2021年2月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書1章6〜8
    マタイによる福音書21章1〜11
●説教 「主がお入り用なのです」
説教 小宮山剛牧師

 
   十字架に至る最後の一週間
 
 いよいよ、イエスさまが、地上の歩みの目的地であるエルサレムの都に入られるというのが今日の聖書箇所です。こちらのほうのおもな町は、町全体が高い石の壁で囲まれています。だから、町全体が城になっているわけです。それでこの出来事を、エルサレム入城と言ったりします。
 きょうの聖書では、イエスさまがロバの子に乗って入城なさいます。そしておおぜいの群衆がそれを喜び、歓喜の声を上げます。群衆は「ダビデの子にホサナ」と言っています。「ダビデ」は昔のイスラエルの全盛期の王様ですね。「ダビデの子」という言い方は、神さまが昔から遣わすことを約束してくださっていた救い主であり、新しい王ということです。「ホサナ」は、「救ってください」というのがもともとの意味ですが、「万歳」というような賛美の言葉になったものです。ですから、イエスさまを迎える人々の喜びは、新しい王となられる方が、いよいよ首都エルサレムに乗り込んでこられたという喜びです。
 ところが、それらの群衆の期待に反して、イエスさまはこの週のうちに捕らえられ、十字架にかけられて死んでしまわれます。詳しく言いますと、きょうの聖書に書かれているエルサレム入城が日曜日。そして木曜日には最後の晩餐があって、その夜のうちに捕らえられ、翌金曜日の朝には十字架につけられる‥‥ということになります。イエスさまが捕らえられても、反発した群衆によって暴動が起きたわけでもありません。それどころか、弟子たちさえもイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまったんです。
 その背景には、人々がイエスさまに託した思いと、実際のイエスさまが違っていたということがあると言えます。多くの人々は、イエスさまが救い主であると信じていた。しかしその場合の救い主=メシアとは、自分たちの生活をよくしてくれる王様であり、ローマ帝国やヘロデ王の支配を打ち破ってくれる救い主であるというふうに考えていたのです。イエスさまの弟子たちも同じように考えていた。
 しかし、実際のイエスさまはそういう方ではなかった。そういう考え方のズレといいますか、違いが背景にあった。つまり、この日イエスさまが新しい王となられることを期待して歓喜の声を上げて迎えた人々が、自分たちの考えるような結果にならなかったので、結局イエスさまを信じるに至らなかった‥‥。そのように言うことができます。
 
   進んで行かれるイエス
 
 しかし、私たちはそれを他人事のようにして、単に物語を読んで聞いているというふうにしてしまってはならないでしょう。なぜなら私たちが聖書を読む時は、自分をこの登場人物の中に置いてみて考えないと、他人事になってしまうからです。「聖書は自分を映し出す鏡である」と言った牧師がいました。本当にそうだな、と思います。
 イエスさまが自分の期待したような方ではないと知って、去っていく。それは私自身もそうでした。私は大学生の時に、教会を去って行きました。それは教会員につまずいたからですが、しかしそれはきっかけに過ぎないのであって、やはりイエスさまにつまずいたのだと思います。私の言うことを全く信用しなかったその人を受け入れておられるイエスさまにつまずいたんです。さらに言うならば、そもそも私自身が、この世のことだけに関心が移り、イエスさまにあまり関心がなくなっていたのだと思います。
 教会には、いろいろな方が来られますが、また去って行かれるのは、教会の側の問題もありますが、もう少し言うならば、自分の期待する神さま・イエスさまと、実際の神さま・イエスさまが違った‥‥ということがあると思います。
 本日の聖書で言えば、人々は歓喜の声を上げてイエスさまのエルサレム入城を喜びました。しかしその同じ週のうちに起こったイエスさまの十字架刑によって、人々は失望して去っていったのです。それは人々の期待したキリストと、実際のイエスさまの姿が違ったからだと言えるのです。
 そのように、弟子たちを含め、イエスさまを歓迎した多くの人々が、イエスさまについて誤解をしている。だれ一人として、イエスさまが十字架で命をささげられることによって人類を救おうとされていることなど分かっていない。十字架にかかるということは、イエスさまが王となるために決起するのが失敗して死刑にされてしまうことと見える。しかし、実はそうではなく、十字架でイエスさまが命を捨てられることこそが救いなのですが、それはこの時まだだれも分かっていないんです。
 しかし、それでもイエスさまは進んで行かれます。エルサレムの町の中に入って行かれるんです。みな誤解しているからと言って、引き返したりはなさらない。それはまさに、この世のことしか考えられない人々を救うために、自分の罪も神さまのことも分からない人々を救うために、進んで行かれるんです。私も何も分かっていなかった。それはつまり、イエスさまの十字架がなんなのか分からなかったということに、行き着くわけです。しかし、私たちの誤解にもかかわらず、イエスさまは進んで行かれたんです。私たちを救うために十字架に向かって。
 
