2021年1月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書4章34
    マタイによる福音書19章16〜26節
●説教 「神の国に入る人」
説教 小宮山剛牧師

 
   永遠の命を得るには
 
 ある人がイエスに近寄って来て尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
 きょうの聖書は、その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいかということをめぐって話が展開されています。永遠の命を得るというのは、別の言葉で言い換えれば、天の国に入るということです。天の国に入るということと、永遠の命を得るということは同じだからです。天の国は神の国であり、神が永遠の存在であるがゆえに永遠の命がそこにあるからです。
 きょうの聖書箇所を読みますと、一見、お金持ちは天の国に入れないと書かれているように見えますが、実はそんな単純なことが書かれているのではありません。私たちのキリスト信仰の核心が語られているという個所なのであります。きょうの聖書箇所を一瞥すると、「全財産を売り払って貧しい人に施し、無一物になってからイエスさまに従っていかないと永遠の命を得ることができないのか?」という疑問が生まれるでしょう。そこでまず丁寧にこの青年とイエスさまのやりとりを見たいと思います。
 
   完全を目指す青年
 
 イエスさまに質問した人は青年であったと書かれています。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」ここで一度注目したいことは、この青年は「どんな善いことをすれば」と尋ねていることです。自分が何か善いことをすれば、永遠の命を得られると考えている。その善いこととは何かと問うています。
 するとイエスさまは、その言葉について言われました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」 これは、「善いこととあなたは言うけれども、あなたは善人になろうというのか?それはありえない。なぜなら善なる存在というのは私たちの創造主である神だけだからだ」‥‥そういうことであると思います。すなわち、このイエスさまのお言葉に、人間が何か善いことをすることによって永遠の命が得られるのではないよ、ということがすでに言われているんです。
 続けてイエスさまは、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とおっしゃいました。ここでいう掟とは、神の掟のことであり、具体的には旧約聖書に記されている十戒のことです。それで青年が「どの掟ですか?」と聞き返したときに、十戒の後半部分の掟をおっしゃいました。十戒は、前半が神を愛することに関して、後半が人を愛することに関して言われているので、人を愛することについて言われたわけです。それが、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」というところです。これはユダヤ人なら誰でも知っている掟でした。
 するとこの青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えました。神の掟はみな守ってきたと答えたのです。なかなか言えない言葉だと思います。すごい自信です。つまり、この青年は、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟さえも守ってきたと答えていることになります。聖書でいう罪とは、愛のないことを言うわけですから、この青年は自分には罪がないと答えているのに等しいと言えます。もちろん新約聖書では、私たちすべての人間が罪を犯していて、罪人であると本質を突いて述べているわけですから、この青年に限って罪がないということなどできません。ですから、この青年はまだ自分の罪というものが分かっていないことになります。
 
   貧しい人々に施せ
 
 そこでイエスさまは、この青年の問題の核心を突く言葉をおっしゃいました「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 「もし完全になりたいのなら」とは、もし神の掟を完全に守るというのであれば、ということでしょう。あなたが神の掟を守ってきたというのなら、すなわち完全に隣人を愛するというのなら、全財産を売り払って貧しい人々に施しなさい。そして私に従ってきなさいと言われたのです。「あなたは、『どんな善いことをすれば永遠の命が得られるのか』と尋ねた。自分が神の掟を守るというのなら、完全に守ってみなさい」ということです。完全に隣人を愛してきたというのなら、自分の全財産を売り払って貧しい人に施すこともできるはずですね。なぜなら、聖書の言う愛、究極の愛とは、自らを犠牲にして隣人を救う愛だからです。
 するとこの青年は、悲しみながら立ち去った。おそらく、このイエスさまの言葉には、ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を受けたことでしょう。自分がそれをできないことに気がついたんです。自分は神の掟、隣人を自分のように愛しなさいという掟を守ってきたと思っていた。しかし、そうではなかったことに気がついたんです。
 言い換えれば、彼は初めて自分の罪というものに気がついたんです。自分の罪に気がつく。実はイエスさまの救いは、そこから始まる。ところが彼は、悲しみながら立ち去ってしまいました。
 
