2021年1月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書55章8
    マタイによる福音書20章1〜16節
●説教 「神のわがまま」
説教 小宮山剛牧師

 
   天の国のたとえ
 
 本日の聖書では、イエスさまによってたとえ話が語られています。イエスさまは、多くのたとえ話を語られました。そして今日のたとえ話は、私が神学生の時に、高知県の教会に夏期伝道実習に行きましたが、そのときの説教個所なんです。5つの教会で毎週同じ説教をいたしました。この聖書箇所を説教で選んだのは、このたとえ話が当時私にとって、もっともイエスさまの福音というものを分かりやすく語られていると思ったからです。そしてその思いは今も変わりません。
 イエスさまのたとえ話というのは、「天の国」をたとえているものです。「天の国」とは天国のことであり、神の国のことですが、それは、死んでから行く所ということではありません。イエスさまのおっしゃる天の国とか神の国というのは、今、この世界において、私たちがイエスさまを信じることによって、すぐに入れていただくことのできる世界のことです。ですからこの世にいながらにして、天国の住人としていただける。
 そしてその天の国が、私たちの肉体が死んだ後ヘと永遠に続いていく。そういう信仰の世界のことです。
 
   さまざまな解釈あり
 
 さて、今日のイエスさまのたとえ話は、たいへんわかりやすいことをたとえに用いて語られています。「ある家の主人」が登場しますが、これが神さまのことです。そうして雇われた労働者は、私たちということになります。
 このたとえ話については、昔からいろいろな解釈がなされてきました。いろいろな聖書の解説の本や、あるいはインターネットを調べてみましても、たいへん多くの解釈の仕方があることが分かると思います。
 例えばどんな傾向の解釈があるかということで一例を申し上げますと、このたとえ話では、公平さということが問われているんだと。人間の公平さと神さまの公平さが違っているのであると見ます。そして最後の午後5時に雇われて1時間しか働かなかった者とは社会的な弱者のことを指しているのであり、イエスはそういう弱い立場の人々に目を向けるように教えておられるんだというような解釈があります。たしかに、人間の考える公平さと神さまの公平さは違っていることは事実ですし、社会的弱者を顧みなければならないというのも正しいことです。ですから、そのような解釈が間違っているとは、私は申しません。
 しかし、イエスさまが本当にこのたとえ話で伝えようとなさったことがそういうことであるかと言えば、もう少していねいに見る必要があると思います。
 
   先にいる者、後にいる者
 
 と言いますのは、このたとえ話の前後に、同じような言葉があることに注意しなければならないと思うからです。まず、たとえ話の直前の19章30節です。「章が違っているから別の話だろう」と思う方が多いと思いますが、実はそうではないんです。この章や節の番号というものは、初めはなかったんです。ずいぶん後の時代になって、読者が読みやすいように付けられたものなんですね。ですからもともとは、19章と20章の間も完全につながって書かれているんです。改行すらなされていません。ですから、このたとえ話は、その前の「金持ちの青年」の出来事からずっとつながっているんです。
 そうすると、今日のたとえ話の直前では、イエスさまがこうおっしゃっていました。
(19:30)"しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。"
 そしてたとえ話の最後の所では、こうおっしゃっています。
(20:16)"このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。"
 つまり、今日のたとえ話は、この同じような言葉の間に挟み込む形で語られていることが分かります。しかも「先にいる者」「後にいる者」の順序が、19:30と20:16では入れ替わっているほどに、みごとに対照をなしています。そうすると、やはりこのたとえ話は「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」という、この謎めいた言葉を説き明かすために語られているとみなければならないでしょう。
 すると、19章30節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」というイエスさまの言葉は、どういう状況で語られたかといえば、それはペトロが言ったことに対して言われているわけです。「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか?」と尋ねた金持ちの青年。自分は神の戒めを守り、すべて実行してきたと思っていた。しかしなぜか平安がない。「まだ何か欠けているでしょうか?」とイエスさまに問いました。するとイエスさまは、お答えになりました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」すると青年は、悲しみながら去って行った。
 自分にできないことがあることを悟ったんです。自分の功績で天の国に入れていただくことができないことを悟ったんです。彼は去って行ってしまいました。自分にできないことを知ったのなら、イエスさまにすがれば良かったのに、彼は自分しか見ていないから、悲しみながら去って行きました。イエスさまを見れなかったんです。
 弟子のペトロは、言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」‥‥それが先週の聖書箇所でした。そしてそのことの答えの最後にイエスさまが言われたのが先ほどの言葉です。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」そしてたとえ話が語られる。
 
