2020年12月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第3主日
●聖書 箴言20章24節
    マタイによる福音書19章1〜12節
●説教 「背後の神を見る」

 
   エルサレムへ向かうイエス
 
 本日の聖書箇所は、1節「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」という記述で始まっています。
 これまでイエスさまは、イスラエル北部のガリラヤ地方で活動されてきました。しかしここから南のユダヤ地方に進んで行かれたというのです。そしてこの旅の目的地は、エルサレムの都でした。そしてそこでイエスさまは十字架につけられることになります。そのように、この旅はイエスさまの最後の旅であり、十字架への旅と言ってもよいでしょう。しかしそのことを弟子たちはまだ分かっていません。しかし実は、そういう緊迫した旅ということになります。
 おおぜいの群衆がイエスさまに従っていったと書かれています。イエスさまに救いを求める人々、またイエスさまのお話しをもっと聞きたいという人々、とにかくイエスさまのおそばにいたいという人々‥‥そういう人々が大勢いたようです。貧しい人が多い時代です。仕事を中断して出かける、家を空けてついていく。蓄えなどあまりない人がほとんどでしょうから、生活がたいへんな中でイエスさまに従っていったでしょう。お互いに助け合いながら、エルサレムに向かっていくイエスさまに従っていったのです。そして十字架を目撃することとなります。
 そういう時に、きょうの聖書に記されている出来事があった。きょうの聖書を読みますと、何か結婚と離婚についてのお話しをされているように見えます。もちろん表面的にはそうなんですが、その元となっているところまで見なければなりません。つまり、神さまが私たちひとりひとりをちゃんと見て、御心を教え、導いてくださることです。
 
   ファリサイ派の試み
 
 3節で、ファリサイ派の人々がイエスさまのところに近寄ってきて、イエスさまを試そうとして尋ねたことが書かれています。人が近寄ってくる理由には、好意を持って近づいてくる場合、反対に悪をもって近づいてくる場合、あるいは仕事で、または単に尋ねたいことがあるからなどがあるでしょう。今日の場合は一見、単にイエスさまに尋ねたいことがあって近づいてきたように見えますが、聖書は「イエスを試そうとして」近づいてきたと書いていますから、どうやらこれは悪意を持って近寄ってきたようです。
 そもそもファリサイ派の人々は、イエスさまを亡き者にしようとして策略をめぐらしていたということが前にも書かれていました。それは、イエスさまが安息日の律法などについて、ファリサイ派の人々と違うことを主張したからということがありましたし、またイエスさまが民衆の支持を拡大していることに対して、ファリサイ派の人々がねたましく思っていたということもありました。きょうのところも、魂胆があってイエスさまに質問をしたということになります。
 そして彼らが質問したのは、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」ということでした。このような質問を彼らがしたのは、旧約聖書の律法、つまり神の掟に次のように書かれているからです。
(申命記 24:1)"人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。"
 問題はこの「恥ずべきこと」とは何であるのか、ということでした。その律法の解釈をめぐって、律法の研究家であり宗教指導者でもあるファリサイ派の中にも見解の違いがあり、論争があったようです。しかしとにかく、夫は妻が気に入らなくなれば、離縁状というものを書いて渡せば、自由に離縁できる。そのように考えていた人は多かったようです。夫のほうが自由に離縁できることになりますね。当時は女性が一人で生きて行くには、たいへん厳しい時代でした。聖書を読むと「やもめ」という言葉が結構出てきます。やもめというのは未亡人です。そしてやもめは、貧しい人の代名詞です。女性が一人で生きて行くには、仕事もろくにないし、たいへんであったことが忍ばれます。そのように、夫が気に入らなくなったといって離縁された女性は、たいへん貧しい、きびしい環境に置かれることとなったんです。
 
   イエスの答え
 
 さて、イエスさまはなんとお答えになるのか。周りにいたおおぜいの人々は、イエスさまの答えを聞こうとして耳を傾けたことでしょう。するとイエスさまの言葉は、結婚とは何かということを、天地創造の始めにさかのぼって説いたものでした。それは聖書の一番はじめの書物、創世記の最初のほうに書かれていることです。創造主である神は、最初から人を男と女に造られたと。
 そして、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」これは創世記の2章25節の言葉です。ファリサイ派も重んじているその聖書に書かれていることです。神の御心です。結婚によってその夫婦は一つとなると。そしてイエスさまは続けて、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とおっしゃいました。神が二人を結び合わせたと。
 それを聞いたファリサイ派の人々は、自分たちが思っても見なかった答えだったのでしょう、あわてるようにして「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか?」と尋ねました。
 そうするとイエスさまは、さらに意外なことをおっしゃったんです。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」‥‥これはみなさん、ちょっとビックリするようなお言葉なんじゃないでしょうか。この「モーセは」というのは、「律法は」ということと同じです。旧約聖書の律法は、あなた方の心が頑固なので、つまりあまりにも不信仰なので、ゆずっている、譲歩しているんだと。そういわれるんです。律法が譲っているなんて、これは意外と思われますが、考えてみると、神さまは人間が罪人であることをご存じな分けですから、いきなりハードルをあげるのではなく、少しずつ神の御心に導かれるということに違いありません。しかし、本当のことをいえば、イエスさまがおっしゃるとおりだということです。こんなことは人間には言うことができません。こういうことを言えるイエスさまが何者であられるのか、よく分かってきます。
 