   金持ちが難しいのは
 
 そのあと弟子たちに、イエスさまはおっしゃいました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」すると弟子たちが驚いて言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」と。
 なぜ弟子たちは驚いたのか。それは金持ちというのは神さまから祝福されていると思っていたからです。みなそう思っていました。神さまが祝福したからお金持ちになったんだと。その祝福された人が天の国に入ることができないのなら、いったい誰が天の国に入れるんだろう?‥‥そう思ったんです。
 断っておきますが、ユダヤ人の金持ちというのは、強欲で良い暮らしをしているというのではないんです。「喜捨」と言って、神殿に寄進したり、貧しい人たちのために寄付をすることは、徳を積むことであり善行であるとされていました。だから彼らはこぞって喜捨をしたんです。
 前にもお話ししましたように、私がイスラエルに行ったとき、道ばたに座っている人がいました。するとガイドさんが「あれは物乞いの人だ」と言いました。それにしては、堂々としていました。ガイドさんに寄れば、「イスラエルでは物乞いの人は威張っている。なぜなら、俺は良いことをさせてやっていると思っているからだ」ということでした。‥‥つまり、物乞いの人にお金を恵むことは善いことをすることであり、善いことをする人は神さまから祝福される。だから、物乞いの人にしてみれば、自分は人々に善いことをさせてやっているのだから威張っている、ということでした。
 ユダヤのお金持ちというのは貧しい人に与えるんです。善行を積むんです。父母を養う。ところが、逆に貧しい人は持っていないから人に施しをすることができない。父母を養うことも難しい。善いことができない。そういう意味でも、お金持ちはたくさん施しをすることができるから、功徳をたくさん積んで神さまによって祝福されているんだと思われていたんです。だから天の国に入るとすれば、お金持ちこそ入ることができると思われていた。
 ところがイエスさまのお言葉は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。らくだが針の穴を通ることは絶対にできませんね。驚きの言葉でした。だから弟子たちは、「それでは、誰が救われるのだろうか?」と驚いたんです。
 
   自力と他力
 
 お金持ちが天の国に入ることが難しいのは、なぜなのか? 何が問題なのでしょうか?
 最初の青年の質問に戻って見ましょう。彼はイエスさまに尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」‥‥「どんな善いことをすれば」と、自分が何かをすることによって、天の国に入ることができ、永遠のいのちを与えられると思っています。なんでも自分の力でやって来たんですね。だから、神に頼るということをしない。いや、しないわけではないけれども、全く神に頼るほかはないということが分からない。
 イエスさまが彼に、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃったのは、もちろん意地悪を言われたのではありません。本当に彼のためになることをおっしゃったのです。全財産を施してしまえば、彼は一文無しになります。
 人間が一番神さまに頼るのは、どういうときでしょうか? 神さま抜きには生きられないと思うのはどういうときでしょうか? そして、神さまが本当に生きておられると分かるのはどういうときでしょうか? それは、私たちが生きていけるかどうかということがかかったときであると言えるでしょう。あるいは、生活をしていくことができるかどうかという時でしょう。
 私は伝道者になるために、仕事を辞めて神学校に献身したとき、親から仕送りもしてもらいましたが、それはギリギリ生活ができる程度にしてもらいました。なぜなら、主が私を伝道者にするためにお召しになったのだから、主がすべて必要な助けを与えてくれると信じることにしたからです。そうして上京して東神大に入りました。それは私にとって、幸いなことでした。なぜなら、本当に主が必要な助けを与えてくださるのを経験することができたからです。ギリギリではありましたが、本当に借金をすることなく、主がいつも必要な時に助けを与えてくださり、生きていけるようにしてくださることを経験しました。持てる物がないからこそ、主に頼るしかない。そういう状況だったから、主を求め、主に依り頼みました。
 この金持ちの青年は、自分の物をいったんすべてなくしてみて、分かることがあるはずなんです。主なる神さまに頼らざるを得ない状況に自らを追い込んでみる。そうして主イエスさまに従っていったとき、自分に頼ることなどできず、ただ主に頼り、寄りすがって生きる人生のあることが見えてくる。そのとき、あなたは主を賛美し、感謝せざるを得ないことが分かるだろう。‥‥そのように、実はイエスさまは暖かい言葉を彼にかけられたのです。
 きょうの聖書箇所の前の個所は、おさなごが連れられてきたという個所でした。そこではイエスさまは、おさなごを呼び寄せて言われました。「天の国はこのような者たちのものである」。そして今日の箇所は、「金持ちが天の国に入るのは難しい」と、この二つは対極をなしています。
 おさなごは何も持たないし、何も善いことと積み上げてきたわけでもありません。むしろ何も人のためにすることができない。しかし、おさなごは自分が親を頼らなくては生きていけないことを知っています。自分が無力であることを本能的に知っています。そして主を信じることを、そしてキリストを信じることを教えれば素直に受け入れます。悪いことを指摘すれば、すなおに謝ります。
 
   神は何でもできる
 
 「それでは誰が救われるのだろうか」と弟子たちは言いました。それに対してイエスさまはおっしゃいました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。このお言葉は、私たちに対して語られている言葉です。
 考えてみれば、私たちも救われるはずのない者です。天の国に入れられて永遠の命を与えていただく資格のない者です。私たちが何か善いことをしたから永遠の命を与えていただけるほど、私たちの罪は小さくないんです。何か善いことをしたぐらいでは、私たちは天の国に入れていただけないんです。到底足りないんです。その点では、この金持ちの青年も、私たちも同じなんです。
 では私たちは、どうにも天の国に入れていただくことができないかというと、そうではない。私たちは自分の力や功績によって入ることはできないけれども、「神には何でもできる」。主はそのように言われます。私たちは自分の力では永遠の命を得ることはできないけれども、神はそれを与えることがおできになる。この資格のない私たちにお与えになることができる。
 この言葉を語られたイエスさまが、十字架へと歩んで行かれるのです。十字架。それによって、本来救われることができないはずの私たちが救われる。救ってくださる。その主イエス・キリストを信じ、寄りすがっていくのです。


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