2021年3月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書19章30〜32
    マタイによる福音書21章28〜32
●説教 「あとの祭りのあと」

 
   3.11から10年
 
 先週は東日本大震災からちょうど10年目の3月11日を迎えました。あらためて、祈りを合わせた方も多かったと思います。先ほど歌った聖歌307番(遠き国や)は、関東大震災に遭遇した宣教師が作った聖歌です。震災によって燃えさかる家屋。まさにこの世の地獄とも言うべき光景の中にいて、その苦しみを負って下さるキリストに思いを寄せた聖歌です。
 「クリスチャン新聞福音版/聖書をいつも生活に」の3月号に、南相馬市で接骨院・鍼灸院を営んでおられるTさんの証しが掲載されていました。Tさんは、10年前の3月11日、津波警報で山側に避難し、さらに原子力発電所の事故により、家族で山形に避難したそうです。そこで物資を提供してくれたのが、三女と親しい牧師夫妻たちだったそうです。三女の方は、前の年に南相馬市の教会で洗礼を受けていたそうです。それまでTさんは、キリスト教とは無関係だったそうですが、その避難先で教会の日曜日の礼拝に出席したそうです。そして二日後には、牧師と聖書の学びを始め、その場でイエス・キリストを救い主として信じたそうです。それは「自分が罪人であることを十分承知していた」からだったということです。そこには、友人や妻に対して長年感じていた罪責感、さらに病気のお母さんをめぐって悪化していたお父さんとの関係が背景にあったそうです。
 そして南相馬市に戻って、お父さんを説得してお母さんを毎週礼拝に連れて行ったそうです。そして一年後にはお母さんが洗礼を受け、3年後にはお母さんの病状が悪化したそうですが、そのお母さんは関係の悪かったご主人に、ある日感謝の言葉を伝えた。それでお父さんは号泣したそうです。お母さんは間もなく亡くなったそうですが、お父さんもそのあと洗礼を受けたそうです。Tさんはそのインタビュー記事の中で、「キリストと共に歩むならば、試練さえも益と変えられることを知りました。何という希望でしょう。」と語っておられます。詳しくは、ロビーに置いてある同新聞をご覧下さい。
 私はこの記事を読んでいて、まずTさんが教会に行った時、「自分が罪人であることを十分承知していた」ということに感銘を受けました。私もそうでしたが、人間、なかなか自分が罪人であるということに気がつきません。しかしそれを承知していたというのは、まさに主の導きであり、聖霊の働きであると思います。
 
   二人の息子のたとえ
 
 さて、本日の聖書箇所ですが、場面はエルサレムの神殿の境内です。前回はそこで、イエスさまをとがめる祭司長や民の長老たちと、イエスさまのやりとりが書かれていました。きょうはその続きです。
 「ところで、あなたたちはどう思うか?」と、イエスさまが彼らに問うたことから始まっています。そこでお話しになったのは、たとえ話でした。たいへん短いですし、分かりやすいたとえになっています。‥‥お父さんが「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と息子に言った。兄のほうは「いやです」と答えたが、あとで考え直して出かけた。弟のほうは「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった‥‥というものです。そして、「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」とイエスさまが問い、祭司長と民の長老が「兄のほうです」と答えた。たしかにその通りだという点では、分かりやすい話です。
 なお、他の日本語訳の聖書、たとえば口語訳聖書や新改訳聖書をお持ちの方は、お兄さんの答えと弟の答えが逆になっていますので、「あれ?」と思われた方もいるかもしれません。その理由を説明しておきますと、新共同訳聖書とそれらの聖書では、もとのギリシャ語聖書の写本が違っているからです。
 さて、「いやだ」と言ったけれども考え直して出かけた息子と、「承知しました」と答えたけれども結局行かなかった息子という対照的な2人です。そしてどちらが父親の期待に応えたかと言えば、やはり結局はぶどう園に行った兄のほうであるに違いありません。
 ただし、お父さんがぶどう園に行って働くように言ったのに、兄のほうが「いやです」と答えたことは、聞いていた人にとっては驚きだったでしょう。なぜなら、お父さんの願いに対して「いやです」などと言うことは、とんでもないことだからです。神の掟である十戒では、「あなたの父母を敬え」と命じられていますから、「いやです」などという答えは不遜極まりないことです。現代の私たちにとっては、子供が言うことをきかないのは慣れてしまって、読み過ごしてしまうところですが、当時の人にとっては「なんというとんでもない息子か」という怒りを呼び覚ましたでしょう。つまり、単にお父さんの願いを断ったというだけではなく、お父さんをお父さんとも思わないような反抗的な態度をとったということであることを、心に留めておいてよいでしょう。
 そうすると、そのように不遜でバチ当たりな態度をとったのだけれども、結局考え直してぶどう園に出かけて行ったということの大切さが重みを持ってくるわけです。
 
