2021年2月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書56章7
    マタイによる福音書21章12〜17節
●説教 「いのちの礼拝」
説教 逗子教会牧師 小宮山剛

 
   実力行使されるイエスさま
 
 現在のイスラエルの首都エルサレム。その旧市街地と呼ばれる街区の中に「嘆きの壁」と呼ばれる場所があります。ユダヤ人はこの「嘆きの壁」のことを「西の壁」と呼んでいます。その場所は地面を発掘して出てきたもので、きょうの聖書に出てくる神殿の外壁の一部です。そして壁の上のほうの地面には、現在はイスラム教の寺院、モスクが建っています。つまり、聖書の時代には建っていた神殿が今はなく、代わりにイスラム寺院が建っているわけです。それでユダヤ人は、神殿がないので、その神殿の名残である「嘆きの壁」の前に来て祈りをささげているのです。
 きょうの聖書は、そのエルサレムの神殿が舞台です。前回、ろばの子に乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入られたイエスさま。そのイエスさまが、まず神殿に行かれます。そこでイエスさまは、私たちの予想外のことをなさる。それが「売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」‥‥という出来事です。つまりイエスさまが実力行使をされたんです。たいへん珍しい出来事です。イエスさまが実力行使されたというのは、この一回だけです。
 それで私たちはちょっと面食らうのではないでしょうか。「イエスさまがそんなことをなさるなんて‥‥」と。しかしこの出来事から分かることは、イエスさまは決して何でもOKというかたではないということです。「いいわ、いいわ」の方ではないんです。イエスさまは、いったいなぜそのようなことをなさったのでしょうか?
 
   神殿とは?
 
 13節に書かれているイエスさまのおっしゃった言葉を見てみましょう。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
 これは、最初に読んだ旧約聖書のイザヤ書56章7節の預言の言葉を引用なさったものです。ここで、「わたしの家」と語られています。これは預言者イザヤを通して神が語られた言葉ですから、「わたしの家」というのは神さまの家ということになります。そして神の家とは神殿のことです。
 聖書の神さまは、天地創造の主ですから、宇宙から見たらまことに小さな地球という星の中の小さな神殿が神の家であるというのは、おかしなことに見えますが、主なる神さま自らが、その神殿を住まいとし、人間に会うと約束なさったので、神の家と呼ばれるんです。
 その神の家である神殿は、「祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃっています。ここで言う「祈り」というのは、もちろん私たちが普通に「祈り」という時の祈りでもあるのですが、もっと言うと「礼拝」のことでもあるんです。たとえば、キリスト教の3大教派の一つである正教会。ギリシャ正教会とかロシア正教会、日本では日本正教会といいますが、その正教会では、私たちプロテスタント教会が「礼拝」と呼んでいるものを「お祈り」と呼んでいるんです。私たちは、礼拝というと、讃美歌を歌って、聖書が読まれて、いわゆるお祈りをして、説教を聞く‥‥という一連のプログラムを「礼拝」と呼ぶように思っていますが、それは祈りであるとも言えるのです。ですから、祈りは礼拝だと言えるし、賛美も礼拝です。
 礼拝とも言えるし、祈りとも言える。それは両方とも神さまを拝むということです。神さまを拝むというのは、そこに神さまがいらっしゃることを前提にしているわけです。神様がそこにお出でになるから、拝むことができる、祈ることができるわけです。
 そうすると、エルサレムの神殿は、神さまがそこで人々と会うことを約束された場所であるわけですから、それは礼拝をする場所であるわけです。そのように神殿は礼拝する場所であり、神さまとお会いする場所であると言えます。そして聖書は、人間が神に会うということをとても大切で尊いこととして書いています。
 
   商売をしていた人
 
 きょうの出来事の舞台である神殿ですが、これは第二神殿と呼ばれます。最初にエルサレムのこの場所に神殿を建てたのは、ダビデ王の子であるソロモン王でした。しかしその神殿は、バビロン捕囚の時に破壊されてしまいました。そしてその後、ユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに戻って来れた時、ふたたび神殿を建てました。それがこの第二神殿です。第二神殿は、その後ヘロデ王が拡張して、大きくて立派な神殿になりました。
 神殿の門を入ると、広い境内がありました。ちょうど日本の神社を想像していただくとよいでしょう。鳥居を入ると境内があるように、門を入ると庭と呼ばれる境内があります。そしてその中に、拝殿と本殿が建っています。このエルサレム第二神殿の境内では、拝殿の近くまで行くことのできる人は、決まっていました。一番近くが男子、その次に女子、そして一番外側が異邦人、つまりユダヤ人以外の人ということになっていました。そして、今日イエスさまが追い出された商売をしていた人たちは、その異邦人の庭で商売をしていました。つまり、異邦人が祈りをささげ、礼拝する場所で商売をしていたわけです。
 「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」と書かれています。「両替人」がなぜいるかということですが、神殿で神さまに献金をささげる時には、聖所のシェケルというお金でなければならなかったんです。普通のお金ではささげることができなかった。それで、この両替人によってお金を聖所のシェケルに両替してもらわなければならなかったんです。そうしないと礼拝できなかった。そして両替人は、その差額でもうけていたんです。
 また、なぜ鳩を売っていたかということですが、神殿の拝殿の近くには祭壇があって、そこに羊や牛を焼いてささげたんですね。しかし牛や羊は高い。それで貧しい人は、鳩をささげても良かったんです。その鳩を売っていたんですね。ただし、相場よりも高い価格で売っていた。自分で鳩を持ち込もうとすると、その鳩を調べる係の人がいて、あなたの持って来た鳩は傷があるから神さまにささげることはできない、というようなことを言われて、結局、その神殿の境内で売っている鳩を飼わなければならないはめになったそうです。そのように、人々が神さまに祈り礼拝するために来ていることを利用して、商売をしていた。そしてそれは神殿を管理する祭司長たちの公認のもとに行われていたということです。
 