   たとえについて
 
 このたとえ話に、新共同訳聖書は、「ぶどう園の労働者のたとえ」という見出しを付けています。私の恩師の清水恵三先生は、ご自分の著書『イエスさまのたとえ話』で、このたとえについて「おかしな賃金支払い」という見出しを付けています。そのほうが当たっているでしょう。おかしいんです。このたとえ話の中の主人のしていることは。
 お話しは、ある家の主人が、自分のぶどう園で働く労働者を雇うために出かけて行くというお話しです。そしてこの主人は、神さまのことをたとえています。
 そして、この主人は、日雇いの労働者を雇うために、朝早くから出かけて行きます。こちらのほうの町は城壁に囲まれていて、その門を入ったすぐの所に広場があり、そこに市が立って物が売り買いされていました。そして、その日の働き場を求めて仕事を待っている人もいました。そういう人を求めて、この主人は出かけて行きました。
 そしてそこで人を雇い、一日につき1デナリオンの賃金を支払う約束をして、自分のぶどう園に送りました。ここまでなら、こういう光景はよく見られる光景でした。しかしここからだんだんよく見る普通の光景でなくなっていきます。というのは、この主人は、このあと午前9時にも、そして正午にも、さらには午後3時にも出かけて行って労働者を雇うんです。
 たしかに、ぶどうの収穫期というのは短いそうです。良いぶどう酒を作るためには、ぶどうがちょうどよく熟した頃に収穫しなければならず、適した期間はたいへん短い。それで、多くの人手が必要であったというのは分かります。だから、人を雇うために何度も足を運ぶというのは、分からないでもない。しかしそれにしても、という感じです。極めつけは、午後5時にも労働者を雇うために出かけていることです。労働は日没までとなっていましたから、日没が午後6時とすると、5時からだともう1時間しか働けません。いくらなんでも午後5時にも雇うために出かけるとなると、読んでいる私たちはだんだん「なんだかおかしい話しだな?」と思わざるを得なくなります。
 そして日没となる。作業を終えて、賃金を払う時となりました。
 私は学生時代のことを思い出します。私は学生寮に住んでいました。すると、毎日、日雇いのアルバイトが入ってくるんですね。だいたい前の日ぐらいに、いろいろな事業所から電話が寮にかかってくるんです。明日こういうアルバイトに来てくれないかと。すると電話を受けた寮生が、それを黒板に書くんですね。そして寮生はそれを見て、行きたい仕事に自分の名前を書いておく。そして翌日、指定された時間になるとその事業所から車で迎えに来てくれる、というわけです。そしてその日は大学の授業を放り出してアルバイトに出かけるんです。こうなると学生寮と言うよりも、寄場のような状態です。私もいろいろなアルバイトをしました。一番きつかったのは、植木の仕事でした。シャベルで木を掘って、植え替えるんです。寒い季節だというのに、汗びっしょりとなりました。1時間働いているのが、3時間ぐらい働いたかのように思えるほどでした。そうしてヘトヘトになる。楽しみは、昼食時と、あとは夕方のアルバイト代をもらうときでした。現金でアルバイト代をもらい、やれやれという感じで帰って行くんです。そんなことを思い出すと、夕方になって賃金を支払ってもらう時を迎えたこの労働者の人たちの気持ちが、なんとなく分かります。
 ところがそこで、おかしなコトが起きた。それは、最後に雇われて1時間しか働かなかった人から順に賃金が支払われた。しかも、その人たちに1デナリオンが支払われた。それで朝から働いた人たちは、自分たちは1デナリオンもらう約束で朝から晩まで働いたけれども、1時間しか働かなかった人が1デナリオンもらったんだから、自分たちはもっともらえると期待したわけです。ところが、朝から働いた人たちも同じ1デナリオンであった。
 当然、朝から働いた人たちから文句が出ます。当たり前でしょう。たしかに朝早く雇ったときに1デナリオンの約束をしていたに違いないのですが、夕方に来て1時間しか働かなかった人と同じ金額では、不公平というものです。今日なら、訴訟に発展しかねない問題です。
 
   なぜこのような報酬を?
 
 なぜ夕方5時に雇って1時間しか働かなかった者にも、同じ1デナリオンを払ったのか。その理由について、主人はこう言っています。(14〜15節)"わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』"
 もう、こうなるとこの主人の言葉はメチャクチャにしか聞こえません。「払ってやりたいのだ」と。これって理由でしょうか?「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」って、もうこれは開き直りです。さらに「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか?」って、これは逆ギレのようにしか聞こえません。主人のわがままです。つまり神さまのわがままです。
 たしかに、夕方5時に雇われた人は、好きで夕方5時まで雇ってくれる人がいないかと待っていたわけではないでしょう。夕方5時にこの人たちを見つけた主人は、「なぜ何もしないで一日中ここに立っているのか?」と聞きました。すると彼らは「誰も雇ってくれないのです」と答えました。誰にも雇ってもらえなかった。そして夕方になってしまった。だからもうあきらめるしかない。さりとて、手ぶらで家に帰るわけにはいかない。この時刻まで待っていたということは、よほどお金に困っていたんでしょう。家では、お腹を空かせた子どもたちが待っていたかもしれないんです。だからこの人たちを雇って同じ賃金を支払った主人は、憐れみを示したとも言えます。
 
