2020年12月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編131編2節
    マタイによる福音書19章13〜15節
●説教 「キリストのおさなご」

 
 「神武以来の天才」と言われた、将棋の棋士である加藤一二三9段。彼はプロ棋士を引退されましたが、引退されたあとも「ひふみん」の愛称で親しまれ、テレビのバラエティ番組等に出演され、親しまれていることは、みなさんもよくご存じの通りです。その加藤一二三さんは、カトリックのクリスチャンで、このたび当教団出版局から『だから私は、神を信じる』という本を出版されました。その中に、書かれていたことをご紹介したいと思います。
 そこで加藤さんは、二つの言葉を上げておられます。それは、「神の計らいは限りなく、生涯私はそのなかにいきる」(『典礼聖歌』52番)と、「わたしを包むあなたの英知は神秘に満ち、あまりに深く、及びもつかない」(詩編139編6節)です。そして加藤さんは、次のように書いておられます。
‥‥どちらの言葉も、人間を超えた神さまによるご計画のうちに私たち人間が生かされていることを表しています。「あまりに深く及びもつかない」とあるように、神さまの御旨というのは、私たちには計り知れないものです。私たちには、自分が予期しないような出来事が多く起こります。そのときには悲しく困難なことにしか思えなくても、少し時がたってから振り返ってみれば「あの出来事にはこうした意味があったのだ」とわかることもあります。そのように、私たちの目には不幸にしか見えないものであっても、神さまの目から見れば他の意味をもっている場合もあるということを、先にあげた二つの言葉は示しています。神さまの計らいは人の思いや理解を超えているのでなかなかわかりません。しかしそれでも、神さまがご自分がお造りになった人間を大変気遣い、善き業を行ってくださっていることを信じ、日々起こる出来事を通して神さまが自分に何を伝え、教えていらっしやるのかを考えてゆくことが大切であると感じます。‥‥
 今年も間もなく終わろうとしています。いうまでもなく、今年は新型コロナウイルスで翻弄された年となりました。「神さまがいるのなら、なぜこのような事態が起こったのか?」と不審に思う人々も、世の中にはいらっしゃることと思います。しかしただ今の加藤一二三さんの言葉のように、「そのときには悲しく困難なことにしか思えなくても、少し時がたってから振り返ってみれば『あの出来事にはこうした意味があったのだ』とわかることも」ある。信仰の尊さは、そういうところにもあると思います。
 
   再び子供について語られるイエスさま
 
 さて、本日の聖書箇所で、イエスさまが子供を祝福するということをなさっています。そしてイエスさまが、子どもたちについておっしゃっておられます。「天の国はこのような者たちのものである」
 同じようなことが前にもあったことを思い出された方もいるでしょう。それは少し前の、18章の最初のところにありました。そこでは弟子たちがイエスさまに、「いったい誰が天の国で一番偉いのでしょうか?」と尋ねました。するとイエスさまが、一人の子供を呼び寄せて言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 そのような出来事がありました。そして、ここでまた子供のことを高く評価しておっしゃっている。こうしてみると、非常に子供のことを強調しているように読めます。
 そこで、もう少しカメラをズームアウト、つまり焦点を引いて見てみますと、このマタイによる福音書19章から、イエスさまは、それまでのイスラエル北部のガリラヤをあとにして、首都のエルサレムに向かって歩んでおられます。そして今日の箇所の前の聖書個所では、ファリサイ派の人々が離婚についてイエスさまの見解を尋ねたというできごとがありました。そこでは結婚に関して言われていました。
 そして今日の箇所が子供について。さらに次の個所では、ある青年が登場します。そのように、結婚し、子どもが生まれ、その子供が青年になって、さらに次の20章では労働者になっています。そのように、人生に重なって話が進められているように見えます。たいへん興味深いことです。そのような中で、今日は子供のことをめぐって語られているわけです。
 