   神の導き
 
 今度は、そのファリサイ派とのやりとりを聞いていたイエスさまの弟子たちが言いました。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(10節)。‥‥「そんなことなら、結婚しないほうがマシだ」と、弟子たちでさえも言ったんです。このことは、いかに当時の夫が妻を自分の所有物のように扱っていたかを明らかにしています。気に入らなくなったら離縁できる。しかしそうではないのなら、結婚しないほうがマシだと。人々の多くはそう考えたんです。
 それらは人間の都合です。人間の考え方です。しかしイエスさまの言われることは、神さまに中心があります。「神が結び合わせて下さった」と。そこからおっしゃっている。神が結び合わせて下さったんだから、気に入らなくなったとしても、何かそこに神のご計画があるはずだということにもなります。腹が立つことがあっても、そこに何か神の御心があるはずだと考えることにもなります。自分の自由になることばかりが良いことなのではない、ということも分かってきます。
 人間、何でも自分の思い通りになったとしたら、それはどうしようもなくわがままな人間になってしまうでしょう。やはり神など信じなくなるでしょう。しかし、「神が結び合わせて下さった」と信じることができるならば、そこに神の恵みを見出そうとするはずです。二人を結びつけて下さった神さまのほうを向かなければならなくなります。
 
 クリスチャンの結婚式しかしないという牧師もいますが、私はクリスチャンではない方の結婚式もいたします。その場合は条件をつけますが。なぜクリスチャンではない方の結婚式も引き受けるかというと、それは昔、地方の教会にいたときに思ったからです。その町にはいわゆる結婚式業者の運営する結婚式場というものがありませんでした。ですから教会が結婚式を断ったら、神社で結婚式をすることになってしまいます。せっかく主の前で結婚したいと思ったカップルを、わざわざ追いやってしまう。それは伝道者として納得できません。
 それで、結婚式を希望する方には、礼拝出席と、結婚準備講座という勉強会に出席していただきます。それが条件です。そしてお二人に、時々尋ねるんですね。「本当にこの人で良いんだね?」と。そうすると、最初は二人とも顔を見合わせるようにして笑って、「もちろんいいです」と答えているんですが、そのうちだんだん心配になってきたりします。「本当にこの人で良いんだね?」という私の問いに対して、やはり「本当に」と言われると、ちょっと不安になったりする。なぜなら、「本当に」良いのか、本当にこの人と結婚したら間違いがないのかなどということは、「本当に」と繰り返して聞かれると、分からなくなってしまうところが人間にはあるんです。本当にそうかどうかは、神さまにしか分からないことだからです。
 だから、クリスチャンではない方であっても、「本当に」この人で良いのかどうか、やはり神さまに助けを求めてすがる思いになっていく。だから結婚式希望者には礼拝に出席してもらうんです。神さまに聞き、神さまに頼るようになるために。
 
   神の御心を求める
 
 11節12節では、独身でいる者について述べられています。12節で「結婚できないように生まれついた者」と書かれていますが、これはこの聖書の日本語の訳がまずいですね。正しくは「独身者に生まれついた者」です。昔は、結婚しないと一人前とは見なされなかった。しかしそれは人間社会の見方です。結婚しないとならないんじゃない。また「天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。「天の国のために」とは、神さまのご用にあたるため、ということです。使徒パウロがそうでした。いっぽう、同じ使徒でも、ペトロは結婚していました。どちらが良いとか悪いとかいうのではありません。そこに、一人一人に対する神さまの導きがあるということです。それを信じることができれば、幸いです。
 最初に、今日は結婚と離婚の話しをなさっているようで、実はもっと根本のところをお話しになっていると申し上げました。つまり、私たちの人生に神の導きを見ることであり、人間の考えばかりではなく、主なる神さまの御心を知るということです。
 
 月刊誌『信徒の友』9月号に、「創業者の信仰」という特集が組まれていました。その中で、クリーニングの白洋舍の創業者である五十嵐健治さんのことが書かれていました。五十嵐健治氏は、1877年(明治10年)に生まれ、幼くして両親を失い、北海道でたこ部屋に入れられて劣悪な環境で働かされるなどたいへんな苦労をしましたが、逃げていった小樽の宿屋で世話になり、そこでクリスチャンと出会い、信仰に導かれて洗礼を受けます。やがて上京して、東京の洗濯店(クリーニング店)で働くようになります。その後三井呉服店(今の三越)に入社して結婚しましたが、「私の信じるイエス・キリストが伝道を開始された30歳に合わせて自分も伝道しながら何か仕事がしたい」という願いを持ち、三越を退社しました。そして「日曜日の礼拝及び伝道の妨げにならないもの、三越の営業と抵触しないもの、ウソや駆け引きの要らないもの、人の利益となり害を及ぼさないもの」などの条件を定め、祈り求めた結果、洗濯業が与えられたそうです。当時洗濯業は、「洗濯屋 近所の垢で 飯を食い」と揶揄されるほど軽蔑されていて、一生の仕事として選ぶのは恥ずかしいという思いがあったそうです。しかし、ある夜祈っていて気がついたそうです。「イエス・キリストは神の独り子であられるのに、人の垢どころではなく、人間のけがれに満ちた罪を洗い清めて下さった。しかも十字架にかけられて、その真っ赤な血潮で、罪を洗い清めて下さった。とすればこの罪人の五十嵐健治が、人々の垢を落とす仕事をさせていただくのは、光栄の至りではないか」と。このことによって、自分の気位の高さが打ち砕かれたそうです。そして五十嵐は日本橋に古い家を借りて洗濯業を始めました。そしてその後、日本初のドライクリーニングを開発するに至ります。
 
 私たちは、ついつい人間の考えでものごとを推し測り、行動いたします。しかし、神はどのように考えておられるのか。神は私をどのように導かれようとしているのか。そのことを祈り求めるものでありたいと思います。そこに私たちに対する神のご計画を見ることができれば幸いです。
 十字架の待つエルサレムに向かって行かれるイエスさま。それは神のご計画を悟られ、私たちを救うために向かって行かれた。来週はクリスマスです。このことを覚えつつ、クリスマスを迎えたいと思います。


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