2021年3月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書25章1
    マタイによる福音書21章33〜46
●説教 「大局観をもつ」

 
   たとえ話
 
 先週の聖書箇所でもイエスさまがたとえ話をなさいましたが、今日の箇所でもたとえを語っておられます。本日の話は、ある家の主人がぶどう園を作って、それを農夫たちに貸して旅に出たという設定です。ここでも、この主人というのは神さまのことをたとえています。ぶどう園が舞台になっているのも前回のたとえと同じです。イスラエルにはぶどう園が多くありました。ぶどう酒を作るため、あるいは干しぶどうなどにして保存食とするために、多くのぶどうが栽培されていました。また、主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出るということも、よくあったことのようです。イエスさまは、そのように生活に身近な素材を使って神の国のことをお話しなさいます。
 そのように、素材は身近なものですが、内容はおかしな所があるというのがイエスさまのたとえ話の特徴です。そのおかしな点に、話のポイントがあるんです。今日のたとえ話で言えば、主人が送った僕たちを農夫たちが手荒に扱ったという点でしょう。ぶどうの収穫の時期が近づいたので、収穫を受け取るために主人は自分の僕を送りました。ところが農夫たちは、その僕たちを捕まえ、袋だたきにしたり、石で打ち殺したりしたというのです。これは異常な出来事です。犯罪です。
 ふつうでしたら、その時点で、主人は農夫たちを罰するために行動を起こすに違いありません。ところがこの主人はだいぶ変わった人です。先に送った僕たちが、袋だたきにされたり殺されたりしたにもかかわらず、まだ次々と僕たちを送るんです。そうするとこの農夫たちは、やはり同じ目に遭わせる。それでもこの主人はあきらめない。最後に自分の息子を送るんです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。
 そこまでくると、読者である私たちは、「ちょっと待って下さい」とこの主人に言いたくなります。主人の多くの僕たちを袋だたきにしたり、殺害したりした異常な農夫たちです。「そんな異常な人たちのところに、あなたの息子を送ったりしたら、どうなるか分からないんですか?!」と、そのように言いたくなります。
 案の定、息子を送った時、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と相談して、息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまったのです。なんとも悲惨な出来事です。こんなことがあってもいいのか、と言いたくなります。
 それにしても、なんというお人好しの主人でしょうか!僕を何人も暴行されたり殺されたりしたのに、なおも雇った農夫たちに僕を使遣わすとは!そして、最後には「息子なら敬ってくれるだろう」と言って、我が子を遣わすとは!お人好しすぎます。
 そして、なんというひどい、悪逆な農夫たちでしょうか!こんなことをしたらどうなるか、分からないのでしょうか!そして、主人の息子を殺したら、ぶどう園が自分たちのものになると考えるとは、なんという浅はかさでしょうか!そんな道理があるはずがありません。そんなことも分からない人たちなんです!
 こうして、異常にお人好しすぎる主人と、異常に自分勝手な農夫たちという、二つの異常さがこのたとえを際立たせています。
 
   イスラエルの歴史
 
 このたとえ話は、いったい何をたとえているのでしょうか?‥‥まず、このたとえ話は、イスラエルの歴史をたとえていると言えるでしょう。さかのぼること今から4千年前、創世記12章でアブラムという人が神の招きを受けて始まる人類を救う壮大な物語。そのとき主は、「わたしが示す地に行きなさい」と言ってアブラムを召し出しました。そこからイスラエルの物語は始まっています。それは、アブラム(のちのアブラハム)の子孫を通して、世界の人々を祝福する、すなわち世界の人々を救うというご計画のために、アブラハムを召し出したのでした。こうしてイスラエルの民の物語は始まりました。
 しかし、そのアブラハムの子孫であるイスラエルの民が、主なる神に背き続けたという歴史。それをこのようにして、たとえで語っておられるんです。ですから、このたとえ話の中の「農夫」とは、そのイスラエルの民のことを指しています。そして、主人が送った「僕たち」とは預言者のことを指しています。神さまは、預言者を何人も遣わしました。しかし、その預言者たちは、排斥されたり、迫害されたり、殺されたりしました。たとえば、キリスト予言をしたことで有名なイザヤは、最後はマナセ王によって、のこぎりで体を引かれて殺されたという伝説が残っています。預言者とは、神の言葉を語るために、そして人々を悔い改めさせるために、神さまが遣わした人です。しかしそれを排斥してきた。そういう歴史がここで、農夫にたとえられています。
 そうすると、ぶどう園の主人が最後に送った「息子」とはだれか。‥‥もうお分かりと思いますが、イエスさまのことを暗示しています。そしてイエスさまは、捕らえられて、十字架という死刑台に送られることになります。しかしもちろん、このたとえ話を聞いている人たちには、このぶどう園の主人の息子がイエスさまのことを指しているなどとは夢にも思っていないわけですが。
 