   天の国は
 
 内容を見てみますと、「イエスさまに手を置いていただくために、人々が子供たちを連れて来た」と書かれています。その当時、有名な先生によって子供に手を置いてもらって神の祝福をいただくということがよくあったそうです。イエスさまも名前が知れ渡っていました。そのイエスさまが来られたと知って、親たちが子供を連れてイエスさまに祝福してもらおうとしたのでしょう。ところが、弟子たちがこの親たちを叱ったというのです。
 どうしてイエスさまの弟子たちは、子供を連れて来た親を叱ったのか?‥‥「今はそんなことをしている時ではない」ということか、あるいは「子供がうるさくて話しが聞こえないから、連れて来るな」ということでしょうか。詳しくは分かりませんが、とにかく弟子たちはイエスさまのためを考えて、親たちを叱ったのでしょう。
 ところが、イエスさまは、親たちを叱った弟子たちをお叱りになったのです。そしてこうおっしゃいました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
 この言葉ですが、これは原文から「なぜならば」という言葉が省略されています。それを補うとこうなります。=「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。なぜならば、天の国はこのような者たちのものである。」すなわち、「天の国は、これらの子供たちのような者の国だからだから、子供たちが来るのを妨げてはならない」とおっしゃるのです。天の国というのは、イエスさまが宣べ伝えておられる神の世界、もっと言えば神さまのことですね。つまり、「神さまの世界、神さまは、この子供たちのような者のものである」ということになります。神の国は、この子供たちのような者の国、神さまは、この子供たちのような者のもの‥‥。なのに、その子供たちを締め出したら、それはもはや神の国とは言えないのだ、ということです。イエスさまが宣べ伝えておられる天の国ではなくなってしまうのだ、ということです。
 
   子供を連れてきた親たち
 
 前回の18章の最初でも、イエスさまは「この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」とおっしゃったわけですが、そのときと今回の個所との違いはなんでしょうか?‥‥18章の時は、イエスさまが子供を呼び寄せておっしゃいました。今回は、大人が、おそらく親たちが子供を連れて来ました。そこが違っています。
 先週のクリスマスイブ礼拝、新型コロナウイルス対策で3回に分けて行いました。コロナのためにほぼすべての行事を中止せざるをえなかった今年度ですが、キリスト教会の原点の礼拝と言うべきクリスマスイブ礼拝は、何としても行いたいと思って準備してきました。そして、いわゆる濃厚接触者が出ないようにするために、最新の注意を払い、対策を考えてきました。そのために役員を中心に、多くの働きをしていただくこととなりました。例年よりも多くの人が来るのか、それとも外出を控えて少ないのか‥‥それすらも予想が立ちませんでした。しかし結果として、本当に主はすべてを守ってくださいました。そして神の御心のままに、礼拝に人々を招いてくださったと信じることができました。
 そのイブ礼拝の、第1礼拝と第2礼拝に、教会の礼拝は初めてという幼い子供連れのお母さんが来られました。第1礼拝の時は、途中でそのお子さんが泣き出されました。しかもなかなか泣き止みません。お母さんもずいぶん困られたと思います。私は、今日のイエスさまのお言葉を思い出しました。「天の国はこのような者たちのものである」。それで、「イエスさまがお生まれになったときも、産声を上げて泣かれただろうなあ」と思い、「イエスさまが泣いておられる」と思うことができました。
 第2礼拝でも、初めて来られたお母さんが、案内されて、ベビーカーにお子さんを乗せて、最前列の席に座られました。すると途中でそのお子さんが、ぐずり始められました。やっぱりお母さんは困られたでしょう。初めて教会へ来るということは、勇気のいることだと思います。そのように勇気を出してきたのに、しかも最前列の席で子供がぐずる。説教中に、その子は、この講壇のところにまで来ました。次は上がってくるんじゃないかと思いました。上がってきたらどうしましょう。クリスマスイブ礼拝の最中です。私は「抱っこしてあげよう。そして抱っこしながら説教してみよう」と心の中で思いました。抱っこしたら、余計大泣きするかもしれないわけでけれども。
 今日の聖書で起こった出来事は、いわばそういうことです。だから弟子たちは、親たちを叱ったんでしょう。しかしイエスさまはおっしゃいました。「子供たちを来させなさい。わたしの所に来るのを妨げてはならない。なぜなら、天の国はこのような者たちのものであるからだ」と。
 