   たとえの意味と理由
 
 さて、この短いたとえ話の意味ですが、これもイエスさま御自身が解説しておられます。それによると、兄のほうは「徴税人や娼婦たち」のことであって、その人たちのほうが父なる神の期待に応えたのであり、あなたたち祭司長や長老たちより先に神の国に入るだろう、と言われたのです。そして弟のほうは、祭司長や長老たちのことを言っていることになります。
 きょうの聖書箇所について、イエスさまは、当時疎外され軽蔑されていた徴税人や娼婦たちを受け入れ、逆に彼らを軽蔑し罪人であると烙印を押していた祭司長や長老たちといった宗教指導者を批判したのだ‥‥と解釈する考え方があります。つまり、イエスという方は、疎外され差別されていた人の味方であり、権力ある者や抑圧する者を断罪されたという解釈です。
 しかし、きょうの聖書箇所をそのように、差別する者・される者というように解釈してしまいますと、イエスさまの言葉をちゃんと受け取っていないということになります。なぜなら、32節でイエスさま御自身が「なぜなら」と言って、理由を語っておられるからです。
 
   ヨハネの示した義の道とは?
 
 (32節)「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」
 これが、徴税人や娼婦たちが先に神の国に入る理由だと言われたのです。すなわち、祭司長や民の長老か、それとも徴税人や娼婦かと言った、外面的な地位や職業の違いが問題とされているのではなく、洗礼者ヨハネの働きを信じたかどうかという、信仰の問題だと言われているんです。そして洗礼者ヨハネという人の何について信じたかどうかということについては、「ヨハネが来て義の道を示したのに」と、ヨハネが「義の道」を示したことについて言われていることが分かります。その「義の道」を信じたのか、どうかと言うことです。
 「義の道」とはなんでしょうか。「義の道」とは救いへの道ということです。洗礼者ヨハネという人は、イエスさまを救い主であるとして指し示した人です。マタイによる福音書だけではなく、新約聖書の4つの福音書すべてが、イエスさまの働きを書き始める前に、この洗礼者ヨハネという人のことを書くことから始めています。マタイによる福音書では、イエスさまの誕生物語を書いたあと、すぐに洗礼者ヨハネの働きのことを書き始めています。第3章です。そして洗礼者ヨハネの第一声として次の言葉を書き記しています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:1)。
 そしてヨルダン川において、悔い改めに導く洗礼を授けました。すると、人々が続々とヨハネのもとに来て、罪を告白して洗礼を受けました。そしてヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりもすぐれておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言いました(マタイ3:11)。そのようにして、イエスさまを救い主であるということを指し示しました。
 それが「義の道」です。救いへの道です。すなわち「義の道」とは、イエス・キリストを信じることによって救われるという道のことです。
 
