2021年1月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記22章12〜13節
    マタイによる福音書20章17〜28節
●説教 「下を目指す」
説教 小宮山剛牧師

 
   後にいる者が先に、先にいる者が後に
 
 先週は、イエスさまがお話しになった「ぶどう園の労働者のたとえ」をご一緒に学びました。そしてそのたとえ話は、その前後に記されている同じ内容の言葉、すなわち「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という謎めいた言葉の説明になっていると申し上げました。
 しかし、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉の意味について、はっきりと「こうだ」と申し上げなかったために、なんとなく分かったようで分からなかったという人もおられるかもしれません。そこで最初に、そのことをもう少し補足しておきたいと思います。
 前回のたとえ話では、朝早くから働いた人も、夕方雇われて少ししか働かなかった(働けなかった)人も、同じ1デナリオンの賃金をもらいました。このことは、ぶどう園の主人である神さまによって、みんな神の国に入れていただいたということを表しています。あるいは、みな同じ神の恵みをいただいたということを表しています。
 しかしそこには不満を持った人と、喜びと感謝で満たされた人がいたわけです。朝早くから働いた人は「自分たちはもっともらえるはずだ」と不満を持ち、夕方にようやく雇われて1時間しか働けなかった人は感謝と喜びに満たされた。この不満を持った人と、感謝に満たされた人との違いは「自分にはもっともらう資格がある」と思った人と、「資格がないこの私にも恵みが与えられた」と思った人の違いです。そしてそれが「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というイエスさまの言葉の意味であると言えます。なぜなら、先にもらえるはずの人が後回しにされたら不平不満が生じますね。後だと思っていた人が、先にもらえたなら喜びがありますね。そういうことです。
 三浦綾子さんの『丘の上の邂逅』という本の中に、ある女性の話が出てきます。その女性は、綾子さんが子どもの頃、近所に住んでいた人でした。しかし、やがてその女性は窃盗罪で捕まり、刑務所で服役したそうです。その人が結婚することになり、三浦さんはご夫妻でその人の結婚式に出席しました。お相手の男性は、重罪を犯して無期懲役の刑を受けた人だったそうです。しかし、改悛の情が顕著であり、非常に早く刑務所を出所することができた人でした。結婚式に集まった人は多くなかったそうですが、保護司の人が涙ぐんで祝辞を述べるその言葉に、誰もが感動したそうです。そのような温かいものが満ちている結婚披露宴であったそうです。花婿は「僕のような者と結婚してくれたのですから、大事にします」と言い、花嫁さんは「こんなわたしでももらってくれたんだから、がんばります」と言ったそうです。そして三浦さんは、「お互いに『自分のような者を』という気持ちがあれば、絶対にうまく行きますよ」と励ましたそうです。そして実際に、二人は不思議なほど仲が良かったそうです。どちらかというと、二人ともケンカ早いところがあるのに、なぜかケンカにならなかったそうです。お互いに刑務所生活をしていて、お互いの傷の深さが分かっていた。二人はいたわり合うより仕方がなかった。その愛が、二人を真面目な社会人として、よき夫婦として支え合い、育て合ってきたのだろうと、三浦綾子さんは書いています。
 私たちも同じではないでしょうか。私たちも、実は、神さまのぶどう園に雇っていただく資格もなく、1デナリオンをいただく資格もなかった者に違いないのです。神の国に入れていただく資格もなく、神の子としていただく資格もない者であった。しかしそんな私たちに資格を与えるために、イエスさまが十字架でご自分の命を捨てて、代わりに私たちを救ってくださった。わたしたちが喜びを持って歩んでいくためには、「この私のような者のために」という感謝を忘れないでいることが大切だと思います。
 そのことは、きょうの聖書の出来事にもつながっていきます。
 
   十字架の予告
 
 今、イエスさまは、エルサレムへ向かっています。そしてここでイエスさまは、ご自分の受難について予告なさっています。マタイによる福音書では、これが3度目の予告です。一番最初は16章21節でした。次は17章22〜23節でした。そして今日の箇所です。
 そして今日の箇所では、かなり具体的に予告なさっています。今日初めて「十字架」という言葉が出てくる。イエスさまがエルサレムにて捕らえられ、侮辱され鞭打たれ、十字架につけられると、かなり具体的です。十字架というのは、ローマ帝国による最も残酷な死刑の方法です。そのような受難が待っているエルサレムに今向かっているんだと、そういう決意のように聞こえます。
 そのイエスさまの言葉を、12人の弟子たちはどのように受け止めたのか?‥‥そのあとを読むと分かってきます。結論から先に言うと、イエスさまの受難、十字架を正しく受け止めることができた弟子は一人もいなかったようです。
 
