2021年2月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記下4章5〜6
    マタイによる福音書21章18〜22
●説教 「いちじくの教訓」

 
   レント
 
 先週の水曜日から、教会の暦は「レント」に入りました。復活祭(イースター)の前日までの日曜日を除く40日間がレントの期間です。レントの日本語の呼び方はいくつかありますが、当教会ではレントを「受難節」と呼んでいます。イエスさまが十字架にかけられる、そのご受難を心に深く留めながら信仰生活に励むのがレントです。
 
   困惑する個所
 
 そして、聖書箇所は、ちょうどイエスさまが十字架にかけられていく、その最後の一週間の所に入っています。
 先週は、エルサレムに入られたイエスさまが、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したという所を読みました。これは最初読んだときは、私たちを困惑させるものでした。「イエスさまが腕力を振るうなんて‥‥」という困惑です。しかしそこには、神さまを礼拝するということが非常に尊いことなのであり、イエスさまが命をかけられたことなのだということを学びました。
 そして本日の聖書箇所もまた、私たちを困惑させる出来事が書かれていると思います。いきさつですが、「朝早く、都に帰る途中」と書かれています。昨日エルサレムに入られたイエスさまは、神殿で過ごされたあと、エルサレムを出てベタニアに行き、そこでお泊まりになったと書かれています。ベタニアにはマルタとマリアとラザロの3姉弟の家がありましたから、おそらくそこに泊まられたのでしょう。そして夜が明けて、朝早く都、つまりエルサレムに「帰る途中」と書かれています。「帰る」と。これはイエスさまにとって、エルサレムの都が、とくにその神殿が、我が家であったということになるかと思います。ですから前回の神殿を清めた個所で、イエスさまは「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」という預言者イザヤの預言を引用されたのだと思います。イエスさまにとっては、神を礼拝するエルサレムの神殿こそが我が家であったということです。
 これは教会も同じようなところがあると思います。Y神学生の出身教会であるK教会では、教会員の皆さんが日曜日に教会に来ると、玄関では「お帰りなさい」と言って迎えるそうです。教会から帰る時は「行ってらっしゃい」と言うそうです。なるほどと思いました。エルサレムの神殿が神の家であるならば、教会も神の家、祈りの家だということができます。その教会で私たちは兄弟姉妹と呼んでいる。私たちにとって教会が我が家である。神がわたしたちの父であるから、そう言うこともできます。
 さて、イエスさまは朝早くエルサレムの都に帰られる途中、空腹を覚えられた。お腹が空いたんです。朝ごはんを食べないで出てこられたのでしょう。道ばたにいちじくの木があった。イエスさまは近寄られて、実が成っていないかと見てみたけれども、葉の他は何もなかった。
 このときは、イスラエルの3大祭りの一つである過越祭を控えている時ですから、春です。3月下旬か4月上旬。いちじくの実が成っているはずがありません。ところがイエスさまは、その木に向かっておっしゃった。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。するといちじくの木はたちまち枯れてしまったというのです。これは、何というイエスさまの身勝手か、と思える。いちじくの木がたちまち枯れたというのは、奇跡には違いありませんが、わがままな奇跡に見える。これはいったいどうしたことだろうかと、多くの人は不審に思います。
 
   いちじくの教訓
 
 私は、自分が神学生の時のことを思い出します。当時通っていた三鷹教会の青年会で、ある時、この聖書箇所を読んで話しあったことがありました。そして、「なぜイエスさまはいちじくの木を枯らせてしまったのか?」ということについて、議論となりました。「イエスさまは勝手ではないか?」とか、「いちじくの木がかわいそうだ」というような意見が出ました。しかし、結局は「イエスさまがそんな自分勝手なことをするはずがない」ということになり、「ここにはどういう意味が隠されているんだろうか?」と、悩みながらこのマイナスに見える奇跡について悩んだことを思い出します。
 それで結局どうなったかというと、ある仲間が言ったことに落ち着きました。それは、「イチジクの木1本は確かにムダになったけれども、イチジクの木1本で弟子たちが大切なことに気がつけば、安いものではないか」ということでした。それでみな「そういうことだろうなあ」と納得したことを思い出します。
 安いものかどうかはともかく、イエスさまは自分がお腹が空いたのに実が成っていなかったから腹を立てて枯らせてしまった、ということではないのは、その通りでしょう。そしてこの出来事を見た弟子たちが驚いたのも事実です。それは忘れられない出来事となったでしょう。だからこそ、この出来事を通して弟子たちに何かを教えようとなさったのもその通りだと思います。
 
   審判者としてのイエスさま
 
 さて、ではイエスさまは、この出来事を通して何を弟子たちに教えようとなさったのか? そのことを考える時に、この出来事が、イエスさまの十字架前の最後の一週間の中でなされていることを心に留めたいと思います。
 イエスさまは日曜日に、ろばの子に乗って群衆の歓喜の叫びの中をエルサレムに入られました。そして、神殿から商人を追い出されるということをなさいました。次の月曜日に、きょうの聖書のいちじくの出来事がありました。そしてその3日後の木曜日には最後の晩餐がなされ、ゲッセマネの祈りがあり、そして逮捕されます。そして翌日の金曜日には十字架につけられて死なれることになります。弟子たちもそんなことが起きるとは知らないのですが、実は、そういう緊迫した事態が差し迫っている中での出来事なのです。
 そしてこの個所のあと、その数日間に話されたイエスさまの教えが書かれているんですけれども、それを読むと、イエスさまのお話しもだいぶ調子が変わっていることに気がつきます。具体的に言うと、世の終わり、つまり終末に関わるお話しが多くなってきます。
 奇跡について言えば、エルサレム入城前は、病気の人を癒したり、盲人の目を開けられ、口に利けない人をしゃべれるようになされ、悪霊を追放され、また5つのパンと2匹の魚でもって1万人もの人々を満腹になさったり、嵐の湖を静められたりということをなさってきました。それはまさに、私たちが拍手喝采を送る奇跡であったと言えるでしょう。エルサレムに入ってからも、確かに前回の神殿の境内で、目の見えない人や足の不自由な人を癒したりなさいました。しかしきょうのいちじくの木を枯らすという出来事。これはやはり、世の終わりについてこれから語られる教えとつながっていると考えるべきでしょう。
 