   悔い改めた人たちとそうではない人たち
 
 そうすると、なぜ祭司長や民の長老たちはヨハネを信じなかったのでしょうか?‥‥それは自分たちは悔い改める必要がないと思っていたからです。‥‥自分たちは、神さまに対して罪を犯していない。犯したとしても、神の掟に従って、罪を赦してもらう捧げ物をしているから大丈夫だ。解決済みだ。だからヨハネが説いていた悔い改めの洗礼は我々には必要がない。あの徴税人や娼婦と言った汚らわしい連中とは違う。‥‥そのように思っていたからです。
 ですからこれは先のたとえで言うと、弟のほうに当たります。父親が「ぶどう園に行って働きなさい」と言って、「お父さん、承知しました」と答えた。このお父さんというのは父なる神さまのことです。そしてそれは、モーセの律法、神の掟に従いますと答えたことに当たります。しかし、しかし父なる神さまが、救いへの道を示すためにヨハネを使わした時、それを信じなかった。つまり、自分たちには関係ないと思っていたんです。自分たちは罪人ではない、悔い改める必要はないと思っていた。
 それに対して、徴税人や娼婦たちは、神の掟を自分たちが守っていないことは分かっていた。だからたとえで言うと、父親が「ぶどう園に行って働けと」言った時に、「いやです」と答えたことに相当します。それは神さまの命令に対して従わなかったわけですから、本当はとんでもないことになります。だから、徴税人や娼婦たちは、「自分たちは罪人である」ということを自分で分かっていた。「どうせ神の国に入れるわけもない」ということも分かっていた。神さまという方は、自分たちのような者を裁いて地獄に落とされるのだと思っていたでしょう。神に対する絶望です。
 しかし、洗礼者ヨハネが現れて「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、罪の赦しを指し示す洗礼を授け始めた時、「自分たちのような者でも救われる」という希望を持ったんです。そしてヨハネの指し示した「義の道」、つまりイエスさまを信じたんです。それが先のたとえで言うと、「いやです」と答えたけれども、考え直してぶどう園に行ったということです。つまり、このたとえの「ぶどう園に行って働く」というのは、ヨハネが指し示した「義の道」であるイエスさまを信じるということに他なりません。
 すなわち、たとえ話の中の兄と弟の違いは、罪人である自分を救ってくださるキリストを信じるかどうかという違いです。徴税人や娼婦は、自分たちが罪人であることを知っていた。だから罪人である自分を救ってくださるキリストを指し示したヨハネを信じた。それに対して、立派であると思われていた祭司長や民の長老たちは、自分たちが罪人であることが分からなかった。だから、キリストの救いを求めなかった。その違いです。
 
   罪人の救い
 
 人間、みんな罪人なのです。罪人ではない人などいないんです。自分が罪人であることを認める。そこに救いへの道、義の道が開かれます。キリストに出会う道があります。
 最初にご紹介した、震災の中でキリストを信じて洗礼を受けたTさんは、「自分が罪人であることを十分承知していた」と語っておられました。自分は救われなければならない存在であることを承知していたんです。それが貴いことなんです。
 私もかつて、若い頃イエスさまという方が分からなかった。それは、なぜ分からなかったかというと、自分が罪人であるということが分からなかったからです。それで、お祈りしました。「神さま、わたしは『罪』ということが分かりません。どうぞ教えてください。」そのようにお祈りしました。するとそれから何日かして、突然、自分の罪が示されたんです。祈りが答えられたんです。しかしそれは苦しいものでした。主は、私が犯した過ちの数々を思い起こさせてくださり、それが罪なのだということを示されました。多くの罪を示されました。わたしは非常に苦しくなりました。自分が救いようのない罪人であることが分かったんです。
 しかし一方で、その救いようのない罪人であるわたしを救うために、イエスさまが十字架に行ってくださったことが分かりました。それは、私の救いそのものでした。
 そういうわけで、今日のイエスさまのたとえ話の中のお兄さんを良しとされるイエスさまに、心からの感謝を申し上げたいのです。「ぶどう園に行って働く」ということが、ただ、この罪人であるわたしでさえも救ってくださるというイエスさまを信じることだからです。キリストを信じることによって救われるんです。


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