2021年2月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書3章16〜18
    マタイによる福音書21章23〜27
●「敷居は低い」
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   ダニエル書
 
 最初に旧約聖書のダニエル書の3章の中の一節を読んでいただきました。そこに書かれていたのは、バビロン捕囚によってバビロンに捕らえ移されたユダヤ人の3人の若者、シャデラク、メシャク、アベドネゴの言葉です。いきさつを簡単に申し上げますと、中近東に大帝国を築いたバビロン帝国のネブカドネツァル王は、ある時、巨大な黄金の偶像を建てました。そして国民に対して、その偶像を神として拝むように命令を出しました。拝まない者は、火が燃えさかる炉の中に投げ込まれるというものでした。
 ところが、その3人のユダヤ人の若者は拝みませんでした。そこで、ネブカドネツァル王が問いただした時に3人が答えた言葉が、先ほど読んでいただいた言葉だったのです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
 彼ら、真の神、創造主を信じる者にとっては、真の神以外の神を拝むことは、十戒の掟に背くことであり、神の御心ではないということを知っていたので、いかに王の命令といえども拝むことはできないと答えたのです。
 この言葉に血相を変えて怒った王は、炉をいつもよりも7倍も熱くするように命じた上で、この3人をそこに投げ込みました。それで、一瞬のうちに彼らは燃え尽きてしまったかと思いきや、王が見ると、彼らは何の害も受けずに炉の中を歩き回っており、しかも3人ではなく4人が炉の中にいるのが見えたのでした。その4人目の者は神の子のようであったとネブカドネツァル王は言っています。驚いた王は3人の若者に炉の中から出てくるように命じると、彼らは髪の毛一本焦げることなく、守られていました。
 それでネブカドネツァル王は、3人の信じている真の神・主をたたえ、3人の拝む神をののしるものがあれば死刑に処すと宣言し、「まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにいない」と言って主をほめたたえました。‥‥そういう出来事です。
 ネブカドネツァル王は、歴史の教科書にも出てくる、中近東では絶対の権力、権威を持った人でした。いっぽう、この3人は、ユダヤから連れてこられた囚(とら)われの民であり、なんの権威もない人でした。しかしここで彼らは、本当に権威ある方、万物の創造主である真の神さまの権威を信頼したのです。その神の権威に立ったのです。こうして彼らは、主こそ真の神であることを証ししました。
 
   神殿にて
 
 さて、いつものマタイによる福音書のほうに移ります。日曜日にエルサレムの都に入られたイエスさまでしたが、きょうの聖書箇所は翌日の月曜日の朝のこととなります。イエスさまは、エルサレムの神殿で人々を教えておられました。
 するとそこに、祭司長と民の長老たちが近寄ってきたと書かれています。祭司長というのは、このエルサレムの神殿の管理者です。また長老というのは、サンヘドリン(新共同訳聖書では「最高法院」)と呼ばれるユダヤ人議会の議員です。ですから、ユダヤ人の中の一番偉い人たち、言葉を変えて言えば、権威ある人たちです。その人たちがイエスさまに詰め寄ったわけです。そして言いました。(23節)「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
 これは、昨日の日曜日にエルサレムに入られたイエスさまが、神殿で両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され、商売をしている人たちを追い出されたことを指しているのでしょう。それとともに、断りもなく人々を教えていることにも不満があるのでしょう。ですから、この人たちの言っていることを分かりやすく言い換えると、彼らはイエスさまに向かって「あんたは何様のつもりか?!」「俺たちのシマを荒らして!」‥‥と言っているわけです。
 イエスさまに対する彼らの言葉を聞いて、私たちは実はイエスさまが何者であられるかを知っていますので、「失礼な!誰に向かって口をきいているのか!」と言い返したいところですが、彼らにはイエスさまが何者であられるかが分かっていないのです。自分たちのほうが権威ある者だと思っている。そして、イエスというのはどこの馬の骨かも分からない不届き者であると思っているんです。
 
   問い返すイエスさま
 
 そのような彼らの不(ぶ)躾(しつけ)な詰問に対して、イエスさまはどうされたか。その質問には直接答えられていません。
 イエスさまは、高慢な者に対しては、その高慢さにふさわしい答えをなさるんです。神さまは、へりくだらないと答えてくださいません。神さまに対して、「あんたが神さまなら、俺の願いをかなえてくれ」と言っても、答えられません。「神さまのくせに、なんでこんな悪いことばかりするのか」と言っても答えられません。それは高慢だからです。へりくだっていないからです。自分の身の程をわきまえていないからです。
 ここではイエスさまは、彼らの問いがいかに高慢で、身の程をわきまえていないかを指摘なさるようなことを言われます。つまり、イエスさまが反問なさっています。
 「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」(24〜25節)
 ヨハネというのは、イエスさまの先駆者となった洗礼者ヨハネのことです。そしてイエスさまが救い主であると見抜き、洗礼を授けたのもこのヨハネでした。そしてヨハネは人々に悔い改めを説いて、その悔い改めのしるしとして洗礼を授けていました。しかしヨハネは、ヘロデ王によって殺されてしまいました。
 イエスさまはそのヨハネのことについて彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
 
