2021年3月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 レビ記16章3
    マタイによる福音書22章1〜14
●説教 「ふさわしい礼服とは」

 
 本日は棕櫚の主日です。そして今日から受難週に入ります。そして、私たちが今礼拝で読んでいますマタイによる福音書は、ちょうどその受難週の出来事が記されています。
 昨年の受難週は、新型コロナウイルスの感染状況が日増しに悪化し、3月から休校に入ったままの学校の休校が延長され、さらに緊急事態宣言が発令されるかどうかという状況の中でした。教会も厳しい判断を迫られることになりました。それらの状況は、一年たった今も変わっていません。私たちはそのような中で、まさに生ける神の言葉として聖書を読もうとしています。それは現実離れした言葉ではありません。すべてをご存じである神が、聖書を通して語られる言葉です。
 
   たとえということ
 
 本日もイエスさまのたとえ話が語られています。この「たとえ話」というものについてですが、それを解釈するときに注意すべきことがあります。それは、たとえ話に中に出てくる事柄を、「これは、こういうことを指している」とか「これは、何のことを指している」とか、いちいちすべて何かのことをたとえていると考えないほうがいいということです。今日のたとえ話で言えば「婚宴」とは何のことを言っているのか、王が送った「軍隊」とは何のことを指しているのか‥‥というように、たとえ話に出てくるすべての言葉について、いちいち「これは何のことを指している」と詮索することには、あまり意味がないということです。                    
 たとえば、今どきの就職活動における会社の面接では、会社の面接官から「あなた自身を動物にたとえるとしたら何ですか?」というような質問をされることがあるそうです。そのような質問をなぜするかというと、突然そのような意表を突いた質問をして、本人のアドリブ力、アイデア力を見たりするためだそうです。そういう質問をされた場合、どのように答えたらよいかということを解説しているサイトまであるんですが、その中に次のような答え方の例が書かれていました。
 その質問にたとえば「カバ」と答える。そしてその説明として、「カバはのんびりしているように見られますが、ここぞということに力を発揮します。私もカバのように普段はのんびり屋に見られることがありますが、いざというときには力を発揮するタイプだと思います」‥‥というふうに自分をアピールできるのだというんです。なるほどと思います。
 そのように自分を「カバ」にたとえた場合、今の答えのように「ふだんはのんびりしているように見えるが、いざというときに力を発揮する」という点だけをたとえたわけです。それなのに「カバは水の中で暮らしているけれども、あなたも水の中で暮らしているのか?」などと言っても仕方がないことになります。「ふだんはのんびりしているように見えるが、いざというときに力を発揮する」ということを言いたいためだけにカバにたとえたのであって、それ以外のことを言いたいわけではないからです。
 イエスさまのたとえ話も、それと同じことです。イエスさまが、このたとえでおっしゃりたいことは何であったのか、その一点に注目しないと的外れになってしまいます。
 
   招かれた人
 
 さて、そのようなことを踏まえて、今日のたとえ話に耳を傾けたいと思います。そうすると、イエスさまのおっしゃりたいことは何か、ということですが、やはりそこは、まずこの話のおかしな点に注目することをしたいと思います。
 まず、今日のたとえ話も「天の国」のことをたとえておられます。つまり神さまの世界のことをたとえておられます。そして天の国のことを、(2節)「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われます。ここで注意しないとならないのは、「天の国」つまり「神の国」をたとえるのに、「ある王が王子のために婚宴を催す」という行為にたとえていることです。つまり、天国をたとえるのに、「シャガールが描いた絵のようだ」というように、静止画のようにたとえられているのではないということです。「王が王子のために婚宴を催し、そこに人々を招く」という、一つのストーリー、動画のようにしてたとえられていることです。そしてそれは、私たちをその物語の中に引き込んでいくことになります。まずそのように、イエスさまのたとえ話は、私たちをその物語の中に巻き込んでいくような話しになっています。
 そうして読みますと、やはりおかしな点があります。それはまず、王が王子の婚礼のための宴席に招いていた人々が、来なかったという点でしょう。王様が招待したのに来ない、しかもそろいもそろって皆来ないというのは、どう考えてもおかしいでしょう。当時の王様が招待する人というのは、社会的な地位のある人たちだったでしょう。王様と懇意にしていた人たちに違いありません。それなのに来ない。「おかしいな?」と思われます。
 それだけではありません。王がさらに「食事の用意が調いました」と言って家来に呼びに行かせると、招待された人たちは、無視したり、または家来を捕まえて暴行を加えたり、殺したりしてしまったというのです。これはもはや異常事態です。考えられません。王は怒って、軍隊を差し向けてその人達を滅ぼし、町を焼き払いました。現在の私たちはこれもひどい罰に見えますが、当時は王の怒りによって町が滅ぼされるというようなことは、ないことではなかったので、そこが問題なのではないと思います。王の招待を拒絶した人たちがいたということが、おかしい。
 さらにこの王様は「招いておいた人々はふさわしくなかった」として、代わりに「町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」というんです。これもありえないことですね。王子の婚礼ですよ。通りにいる人は誰でも良いというのは、そんなことはありえない。しかしこの王様は、そのありえないことをする。もう、誰を招待するかではなく、とにかく婚宴の席をいっぱいにすることのほうに目的があるということが見えてきます。
 こうして、王様によって招待されていた人たちが皆それを無視して踏みにじり、いっぽうではとにかく誰でもいいからと招き入れられたという点が際立っています。
 
