなわちイエスさまがよみがえられたことが分かっていないのに、どこへ行かれるというのでしょうか? どこか遠いところに行かれようとしたのでしょうか? しかし、この二人の家での出来事の後、エルサレムの弟子たちが集まっている家に再び現れられたことを見ると、どこか遠い所へ行こうとされたのでもなさそうです。イエスさまはこの二人のためにその姿を現されたのではなかったのか?
 それで私は、この、"一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。"と聖書に書かれている言葉について、何か日本語に翻訳するときに間違えたのではないかと思い、調べてみましたが、そうでもなさそうです。またほかのすべての聖書がほぼ同じように訳しています。そうすると、やはりイエスさまは、同行した二人の目的地である家のそばまで来たけれども、さらに先に進んでいく用事があったということになります。それはいったい何なのか? そして、この二人との用はもう済んだのか?
 なにか、他にもこの二人と語ったのと同じように話しをしなければならない人がいる、と言わんばかりです。そのように、なぜイエスさまはさらに進んでいこうとされたのか、を考えていきますと、やはりこの二人との用は済んだのだと言わざるを得ません。たしかにまだ二人は、その人がよみがえったイエスさまであることは分かっていない。しかしすでにイエスさまは、この二人に対して、聖書をよく読み、キリストの復活が予言されていること、そしてそれはイエスさまに対して起こったとおりであることに気がついて、それを信じることで十分なのだということだろうと思います。そして、今一緒に歩いてきた人がイエスさまだったのだ、と気が付くことで十分なのだと。
 
   パン裂き
 
 しかし二人は、さらに先に行こうとされるイエスさまを無理に引き留め、家に招き入れました。
 なぜ無理に引き留めたかというと、それは旅人をもてなすことは旧約聖書の律法で教えられていることだからということがまずあるでしょう。特にもう夕方となりますから、旅人を野宿させるわけにはいきません。そういうことがあったでしょう。しかしそれだけではなく、もっとこの人からお話を聞きたいという思いがあったのではないでしょうか。それが32節に記されている言葉、二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言ったということに表れています。つまり、イエスさまとともに歩いて、聖書の説明のお話を聞いているとき、心が燃えた。だから、もっとお話を聞きたい、と。
 そうして二人はイエスさまを無理に引き留め、家に招き入れた。そして食卓に着いた。すると、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」と書かれています。
 ふつうは、食卓でパンを裂いて家族に渡すのは、その家の主人のすることだそうです。しかしここではイエスさまが家の主のようになり、食膳の感謝の祈りをささげてパンを裂いて、ともに食卓に着いている人に渡されたという。
 そしてそのとき、「二人の目が開け」、それがイエスさまであることが分かったというのです。なぜそのときそれがイエスさまであると分かったのでしょうか? パンを手に取ったイエスさまの両手に、十字架にくぎで打ち付けられたときに開いた穴が見えたからでしょうか? たしかにそれも考えられないことではありません。
 しかし聖書には「すると、二人の目が開けイエスだと分かった」と書かれています。二人の目が開いたんです。この「目が開け」るという言葉は、単に目が見えるということではなく、「見えるべきものが見える」という意味で使われています。もう少し言えば、肉眼でそのまま見えるということではなく、神さまによって、見えるべきものが見えるということです。神さまの世界のことが見えるということでもあります。
 たとえば、旧約聖書の列王記下の6章に、ある日、預言者エリシャとその従者である若者が、敵国の軍隊によって町を包囲されたという出来事が書かれています。朝早く起きてみると、町が敵の軍隊によって包囲されていた。自分たちを捕えに来たのです。それで若者は恐怖におののいた。するとエリシャは「恐れてはならない。私たちとともにいる者のほうが、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈ったのです。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と。すると主が若者の目を開いてくださり、自分たちの回りを火の戦車が満ちて守っていてくれるのが見えたのです。
 そのように、神の世界の出来事が見える。それがここで書かれている、目が開かれる、ということです。それは神さまによって開かれたんです。それではじめて、今まで一緒に歩いてきた人、そして今この食卓でパンを裂いて渡した人が、イエスさまであることが分かったんです。すると、イエスさまの姿が見えなくなったという。やはり先に行かれたんでしょう。これもまるで、この食卓でパンを裂いているのがイエスさまであることが分かったのなら、それで十分だと言わんばかりです。
 さて、イエスさまがパンを裂いて渡されたというこの出来事ですが、これは教会で行われる聖餐式のことを表していると言えるでしょう。なぜなら、聖餐式のことを聖書では「パン裂き」と言っているからです。最後の晩餐でイエスさまがパンを裂いて弟子たちに与えておっしゃった言葉、「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)。続けて、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マタイ26:28)とおっしゃった言葉。この言葉が聖餐式で唱えられるとき、そこにキリストがたしかにいて下さる。パンについて「これは私の体である」とおっしゃり、杯の中のものについて「これは私の血である」(命である)とおっしゃる。そして「これを受け取れ」とおっしゃる。そこにたしかにキリスト・イエスさまがいて下さることを指し示された。
 そのように言うことができます。本日もこのあと聖餐式が行われますが、わたしたちの目が開かれて、たしかにキリストがそこにいて下さることを信じることができるように祈ります。
 
   心が燃えていた
 
 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。
 心が燃えていた。心が熱くなったということでしょう。キリストが、このような罪人の私にも近づいてくださり、顧みてくださることが分かる。こんな者でも愛してくださっていることが分かる。そのことを知ると心が熱くなります。感謝でいっぱいになります。そしてまた、聖書の中にキリストを見いだすとき、心に燃えるものがあります。そこに神の愛があるからです。私たちが愛されていることを知るからです。
 私たちも、この二人のように、イエスさまが一緒に歩んでくださっていることがなかなか分からない。しかし、聖書を読んで神の言葉を聞いて、「ああ、たしかにイエスさまが共に歩んできてくださったのだ」ということが分かるように。信仰の目が開かれるように。主がたしかに復活されて、生きておられるのであることが、今週も分かる者でありたいと願います。


[説教の見出しページに戻る]