   ロバの子に乗るイエスさま
 
 さて、ここで注目したいのは、イエスさまが「子ろば」に乗ってエルサレムに入城されたということです。ロバというのは、当時普通に飼われていた家畜です。人を乗せ、また荷物を運ぶために、ロバはたいへん便利な家畜でした。そのロバに乗って行かれたことが書かれています。
 ふつう、王様が都に入られる時は、馬に乗りました。馬のほうが大きいし、見栄えもよいからです。それに対して、ロバは小さいし、見栄えも悪い。ですから、新しく王となられる人が都に入られるとなれば、それは普通は馬でしょ、ということになります。ところがイエスさまはロバに、しかもロバの子に乗って入られた。その理由について、聖書は、預言者を通して言われていたことが実現するためだったと書いています。その予言は旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に書かれています。
(ゼカリヤ書 9:9)"娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。"
 マタイによる福音書の引用の言葉と少し違いますが、なぜロバの子に乗るかと言えば、予言では「柔和な方」だからだと言っています。ゼカリヤ書のほうでは、「高ぶることなく」となっています。
 この世の王様は、王冠をかぶり、きらびやかなマントで体を覆い、馬の上に載って人々を見下ろしながら入城するでしょう。しかしこの預言の言葉通り、イエスさまは小さなロバの子に乗って入城される。それは、高ぶることなく柔和な王だと。それは、その先の十字架を予言しておられると言うことができます。私たちを救うために、ご自分の命を投げ出されるほどにへりくだった、イエスさまの姿を予言しています。
 この、ロバの子に乗って入城されたというところですが、私は昔は、ロバの子は馬よりも小さいぐらいにしか思っていませんでした。この時のことを描いたいろいろな絵画を見ますと、イエスさまはロバの子に乗っているのですが、それでも周りに立っている人よりも少し高く、イエスさまの顔が人々の上に出ています。ところがこれを「ジーザス」というキリストの生涯を描いた映画を見て、ハッとさせられたことがあります。それをちょっと見ていただきたいのです。
 【映画「ジーザス」の一場面を映す。】
 いかがでしたか?‥‥実際にロバの子に乗ると、イエスさまの目の高さはどうなったでしょうか。周りにいる人々と、同じ目の高さ、同じ目線でしたね。
 神の子である方、三位一体の神の子である方が、この世のすべての王たちよりも問題にないぐらいに、はるかに高い所におられる方が、人の子となられて、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになって、そして十字架で命を捨てるためにロバの子に乗ってエルサレムに入られる。柔和な方で、低くへりくだって、もっぱら私たちを罪から救うためにそうされる。ここに、これから向かわれる十字架がどういうことなのかを、すでにあらわしていると思います。
 
