2021年1月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記33章19節
    マタイによる福音書19章27〜30
●説教 「捨てて得る」
説教 小宮山剛牧師

 
   緊急事態宣言に際して
 
 新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言が、政府から再び発令されました。このことを深刻に受け止めております。教会もそうですが、ここにおられる皆さんは、すでに慎重に感染対策をしてきていると思います。なのになぜ感染がこれほど拡大するのかということですが、その一つは「逗子教会リバイバル通信」にも書いたことですが、国民の間において、コロナに対する認識のズレがあるようです。
 そのことについてここでお話しをするのは説教の趣旨ではありませんので、私たちは私たちで、この災禍の収束を祈りつつ、粛々と歩んでいきたいと思います。また、礼拝ですが、YouTube配信によって守るということでも結構です。場所は違っても、私たちは心を一つにして主を礼拝したいと思います。
 
   ペトロの問い
 
 さて、本日の聖書箇所ですが、これは前回の話しの続きとなります。あるお金持ちの青年がイエスさまに質問しました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか?」と。そしてイエスさまとのやりとりがあったわけですが、イエスさまが「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃったところ、この青年は悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからである、と聖書は書いています。
 そして、きょうの聖書箇所は、弟子のペトロがイエスさまに質問しているところから始まっています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
 先ほどの金持ちの青年は、自分の持っている者を捨てられず、イエスさまの前を去って行った。しかし自分たちはすべてを捨ててイエスさまに従って来ている。「では、私たちは何をいただけるのでしょうか?」と。捨てたから、何か良い物をイエスさまからいただけるのか?という問いです。捨てたから、もらえる。捨てたか捨てないかの問題になってしまっています。
 永遠の命が与えられるというのは、これを別の言い方をすれば「神の国に入れていただける」ということになりますが、何か自分が捨てたから、あるいは良いことをしたから神の国に入れていただく資格があるということではありません。そのことは前回お話ししたとおりです。しかしペトロは、あの金持ちの青年とは違って自分たちは捨てて従ったから、何かご利益にあずかることができるでしょうかと、そういう質問です。
 
   イエスの答え
 
 それに対してイエスさまは、まず「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」とお答えになりました。
 この28節の言葉を注意して読んでもらいたいのですが、イエスさまは、弟子たちがすべてを「捨てた」ことについては触れておられないんです。「わたしに従ってきたのだから」と、捨てたことには触れず、従ったことについてまずおっしゃっています。ここは丁寧に押さえておきたい点です。ちなみに、この「従う」という言葉は、ギリシャ語では「ついて行く」という意味です。イエスさまについて来た。信じてついてきたことについておっしゃっている。それは、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」‥‥ということでした。
 イエスさまは、「新しい世界になり」とおっしゃいましたが、弟子たちがこのイエスさまの言葉を理解できたとは思えません。イエスさまがおっしゃった「新しい世界」とは、この世が終わり新しい神の国が訪れた時、ということです。今のこの世の中で、ということではありません。神の国でのことです。しかし弟子たちは、そのように受け取っていないでしょう。弟子たちは、イエスさまが神の子キリストであり、真の王であるという点は信じているわけですが、それはイエスさまがやがてこの地上のユダヤの国の王となられると考えていたからです。自分たちを支配しているローマ帝国を倒し、ダビデ王の時のように独立して繁栄を築く。そういう救い主であり、王になられると弟子たちは思っていた。だから弟子たちにとっては、「新しい世界」というのは、イエスさまが戦いに勝利して政権を取ったあかつきには‥‥という意味だと思ったことでしょう。自分の支持する人が政権を取ったならば、その側近たちは政権の大臣などの要職に就けると期待するのは、昔も今も変わりません。ですから、ペトロが「では、私たちは何をいただけるのでしょうか?」と尋ねたとき、それは大臣にしていただけるのでしょうか?何かの長官にしていただけるのでしょうか?‥‥と尋ねたようなものなのです。
 だから、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」とイエスさまがおっしゃったとき、それは12人の大臣にしていただけるんだと思ったに違いないのです。しかし実はイエスさまは、この世の国のことをおっしゃったのではなく、来たるべき世である神の国、すなわち天国でのことをおっしゃったんです。天国でイスラエルの12部族を治めることになると。しかも、「治める」というのは、何か偉くなるということではありません。治める者は、隣人に仕える者であります。
 
   捨てて与えられる
 
 そして次に、「捨てた」ことについて述べられています。すなわち「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」とおっしゃいました。
 ここだけ読むと、家や家族や財産を捨てた者は百倍報いを受けるだけではなく、永遠の命を受け継ぐと言われている。つまり永遠の命を得るためには結局、すべての持ち物を捨てるということをおっしゃっているように見えますが、最後にイエスさまは肝心なことをおっしゃっていることを見逃してはならないでしょう。すなわち、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 この言葉は、非常に大切なポイントとなっています。なぜなら、続く20章1節からのイエスさまの語られたたとえ話は、その言葉をめぐって語られているからです。というのは、20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」の最後に、それと同じ言葉がイエスさまによって再び語られているからです。すなわち20章16節で「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と、再び同じ言葉を語られているんです。
 というわけで、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉が一つのキーワードのようになっています。つまり、この世のものを捨ててきたから永遠の命をいただける、捨てなければ永遠の命をいただけない‥‥ということでもないのです。
 