   主の裁き
 
 世の終わりとは、最後の審判の時でもあります。世の終わりということが信じられないという方は、自分の人生の終わりと考えても良いかもしれません。神さまが私たちに裁きをなさる。その時が来るということです。人間誰もが必ず死ぬように、最後の時というのは必ず来るのです。
 そのときに、「いや、ちょっと待ってください。まだ準備ができていません。」と言っても死は待ってくれません。それと同じように、終わりの時というのも待ってくれない。きょうの出来事では、いちじくの実の成る季節ではなかった。だから、実がないのは当然であり、もうちょっと待ってくださいと言いたくなる。しかしこのいちじくの木を、私たちに置き換えて考えてみると、どうでしょう。「いや、ちょっと待ってください。まだ実が成っていません」と言っても、終わりは来るわけです。
 イエスさまは、私たちに向かって「今から後いつまでも、あなたが実を結ばないように」と、裁きを宣告することもおできになる方であるということです。私たちは、私たちから見て好ましいイエスさまに拍手喝采を送りますが、きょうの聖書に表れているイエスさまの厳しさと言いますか、裁きの面を見ると、戸惑ってしまう。しかし、確かにイエスさまは、このように裁きを宣告することもおできになる方だということは忘れてはならないと思います。
 しかし一方で、そのイエスさまが、私たちを裁いて滅ぼすのではなく、ご自分が十字架にかかって神の裁きを受けてくださった。私たちの身代わりとなって、裁きを受けてくださったということが、鮮やかに浮かび上がってまいります。そこにキリストの愛が表れています。つまりきょうの裁きの言動は、私たちを救う愛の裏返しとなっていることが分かってきます。
 
   信仰の力
 
 そして話しは後半に移ります。いちじくの木が枯れたのを見て驚く弟子たちに、今度はイエスさまは、信仰の力のお話をなさっています。
(21〜22節)「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
 信仰をもって疑わないで山に向かって「立ち上がって海に飛びこめ」と命じればその通りになるとおっしゃいます。信仰の力の大きさについて語っておられます。そして「あなたがたも」と。ここで問題となるのは、「信仰」とは何か?ということです。
 私は、子供の時に試してみたことを思い出します。記憶違いかもしれないのですが、たしかマンガの「オバケのQ太郎」だったと思います。オバケのQ太郎はオバケなので、壁でも塀でも通り抜けられるのです。それでなぜ通り抜けることができるかということについて、「壁があっても、ないと信じれば通り抜けられるのだ」というようなことを言った。それで子供の私は「へー」と思って、試してみたのです。家の壁に向かって、壁があるのだけれども、「ない」と信じて歩いてみました。するとやはり壁にぶつかりました。それで私は、「おかしいなあ。信じ方が足りないのかなあ?」と思った。そういうことを思い出します。
 イエスさまがおっしゃる「信仰」とは、それと同じなのでしょうか? 心に念じて「山は動かないものだけれども、動く、動く、動くと信じれば動くのだ」ということなのか? イエスさまは、そのようなことを教えられたんでしょうか。もしそうだとすれば、それは「イワシの頭も信心」という迷信と変わりありません。信仰の対象は、もはや真の唯一の神様でなくても、イエスさまでなくても、イワシの頭であってもよい。「信じれば同じことだ」ということになってしまいます。イエスさまがそんなことをおっしゃったはずはありません。では、どういうことでしょうか?
 聖書で言う「信仰」とは、あくまでも真の神様、つまりイエスさまの父なる神様についての信仰です。そしてその父なる神様の一人子、イエスさまを信頼する信仰です。きょうのところで言い換えれば、「動かないように見えるこの山だが、イエスさまが動かしてくださる」と信じる、主イエスを信頼するのが信仰であるのです。私たちが勝手に念じて動かすのではありません。イエスさまが動かしてくださると信じるということです。
 
   主を信頼する
 
 山を動かすことがイエスさまの御心であるということを知るためには、祈らなくては分かりません。祈ってイエスさまの御心を知るということが必要です。だから、きょうの聖書箇所でイエスさまは、「信じて祈るならば」と言っておられるんです。
 自分の思い通りになるのではありません。私たちが、主の御心と一体化していくことになります。そしてそれがその時、主の御心であるならば、命じればその通りになるでしょう。そのような大きな約束です。
 それゆえ、どんなときでも希望があります。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言って、実の成らない私たちを裁くこともおできになるイエスさまが、私たちを裁くのではなく、十字架に行かれて、私たちの代わりに神の裁きを受けてくださったからです。
 そしてその罪赦された私たちが、イエスさまの御心を知ることによって、大いなる信仰の力を与えていただくことができる。「もうだめだ」ということがなくなる。主にある希望をもって歩みたいと思います。


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