   ちいろば
 
 イエスさまの乗られたロバの子と言えば、チイロバ先生こと榎本保郎先生を思い出します。榎本先生が書かれた証の本、「ちいろば」です。榎本先生は、ご自分のことをイエスさまを乗せたロバの子にたとえて「ちいろば」と名乗られました。その本『ちいろば』のあとがきで、榎本先生はこのように書いておられます。
 "このろばの子が「向こうの村」につながれていたように、私もまたキリスト教には全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼な友だちが、私が牧師になったことを知って、「キリストもえらい損をしたもんじゃのう」と言ったそうですが、その評価の通り、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じウマ科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見ばえのしない「ちいろば」にひとしお共感を覚えるのです。しかし、あの名もないろばの子も、ひとたび「主の用」に召し出されたとき、その背にイエスさまをお乗せする光栄に浴し、おまけに群衆の歓呼に迎えられてエルサレムへ入城することができたのです。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身にあまる光栄にひたされ、不思議に導かれて現在に至りました。この喜びをなんとかして多くの同胞におつたえしたい、それがこの『ちいろば』を執筆した動機であります。"
 ロバの子は人々の注目を集めて賞賛されることはありません。しかしロバの子は、イエスさまをお乗せすることができたんです。
 
   主がお入り用なのです
 
 そのロバの子ですが、イエスさまは、エルサレムの都の手前の村であるベトファゲまで来られた時に、弟子たちを使いに出されました。2節「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いてきなさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
 なんとも不思議な話です。イエスさまは向こうの村にろばがつながれていて、そのそばにロバの子がいることもご存じであったことになります。しかし、ろばやろばの子ならば、向こうの村に行かなくても、その時イエスさまがおられたベトファゲの村にもいたのではないでしょうか? なぜなら、ろばは全くふつうの庶民の家畜であり、あちこちにいたからです。にもかかわらず、わざわざ弟子に向こうの村まで行かせて、指定した場所にいるろばとろばの子を連れて来なさいとおっしゃった。これはなぜなのでしょうか? 何か、そのろばの子でなければダメだといわんばかりのことです。
 そう、そのろばの子でなければダメだったんです。私たちからみたら、どのろばでもろばの子でも、大した違いはないから良いじゃないかと思う。しかしイエスさまにとってはそうではなかった。そのろばの子でなければならなかったんです。
 そこで私は、私たち自身のことを思うんです。私たちは、このように神さまを礼拝しています。教会に来ています。これは、私たちが自らの意思で教会に来ていると思っているかもしれませんが、実は聖書によればそうではありません。例えばイエスさまが、次のようにおっしゃっている個所があります。
(ヨハネ 15:16)"あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。"
 私たちは自分から教会に来たと思っている。しかし実はそうではなかった。私たちは自分では気がつかなかったけれども、イエスさまが私たちを導いて、教会に導いたということになります。イエスさまが私たちをお選びになったのだということになります。
 そうすると私たちは、「なぜ?こんな私が?」と思います。ろばの子が何の役にも立ちそうもないように見えるのと同じように、わたしなど何の役にも立ちそうもないと思われる。けれどもイエスさまによれば、そのろばの子でなければならなかった。理由はイエスさまにしか分からない。けれども、そのろばの子でなければならなかった。それと同じように、主は、まず私たちを導かれた。何の役にも立ちそうもないのに、イエスさまからご覧になったら、この私たちでなければならなかったんです。今インターネットで、これをご覧になっている方についても同じです。
 すべてをお見通しの主が、わざわざこの子ロバをお選びになった。同じように、すべてをお見通しの主が、わざわざこの私たちをお選びになったんです。そこに主のご計画があるんです。
 ろばの子は、ろばの子が賞賛を受けるのではありません。ろばの子が乗せたイエスさまが、賛美されるために用いられたんです。同じように、私たちも、私たちが賞賛を受けたり、賛美されるために導かれたのではありません。私たちがイエスさまをあかしし、そして人々がイエスさま・神さまを賛美するようになるために導かれたんです。
 「主がお入り用なのです。」主は、こんな私たちでも用いてくださると言われます。感謝というほかはありません。


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