   先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる
 
 そうすると、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉はいったいどういう意味であろうか、ということになります。
 詳しくは、次回の説教に譲るといたしますが、たとえば、行列の先頭に並んでいたのに、一番後回しにされたら愉快じゃないですよね。それどころか腹が立ちますね。そのことから考えると、分かってくると思います。この弟子たちは、すべてを捨てて最初にイエスさまの弟子となった人たちです。だから当然自分たちは、良い物をいただける、良い地位に就けていただけると思っていたに違いありません。しかし主は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われたんです。これはどういうことか?
 それは、ペトロの思いが間違っているということだと思います。ペトロは言いました。27節です。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」‥‥自分が何かをしたから、報酬として神さまから永遠の命をいただける。この考え方がおかしいのです。私たちが救われて神の国の住人とされ、永遠の命を与えていただけるのは、私たちが何かをしたからではなく、イエスさまが十字架にかかって私たちの罪を赦してくださるからです。たしかにペトロたちも永遠の命を与えられるでしょう。しかしそれは、ペトロたちが何かをしたから、その功績によって与えていただけるのではありません。イエスさまに従っていった、つまり信じたからに他なりません。
 前回の個所でも申し上げたように、私たちの罪は、私たちが何か財産を貧しい人に施したぐらいで消えてなくなるほど小さなものではないんです。神の子であるイエスさまが、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださるほかはないんです。
 だから、ペトロら弟子たちも神の国に入れていただき、永遠の命を与えていただくことができるけれども、それはペトロたちの功績によるものではなく、ひとえにイエスさまの十字架のおかげなのです。そしてそのイエスさまを信じているから、神の国に入れていただけるということです。
 
   捨てて与えられる
 
 さて、そうすると今度は、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け」のお言葉は何かということになります。もちろん家族を捨ててというのは、家族を見捨てるという意味では決してありません。家族が止めてもイエスさまに従っていくという意味です。あるいは、自分の大切なもの、財産を捨てることになってもということです。そのときは、百倍を受けるとおっしゃっている。‥‥結局それではご利益宗教みたいではないか?と思われるでしょうか。
 しかしこの「百倍」というのは、お金とか物質的なものではないかもしれません。そこで例として、ジョージ・ミュラーのことをお話ししたいと思います。ジョージ・ミュラーについては以前もお話ししましたが、今日のこのことを考えるときに、証しとなっていると思います。
 19世紀のイギリスに、ジョージ・ミュラーというクリスチャンがいました。のちに神に祈ることのすばらしさを、世界中に出かけて行って宣べ伝えた人です。彼は、あるとき町に孤児があふれ路頭に迷っているのを見て、聖書の言葉に心を動かされました。そして、孤児院を始めるのが神の御心であるとの召命を受けて、自分の持っているものをすべて売り払って孤児院を始めたのです。特に財産がたくさんあったわけではありません。しかし妻と相談して、そうしたんです。しかも持ち物をすべて売り払ったことは誰にも知らせませんでした。
 最初は建物を借りて孤児をあずかりました。孤児院を運営するには、多くの費用がかかります。その時、ミュラーたちは、孤児院を運営する規則を作りました。その中に次のようなものがありました。‥‥「いっさい募金を頼んで回らない。ただ神さまに祈って神さまにお願いする。」また、「寄付をしてくれた人の名前と金額を発表して、人の名誉心をあおるようなことはしない。それぞれの寄付者には、ひそかに感謝する。」‥‥そのようなことを決めたのです。そして彼らはただ神に祈ることによって、神さまからの助けを期待して孤児院を運営していったのです。そしてすぐに孤児がたくさん預けられていきました。
 これは、まったく無茶な冒険です。寄付を頼まないし、寄付者の名前を発表しない、つまり人間の名誉心をあおらないで、いったいどこから寄付が集まるというのでしょうか?すぐに孤児院は行き詰まって、つぶれてしまうのではないでしょうか?‥‥神を信じない人にはそう思えたのです。 しかし、ミュラーの孤児院は、決してつぶれることはありませんでした。お願いしたのでもないのに、どこからともなく寄付が集まり、しかも建物は次々と建ち、孤児たちは十分な食物と衣服を与えられ、2000人以上の孤児を収容するようになったのです。
 これは神の奇跡ではありませんか? 彼は、自分の物を捨てましたが、イエスさまのおっしゃるとおり「その百倍もの報いを受け」たのではないでしょうか? その百倍もの報いは、もちろん自分の財産が百倍に増えたということではありません。しかし、何よりも神さまが生きておられることを百倍も実感できたのではないでしょうか? そしてそれはすばらしい体験ではないでしょうか。
 勘違いしないでいただきたいのは、みなジョージ・ミュラーと同じことをしなさい、ということではないということです。みな財産をなげうって慈善事業をしなさいということではありません。人それぞれ、神さまのご計画は異なっています。主が持っておられる計画は、人それぞれ違っています。だから、主がわたしには何をすることを期待しておられるのか、それを悟っていくということです。そうして、主に従って行ったときに、主が生きておられることを経験していくことができるんです。


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