   自分は何時に雇われた人か
 
 さて、このたとえ話を振り返ってみて、一つ考えてみたいことがあるんです。そうすると最初に申し上げた、「先にいる者」「後にいる者」という謎めいたイエスさまの言葉が分かってくるからです。何を考えてみたいかというと、私は、このたとえ話の登場人物の中の何時に雇われた人にあてはまるだろうか?ということです。皆さんは、自分が何時に雇われた人だと思いますか?
 イエスさまの弟子たちは、自分たちは夜明け前、一番は役に雇われた人だと思ったでしょう。なぜなら、前の章の19章27節でペトロがイエスさまに尋ねた言葉にそれが表れているからです。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」‥‥私たちは、あの金持ちの青年と違って、すべてを捨ててイエスさまに従って来た。ついては、どんな報酬をいただけるでしょうか、と。そう訊いているんです。自分たちは、イエスさまから、神さまから良いものをいただく資格があると思っているんです。
 それに対してイエスさまが「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とおっしゃって、お話しになられたのが今日のたとえ話です。
 弟子たちは、自分たちは朝早く雇われて、多くのものをもらえると思っていた。けれども同じ1デナリオンであると。そういう約束だからです。しかし、不平不満でいっぱいになってしまって喜びがない。自分たちは「先にいる者」だと思ったので、後にされて不満でいっぱいになってしまった。
 それに対して、同じ賃金をもらう資格のない人は誰でしょうか?‥‥夕方5時、3時、正午に雇われた人の順でしょう。そしてこの中で、最も喜び、主人に感謝した人は誰でしょうか?‥‥まぎれもなく、夕方の5時に雇われて1時間しか働かなかった人でしょう。
 イエスさまによれば、これが天の国だとおっしゃるんです。神さまの世界はこうだと。お分かりでしょうか? もっとはっきり言えば、「自分は、天の国に入れていただく資格があるんだろうか?」と考えてみれば分かってきます。
 私は自分のことを考えると、「自分は天の国に入れていただく資格がない!と断言できます。私のような者は、救われる資格もないし、天の国に入れていただく資格などみじんもありません。私は1歳の時に死にかけました。それを両親の祈り、牧師先生の祈りを通して、イエスさまに助けていただいたんです。そういう大きな恩があります。ところが私は、やがてその恩を忘れて、教会を離れ、神さまを信じなくなりました。それどころか無神論に傾倒しました。なんという恩知らずでしょう。そして悪いことをたくさんしました。神の御心に適わないことばかりしました。だから、社会人になって2度目に死にかけたとき、それはもう神さまに助けていただく資格など全くありませんでした。ところがそれを助けてくださったんです。そして、再び神のもとへ、そして教会へと導いてくださったんです。
 私のような人間は、救われる資格など少しもないし、天の国に入れていただく資格など全くないんです。なのに主は、再び私を救い、ご自分のもとに導いてくださった。同じ1デナリオンを与えていただいたんです。
 その理由はなんでしょうか?‥‥それがこのぶどう園の主人の言葉です。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。』」
 
   神のわがままで救われる
 
 「この最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ」とおっしゃる!理由なんかありません。神さまは、この救う値打ちのない私にも同じように救ってやりたいとおっしゃる。だから救われたんです。神さまのわがままです。神さまのわがままで救われたんです。この私は。
 実はここには出てきていませんが、この背後にはこの話を語られたイエスさまがかかられる十字架があるんです。このたとえ話を語られたイエスさまが、これから十字架に向かわれる。この救いがたい者を救うために、十字架に行って命を捨てられる。そこまでなさるんです。資格のない者に資格を与えてくださるのがイエスさまの十字架です。
 ここで、あらためて申し上げておかなくてはならないことがあります。それは、実は、みんな夕方5時に雇われた人なんだということです。誰も1デナリオンをいただく資格がないんです。誰も天の国に入れていただく資格がない者なんです。そのことに気がつかなくてはなりません。なのに救っていただいた。資格がないのに、天の国に入れていただいた。そのことに気がついたとき、ぶどう園の主人である神さまの声が心に響いてまいります。「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」‥‥感謝と感動で満たされます。
 もし、信仰に喜びがないとしたら、それは自分が夕方5時に雇われた者であるということが、まだ分かっていないということになります。
 その人に救う理由があるから救うのではない。理由なんかない。けれども救う。メチャクチャな神さまのわがままです。しかしそこに、たとえようもない愛を感じることができます。


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