   問題点
 
 さて、このように見てみますと、二つの問題点が挙げられると思います。一つは、神さまを礼拝するために来た人々の足もとを見て商売をしているということ。もう一つは、その場所が異邦人が礼拝する場所であったということです。異邦人が神さまを礼拝する場所で、商売がなされる。物を売り買いする言葉が飛び交う。雑踏のような状態になります。これでは、とても静かに神を礼拝する環境とは言えません。
 言い換えれば、祭司長のもとで商売をしている彼らが、純粋に礼拝することを妨げている。特に異邦人が礼拝することを妨げていることになります。
 イエスさまが引用されたイザヤ書56章1〜8節の預言の言葉は、イザヤ書56章の始めから続いているんですが、そこには「異邦人の救い」という見出しがついています。神さまは、神の民と呼ばれたイスラエル=ユダヤ人だけではなくて、異邦人も同じように救われる。主なる神のもとに集ってきた異邦人も救われる。そういう神の言葉が語られているんです。人が救われるというのは尊いことです。その救いを求めて神殿に来た人々が心から礼拝することを妨げている。それに対して、イエスさまは断固たる態度をお示しになったと言うことができます。
 あくどい商売をしているということでしたら、世の中には他にいくらでもなされていたことでしょう。あるいは、理不尽なことは、世の中にあふれるほどあったことでしょう。しかしイエスさまは、これまでは今日のような実力行使をなさったことはありません。むしろ、徴税人ザアカイの回心のように、イエスさまは人々が悔い改めるようになさいました。しかし、今日は実力で排除されている。それは、神さまを礼拝することを妨げていることに対して、それを排除されたのです。言い換えれば、礼拝という行為が、いかに貴くて神聖なものであるかということが、浮き彫りになっています。
 
   礼拝のために造られた私たち
 
 世の中の多くの人は、神を礼拝するということが、そこまで大切なものではないと思っているのではないでしょうか。神を礼拝するのは、自分の願いをかなえてもらうためであって、それ以外ではないと思っているでしょう。
 しかし、聖書では違います。例えば聖書に次のような言葉があります。
(詩編 102:19)"後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」"
 神さまはなぜ人間をお造りになったのか。それは神さまを、つまり主を賛美するために造られたというのです。先ほど申し上げたように、賛美は礼拝です。ですから、私たちは、主なる神さまを礼拝するために造られたということになります。
 このことは、神さまというのは私たちの願いをかなえてくれるから拝むのだと考えている人から見たら、理解できないかもしれません。そういう人にとっては、神さまを礼拝することは、自分の願いをかなえてもらうための手段であるということになります。願いをかなえてもらうために神を礼拝する。つまり、目的は願いをかなえてもらうことであり、神さまは願いをかなえてもらうための手段となります。
 ところが、イエスさまによれば、その目的と手段がひっくり返ります。つまり、神さまを礼拝することそのものが目的となる。そのために願いをかなえていただくという順序になります。
 私たちが生きている目的は何か。そういう問いを、人間は誰でも持つことでしょう。それに対する聖書の答えは、神を礼拝することです。神を礼拝するために生かされている。私は、このことを最初知った時、驚き以外の何ものでもありませんでした。最初は、「自分のやりたいことをかなえるのが目的であり、神はその目的をかなえてくれる手段だ」と思っていました。しかし聖書の真理を知って驚きました。そして、だんだん、たしかに聖書の言うとおりだと思えるようになりました。
 例えば、私たちがやがて行くべき所は天国です。その天国では何をしているのか? 礼拝をしているんです。ヨハネの黙示録に、このことが鮮やかに書かれています。天国では、父なる神さまとイエスさまに直接お目にかかって礼拝がなされている。そこが人生の目的であり目標です。
 
   私たちを真実の礼拝にあずからせるために来られたイエス
 
 今日のイエスさまの実力行使は、礼拝というものが、そのように、いかに貴いことなのかを、身をもってお教えになっています。
 神殿の境内で、目の見えない人や足の不自由な人たちがイエスさまのそばに寄ってきたので、イエスさまがそれらの人々を癒されたことも書かれています。この人たちは、自分たちを癒してもらうために神殿に礼拝に来たのではありません。神さまを礼拝するために神殿に来たところ、イエスさまに出会ったんです。その結果、癒されたんです。そういう順序です。子供たちまでもが、イエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」と呼んで賛美しました。私たちが神を礼拝できるようにするために来られたイエスさまを、ほめたたえているんです。
 神を礼拝するということは、神にお会いするということです。これらのできごとは、イエスさまという方が、私たちが神にお目にかかり神を礼拝することができるようになるために来られたということを教えています。
 私たちは神さまから見たら罪人であり、本来は神にお会いすることもできなければ、礼拝することもできない者です。しかしイエスさまがそれをできるようにしてくださった。今日、神殿から商人を追い出されたイエスさまは、このあと十字架にかかられることになります。それは私たちが神にお会いし、救われるためです。
 私たちは、今そのイエスさまのお名前によって、神さまを礼拝しています。そのためには、イエスさまがご自分の命を捨てなさるということがなければならなかったのです。私たちが神を礼拝できるようにするために、イエスさまは十字架にかかってくださったのです。
 その礼拝に今、私たちはあずかっている。それは私たちの生きている目的です。ご病気などでこの礼拝に来られない方のことも覚えて、私たちは集っています。その方々も、それぞれのおられる場所で、私たちと共に神を礼拝しているのです。このことの尊さを覚えたいと思います。


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