   権威あるはずの者たちの返事
 
 すると祭司長と長老たちは論じ合ったと書かれています。これは不思議です。議論しないと答えられないのでしょうか? なぜそれぞれ自分の意見を率直に言わないのでしょうか? 相談しないと答えられないというところに、何か自分たちの立場を守ろうとしていることがうかがえます。真理を追究するのではなく、自分たちの立場を守ろうとしている。だから、どう答えたらよいか、相談しているんです。
 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。」‥‥「天からのもの」というのは、洗礼者ヨハネという人が、天の神さまによって立てられた預言者であるということです。預言者というのは、神の言葉を取り次ぐ人です。だから「天からのものだ」と答えたとしたら、それはヨハネが預言者であると認めたことになり、ならば「なぜヨハネを信じなかったのか?」ということになる。それはまずい、というわけです。
 逆に「人からものだ」と答えるとどうなるか。「人からのもの」というのは、ヨハネは預言者ではなく、すなわち神さまが遣わした人ではないということです。そう答えたとすると、群衆が怖い、と。多くの一般の民衆は、洗礼者ヨハネは預言者だと思っていたから、「人からのもの」と答えたとすると、民衆が怒って、自分たちに石を投げつけるかもしれない。‥‥そう考えたのです。
 なんということでしょうか。彼らはユダヤで、大祭司に次ぐ権威を持っている人たちでした。そしてイエスさまに対して、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と、詰問した人たちです。なのに、自分たちの保身ばかりを考え、本当のことが何も分かっていない。見えていない。相談しないと答えも出せない。挙げ句の果てに、出した答えが「分からない」というものでした。このような権威は、本当の権威ではありません。虚構の権威です。最初に読みました、ダニエル書の3人の若者と、なんという違いでしょうか。
 結局彼らは、神を礼拝する神殿の管理者であり、人々の宗教上の指導者であるにもかかわらず、神を信じていないことが露呈しているのです。
 
   イエスを求める
 
 彼らは「分からない」と答えました。するとイエスさまは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えになりました。自分たちの保身を考えるばかりで、真理を求めようとしない人に本当のことを言っても、なんにもならないからです。そして彼らは、自分たちが答えられなかったのですから、イエスさまが「わたしも言うまい」とおっしゃっても、引き下がるしかありません。
 このように、高慢な眼には、イエスさまは見えないのです。かつての私もそうでした。だから私は、いい気になって、この祭司長や長老たちを非難して言っているのではありません。この自分もそうであったと、悔い改めの念をもって申し上げているのです。
 自分が高い所にいては、イエスさまは分かりません。別の言い方をすると、イエスさまに出会うことはできません。なぜなら、イエスさまの十字架は、最も低い所に立っているからです。実は神の子であるイエスさまが、低く低く下られて、私たちの罪を担ってくださった。それが十字架です。神の子である方が、私たちよりも低くなってくださった。私たちの最も醜く、暗い部分である罪を、私たちの代わりに担ってくださるほど低く下られたんです。そのイエスさまに出会うためには、私たちも低くなる必要があるんです。
 今日登場した祭司長と長老たちは、目の前にイエスさまを見ながら、それが神の子であるということが見えなかった。私たちがひれ伏して拝み、感謝すべき方であることが見えなかったんです。自分たちのほうが権威があると、高ぶっていたからです。
 
   イエスの権威
 
 ではイエスさまの権威とはなんでしょうか? ただ今、神の子であると申し上げました。それは聖書に書かれていることです。しかし、神の子である権威とは、単にとてつもなく偉い方であるということでしょうか?
 そうではありません。先ほど申し上げましたように、その神の子であるイエスさまは、私たちに仕える者となってくださり、私たちの罪を代わりに引き受けるために、十字架にかかってくださった方だからです。最も低く下られた方だからです。
 したがって、イエスさまの権威とは、十字架の権威です。神の裁きを受けて当然、滅びて当然、地獄に落ちて当然の罪人である私たちを、そのどん底まで降りてきて、代わりに罪を引き受けてくださった。それが十字架です。それが十字架の権威です。私たちにしもべとして仕えてくださった権威です。低く成られた権威です。ですからそれは「権威」と呼ぶとしたら、愛の権威とも言うべきものです。
 この方のように私たちを愛してくださる方はいないのです。そういう権威です。我が身を捨てて、私たちを救ってくださるキリスト・イエスさま。この方について、もっと知りたい、身を低くしてついて行きたいと願わずにおれないんです。
 
【祈り】
天の父なる神さま、私たちは、御子イエスさまが十字架にかかってくださることによって救われました。このことをあらためて感謝いたします。イエスさまの権威、それは高い所から見下ろす権威ではなく、低くへりくだって、命を投げ出して私たちを救ってくださった、愛の権威であります。どうか、このかけがえのないイエスさまの恵みが、私たちが深く悟ることができますように助けてください。
 この一週間も、どうか兄弟姉妹たちと共に歩んでください。必要な助けを与えてください。試練の中にある兄弟姉妹たちに、あなたのお支えをお願いいたします。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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