   誰を指しているのか
 
 さて、そうすると、最初に招かれていた人、そして誰彼かまわず招き入れられたという人は、いったい何を指しているのかということになります。
 これは、最初に招かれていた人とは、一般に言われることで言えば、アブラハムの子孫であるイスラエルの民であるとも言えるでしょうし、この話の発端となった人々、すなわちエルサレムの神殿の境内でイエスさまをとがめに来た祭司長とか民の長老といった人々のことであるとも言えるでしょう。つまり、天の国に入ることができると思われていた人たちです。
 それに対して、王子の婚宴に招かれる理由も資格も一つもないのに、たまたま町の大通りにいたという理由だけで招かれた人たちというのは、それ以外の人たちということになります。
 もちろん、これだけでは単純すぎて、旧約聖書の神の民であったイスラエルの民が天の国に入れないことになり、いっぽうで異邦人と呼ばれる私たちが入れることになったという、乱暴な話しになってしまいますが、それはちょっと脇へ置いておきましょう。そして次の問題を考えると、答えが見えてきます。
 
   礼服
 
 次の問題というのは、礼服を着ていない人がいたという点です。最初に招かれていた人たちが来なかったので、次に誰彼かまわず王の主催する婚宴に招かれたわけですが、ここでまた一つ問題が起きます。それは「礼服」を着ていない人がそこにいた。そしてその人が、黙っていると、外に放り出された、という結果になります。
 この「礼服」とは何のことなのか?‥‥これが最大のポイントとなるでしょう。
 しかし考えてみると、「通りにいる人をだれでも連れてきたわけですから、礼服を着ていないのは当たり前ではないか?」と思えます。礼服を着て通りを歩いている人などいないし、礼服を持って歩いている人も、ふつうはいません。そうすると、王様の言っていることの方がおかしいということになります。
 しかしここは、王様が礼服を用意してくれていたと考えるべきでしょう。礼服が与えられたということは、実際に聖書の他の個所にも書かれています。たとえば旧約聖書の創世記45章には、エジプトの宰相となったヨセフが、兄弟たちに晴れ着を与えたということが書かれています。ですから、この礼服を着ていなかった人というのは、礼服を持っていなかったんじゃなくて、王様の用意した礼服を着なかったんです。王が礼服を用意してくれたのにもかかわらず、その礼服を着なかった。
 なぜ着なかったんでしょうか?‥‥おそらく、自分の着ている服で良いと思ったんでしょう。王の用意してくれた礼服ではなく、自分が今来ている服で良いと思った。しかしそれは招いてくれた王の心に沿わなかった。それで外の暗闇に放り出されたという結末を迎えます。
 
   キリストを着る
 
 さてそうすると、その「礼服」とはなんなのか。自分が持っていなくても、王様が用意してくれていたというその礼服。そこに、このイエスさまのたとえ話が、まさに受難週の時に語られたということが生きてきます。つまり、この礼服こそが、イエス・キリストに他なりません。
 天の国の婚宴、神さまのところに招かれた人というのは、とても立派で敬虔な人に違いありません。品行方正で、功徳をたくさん積んだ人に違いありません。だから、私には無関係、別世界の話しとして聞こえる。「私など、とうてい天の国に入る資格もないし、神さまに近づくことも出来ない」‥‥それが町の大通りを歩いている人々です。王様の宮殿で華やかな祝宴が開かれていても、自分たちには別世界の話しだと思っている。この私もその一人です。
 しかしその事情が変わりました。誰でも来なさいと、王が招いていると言うんです。「善人も悪人も」と書かれています。もうそういうことは問わないというのです。ただし礼服が必要であると。しかしその礼服は、自分が用意するのではなく、王様が用意してくれるという。そう、このたとえ話の王様とは、神さまのことです。神さまが用意してくださっている。それが、イエス・キリストという礼服です。
 それまで普段着で通りを歩いていたんですから、礼服など持っているはずもない。だから、誰でも良いと言われても、祝宴に出席することが出来ない。けれども、神さまが用意してくださっているという。そして、それを着さえすれば、入れてもらえるという。その礼服がイエス・キリストです。次のような聖書箇所があります。
(ガラテヤ 3:26〜27)「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
(ローマ 13:14)「主イエス・キリストを身にまといなさい。」
 どんなに古い服を着ていても、また汚れた服を着ていても、上から礼服を着ればそれは見えなくなります。それと同じように、キリストを着るならば、汚れは見えません。罪、けがれは見えなくなるんです。王様の招く大宴会、すなわち、神の国に招かれている。キリストという礼服を着ればいいんです。
 
   選ばれる人は少ない
 
 今日のたとえ話で、最後にイエスさまはこうおっしゃいました。(14節)「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
 結局少ないと言うことは、自分はダメなのではないか、神の国に入れてもらえないのではないかと思うかもしれません。しかしこれは、ただ今の礼服を着る人が少ないということのたとえであると言えるでしょう。すなわち、神さまは、誰でも婚宴に招いておられる。そしてキリストという礼服を用意してくださっている。にもかかわらず、そのキリストという礼服を着ようとしない人が多い、と。
 キリストを着ればいいのです。キリストを信じればいい。私という罪人を天の国に入れるために、イエスさまが十字架にかかってくださったんですから、それを信じれば良いと言われるんです。あまりにも簡単すぎて、キリストという礼服を着る人が少ない。
 しかし、神さまは多くの人で天の国を埋めたいのです。道を歩いている人を誰でも連れてきてでも、多くの人と祝いたい。それが神様の御心です。それがはっきりとあらわれています。そして誰でも天の国に入ることができるようにするために、イエスさまを十字架にかけて、礼服を用意してくださった。その礼服を着ればよいのです。主イエスを信じるのです。


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