   ヨハネとヤコブの母
 
 イエスさまの受難の予告を聞いて、ゼベダイの息子たちの母がイエスさまにお願いをする。ゼベダイの息子というのは、12使徒のうちのヤコブとヨハネのことです。お母さんは、イエスさまが王となられたあかつきには、息子たちを一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください、と。分かりやすく言えば、息子を右大臣と左大臣にしてくださいということです。
 こういうのを「ステージママ」というんでしょうか。息子たちの出世を願って出てくる親がいるというのは、昔も今も変わらないようです。イエスさまが王となられるお方であるということは疑っていない。しかしこのお母さんは、あくまでもイエスさまがこの世俗世界の王となるということで見ている。
 すなわちイエスさまが、たった今、受難の予告をなさったのは、実は十字架でご自分の命をささげて、私たちを救おうとされることだった。それが28節の「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」という言葉に表れています。そういう尊いお話しをなさったのに、彼女にはどう聞こえていたのか。いやこのお母さんだけがそう考えていたのではありません。彼女は二人の息子、つまりヤコブとヨハネ兄弟に代わって言っているに過ぎません。他の弟子たちも、同じように考えていたことは、そのあと他の弟子たちがヤコブとヨハネのことで腹を立てたことから分かります。抜け駆けをしてずるいぞ、と。
 では彼らにとって、イエスさまがたった今十字架の受難の予告をなさったのは、いったいどういう意味として聞こえたんでしょうか?
 おそらく、もしかしたら失敗して十字架にかけられてしまうかもしれない、という意味に聞こえたのでしょうか。だから死ぬことも覚悟してエルサレムに向かうぞ、と。いずれにしても、弟子たちにはイエスさまの予告が正しく理解できなかったようです。
 
   飲むべき杯
 
 イエスさまはヤコブとヨハネの二人に言いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と。この「杯」というのは、受難の杯です。すると二人は「できます」と答えた。これは、本当の意味が分かっていないから「できます」などと答えたのです。あくまでもイエスさまが、やがてこの国の王となられると期待している。そして、死も覚悟してイエスさまについていくということです。日本の戦国時代に、やがて天下を取ると信じた殿様に武士たちが従っていったようにです。
 そこでイエスさまは弟子たちを集めておっしゃいました。25〜28節「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
 これは注意して聞かなければなりません。やがて偉くなるためには、今はがまんして仕える者となれ‥‥ということではありません。大相撲で新入幕の力士が、最初は先輩力士の世話をしたりちゃんこ料理番をするのと同じように、上を目指すためには今は仕えなさい、ということではないんです。
 そもそもイエスさまは、仕えるためにこの世に来られたとおっしゃっているんです。しかも、私たちを救うための身代金として。私たちを滅びから救うために、ご自分が身代金としてご自分の命をささげられる。それが十字架なんです。この私を救うために、この私たちを救うためにです。私たちは、神さまから見たら滅びても仕方がない罪人です。救う値打ちがない者です。救われる資格がない者です。
 しかしイエスさまは、そんな私たちを救うための身代金となってくださるという。イエスさまが命を捨ててまで、私たちに仕えてくださったんです。そのように、と。
 
   身代わりの小羊
 
 きょう読みました旧約聖書は、創世記22章の中の言葉です。創世記22章には、アブラハムが独り子のイサクを献げるという出来事が書かれています。アブラハムが年とってから生まれたイサク。それは神さまが生まれることを約束なさり、待ちに待って生まれた子どもでした。ところが、ある日神さまはアブラハムに対して、そのイサクを祭壇にいけにえとして献げよとお命じになりました。むちゃな命令にしか聞こえません。しかしアブラハムは神さまを信じて、その神さまの言葉に従って、イサクを連れて、神さまの示した山に行きました。そして石で祭壇を作り、そこに薪を乗せ、イサクを縛って祭壇の上に乗せました。そしてそのイサクを屠ろうとして刃物を取ったとき、天から神の使いが「待った」をかけました。そして神さまは御使いを通して、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」とおっしゃいました。そして、神さまにささげるいけにえとして、イサクの代わりに、小羊を用意してくださったのでした。
 このイサクの代わりに神さまが用意してくださった小羊こそ、イエス・キリストのことを予言しています。イサクの代わりに小羊が祭壇にささげられた。同じように、私たちの代わりに、神の御子イエスさまが十字架という祭壇に、いけにえとしてささげられた。私たちに代わってくださったんです。神の独り子であるイエスさまが。この出来事は、きょうの聖書でイエスさまがおっしゃっている、「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」という言葉の意味をよく予言しています。
 イエスさまがおっしゃる「皆に仕える者になりなさい」「皆のしもべになりなさい」という言葉の裏には、実はそういう尊いイエスさまの愛があることを忘れてはなりません。
 
   仕える者になりなさい
 
 私たちに喜びがないとしたら、仕える者となってみなさいと。そういうことでもあります。イエスさまの十字架を思いつつ、仕える者になりなさいと。仕えるというのは、相手の言いなりになることではありません。相手が神を信じ、キリストを信じるようになるために、へりくだって祈り続けることでもあります。そこに神の奇跡が起きることを信じることでもあります。
 自分が高められることを目指すところに平安はありません。不平不満ばかりが募ります。しかし、キリストと共に、隣人の救いのために仕える者になりなさいと、主は言われます。そのような者をキリストは祝福してくださると言われます。


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