   捨てた石が
 
 さて、この尋常ではないたとえ話をなさったあと、彼らに問います。「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか?」と。すなわちそれは、父なる神さまが帰って来たら、あなたたちをどうするだろうか?と言っているに等しいのですが、彼らはそのことはまったく分かっていません。
 その問いに対して彼らは、(41節)「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない」と答えました。言っておきますが、これはイエスさまがそうおっしゃったのではありません。聞いていた彼ら自身がそう答えたんです。たとえ話の中の「農夫」が自分たちのことをたとえられているとは気がつかないままです。
 彼らの答えに対して、イエスさまは、この農夫が誰とはおっしゃいませんでした。自ら悟るように期待されたのだと思います。そして次の旧約聖書の詩編の言葉をお語りになりました。それが42節の中の言葉です。‥‥「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」‥‥これは、詩編118編22節〜23節の言葉です。それを引用なさったんです。
 家を建てる時に捨てた石が、隅の親石になったという。エルサレムなどでは、エルサレム・ストーンと呼ばれる白い石灰岩がよく建築に用いられます。壁を石を積み上げて作る。そのときに、大工さんが役に立たないと思って捨てた石が、家の基礎の要となる親石になったという不思議を述べている予言の言葉です。
 この予言の言葉は、実はこの石はイエスさまのことを指していたんです。イエスさまがこのあと十字架につけられる。人々から捨てられるわけです。しかし、その捨てられたイエスさまが、復活をなさって、新しい家の隅の親石となるという予言。捨てられて十字架で死なれたイエスさまが、復活によって救いをもたらす。‥‥この予言の意味は、このとき誰にも分からなかったでしょう。
 イエスさまは43節で、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と予告しておられます。「民族」と日本語に訳してしまうと、何か民族問題のようになってしまって良くありません。ここは「民族」ではなく、単に「民」と訳すべきです。新しい民、それは教会のことを指しています。捨てられて十字架にかけられたイエスさまが、よみがえられて、新しい神の民、教会という建物の隅の親石となられる、基礎となられるという予告です。
 
   悟ったのだが
 
 さて、イエスさまのお話しを聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々は、ここで、最初のイエスさまのたとえ話が、自分たちのことを言っていると気がついたと書かれています。あの農夫たちが自分たちのことを指しているのだと、気がついた。
 気がついたというのは、けっこうなことです。気がついたのなら、悔い改めれば良い。「ああ、自分たちは何ということをしてきたんだろう」と。「間違っていた、罪を犯した」と気がついて悔い改めれば良かった。ところが彼らは、悔い改めたのではなく、逆に「イエスを捕らえようとした」と書かれています。腹を立てたんです。
 なぜ悔い改めずに、逆に腹を立てたのか?‥‥それは、自分たちは間違っていないと思っていたからです。自分たちは正しい。なのに、この人殺しの農夫のようにたとえらるとは何事か、けしからん!というわけです。自分たちは、神さまに従って来たと思っている。罪人などではないと思っている。だから悔い改めないし、逆に神の子であるイエスさまを捕らえて、まさにこのたとえ話の農夫たちのように、ぶどう園の主人たる神の息子を殺害してしまうということに至るのです。
 彼らは逆上して、イエスさまを捕らえようとしました。しかし「群衆を恐れた」と書かれています。人間を恐れたんです。神を恐れないけれども、人間を恐れた。だから悔い改めに至らなかったのです。そうしてイエスさまを抹殺することに突き進むことになります。
 
   私たちを招き続ける神
 
 さて、きょうの聖書のお話しは他人事なのでしょうか。「ああ、イスラエルの民は愚かだなあ」と。しかしこれを、他人事のように思ってしまってはなりません。目先の利益のことばかり考えて、大局を見ない。神さまのご計画、神さまの御心のことを見ようとしない。そうすると、この農夫たちと同じことになってしまいます。
 たとえば、私たちがまだ神さまを信じていなかった時、神さまがいろいろな形で私たちを信じることへ招こうとなさっていた、ということがあったのではないでしょうか。
 私も、昔大学に進学し、そこの学生寮で生活するようになってから、教会に行かなくなり、神を信じることもやめてしまったということは何度もお話ししました。それから再び教会に行くようになったのは、5年後となるわけですが、その間に私のほうは神さまを忘れていました。しかし、では神さまのほうはどうかといえば、やはり神さまのほうは、私を忘れておられなかったんだと思うんです。
 たとえば、伝道師の先生が訪ねてきてくれたというのもそうです。当時のその大学の学生寮は、左翼運動の拠点のような所で、一般の人が来るにはちょっと怖いところだったかもしれないのですが、その先生は訪ねてきてくれました。
 それはともかく、他にも、何度か危険な目にあったのに、助けられたということがありました。たとえば夜、闇討ちにあったことがあるんです。夜、突然、車から降りてきた4人ぐらいの男に襲われ、殴る蹴るの暴行を受け、酔っ払っていた私は地面の水たまりの中を転げ回った‥‥というようなことがありました。水たまりの中を転げ回る私を、しばらく蹴り続け、そうしてその4人組は車に乗って逃げていきました。今思うと、とんでもないことですね。ところが不思議なことに、ケガは、かすり傷一つだけだったんです。腹が立って仕方がなかったんですが。そんなことがありました。そんな目にあったのはそのときだけでしたが、他にも、いろいろな危険から不思議にも助かったということがありました。あるいは、もう一歩で完全に悪の道に入り込むところだったのが、なぜかそこに入らずに済んだということもありました。
 そうしたさまざまなことを思い出すと、あの5年間、私は教会を離れ、神を忘れていたのにもかかわらず、神さまはたしかに私を忘れておられず、これ以上行ってしまうと危険だというところから私を守り、再び主のもとへ導いて下さったのだと思えるんです。
 これは、私だけではありません。形は違っても、みんなそうであるはずです。イエスさまのたとえ話の、ぶどう園の主人が、あの悪い農夫たちのところに、何人も僕を遣わされたように。私たちが、悔い改めて、主を信じるようになるために、主は、さまざまな形で私たちを導いてこられたはずなんです。
 たとえ話の中の農夫たちは、目先のことばかりを考えていました。そのために、全体を見ることができなかったんです。大局観がなかったんです。私たちの人生はどうでしょうか。たしかに目の前のことは大切であるのに違いありません。しかし大局観が必要です。私たちは、どこから来て、どこへ行くのか、ということです。
 私たちは、神さまによって命を与えられたんです。そしてその神さまは、私たちがイエスさまを信じて、神さまと共に歩むように、常に招いておられるんです。この神の愛と招きに感謝したいと思います。そして神のふところに帰って行く者でありたいと思います。


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