   素直に連れてこられた子供のごとく
 
 「このような者たちのもの」とおっしゃいます。前にも申し上げたように、子供たちは素直ですね。おとなは「教会に行きましょう」と言っても、「遠慮します」とか「またの機会に」とやんわり断る人が多いわけですが、子供は親が行くと言えば一緒に行きます。今日のところでは、子供は連れられてきただけです。
 おとなはなぜすなおにイエスさまを信じることができないのか。子供の時は素直だったのに。‥‥それは成長して、この罪にまみれた人間社会の中で生きて行くうちに、素直に信じては危ないということを経験して学んで行くからですね。ウソをつかれる、だまされる、意地悪をされる、盗まれる、本音と建て前の違いがあることを知っていく‥‥。テレビで流れるニュースも、オレオレ詐欺や犯罪のニュース。‥‥そういう中で育ってきた私たちは、うかつに人を信じては行けないということを自然に学んで生きてきたわけです。世の中素直に信じたら危ないということを学んできたんです。
 そのように、何もかも信じられないような世の中です。しかし、ここに一つ、全面的に信頼して良いものがある。それがイエスさまによる天の国。つまり、イエスさまという方です。その方は、素直に信じて良い方である。なぜなら、私たちを愛してくださっているからです。その愛のしるしが十字架です。命を捨ててくださるということよりも大きな愛はありません。
 とは言っても、長年この罪の世の中を生きてきたおとなは、なかなか来ようとしない。けれども、幼子は別です。素直に、ただ親にくっついて来ている。そこには何の疑問もない。ここに神の国に生きる者の姿があると言われるのです。私たちは幼子がイエスさまのところに連れられて祝福を受けるのを見て、私たちもそのようにイエスさまを信頼して良いのだということを教えられるんです。
 
   子供のようになって主を礼拝
 
 最初に、「ひふみん」こと加藤一二三さんのことをご紹介しましたが、もう一つその本からご紹介したいと思います。
 加藤さんが祈りについて体験したことを、本の中で述べておられます。洗礼を受けてから2年後の1972年10月、米長邦雄さんとの対局を控えていたときのことだそうです。祈ったほうがいいな、とふと思って、教会に足を運んで3時間ほど祈ったそうです。洗礼を受けてから、対局前に祈ったのはそれが初めてだったそうです。そして対局を迎えると、それまで感じたことがないような充実感が湧き上がってくるのを覚えたそうです。そうした意気軒昂な気持ちでさえた将棋が指せたのはそれが初めてだった。それで、それ以来、対局前には祈りをささげるようになったそうです。
 また1979年に行われた王将戦のことも書いておられます。対局前日、教会でミサにあずかってから、対局がある大阪に向かいました。難しい将棋となりましたが、対局一日目のお昼休みに、近くのカトリック教会で祈ることによって「4五歩」という手を決断することができた。それは普通はなかなかさせないような手であったそうです。
 そうした体験により、神さまは祈りを通して恵みを具体的に示され、祈りによって自分の持っている以上の力が発揮されるということを実感したと書いておられます。また、たしかにそれらの対局に勝ったけれども、それよりも、祈りによって神さまの恵みや助けがもたらされ、後世に残るような名勝負を指せたことこそが喜びなのです、と書いておられます。加藤さんは、「将棋に勝たせてください」と祈ったことはないそうです。ただ「良い将棋を指せますように」と祈るんだそうです。
 私は加藤一二三さんの本を読んでいて、そこに幼子のような信仰を見ることができました。そしてそれをイエスさまが喜んで受け入れてくださったのを感じました。
 私たちも、良い歩みができますようにと、子供のようになって主を礼拝する者でありたいと思います。


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