2020年12月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編79編9節
    マタイによる福音書18章21〜35節
●説教 「恩返しの恵み」
説教 小宮山剛牧師

 
   贖うために
 
 クリスマスを待つアドベントの時を過ごしております。先ほどご一緒に歌いました『讃美歌21』の229番。1節の歌詞にこうありました。「いま来たりませ、救いの主イエス、この世の罪を、あがなうために」と。「贖(あがな)う」というのはクリスチャンにとってはイエスさまの救いをあらわす言葉としてすぐ分かりますが、世間の方々にはちょっと分かりにくい言葉かもしれません。それで「贖う」という意味は何かと聞かれたら、「身代わりになる」という意味だといえば分かりやすいと思います。イエスさまが、私たちを救うために身代わりとなって十字架にかかって命を捨ててくださるということです。
 そうしますと、このアドベントの時は、「私たちの身代わりとなって死んでくださるイエスさま、来てください」ということになります。何か自分たちが救われるために、イエスさまに身代わりになってもらうというのは、私たちの身勝手のように思えてきます。しかしそうでなければ救われないのが私たちでありまして、そのために来てくださったイエスさまは、まことに尊い方だと言わなければならないでしょう。このキャンドルの灯を見つつ、そんなことを思いたいものです。
 
   七の七十倍
 
 さて、18章に入りましてから、弟子たちに向かってのイエスさまのお話しが続いているわけですが、きょうのところでは、そのイエスさまのお話しを聞いていた弟子のペトロが質問をいたします。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 この場合の「罪」というのは、過ちということです。また「兄弟」というのは、教会の兄弟姉妹ということになります。しかし、今日のお話から言って、この「兄弟」という言葉を、必ずしも教会の兄弟姉妹だけに限定しなくてよいでしょう。なぜなら私たちが先ほど唱和いたしました「主の祈り」でも「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」とありましたように、その場合は、私たちの隣人すべてを指しているからです。
 ですからこのペトロの質問は、だれかが自分に対して犯したあやまちを何度まで赦すべきなんでしょうか、と尋ねていると考えるべきでしょう。そしてペトロは「七回までですか?」と尋ねたわけです。
 7回まで赦すというのは相当なものだと言えるでしょう。ふつうは「仏の顔も三度まで」と言います。3回まで赦すというのもそうとうなものだと思います。失礼なことをされたり、あるいはひどいことをされたら、一度だって赦せないと思うのが人間です。そして倍返ししたい、と思うのがふつうです。それを3度まで、そしてペトロは7度までと言っているんですから、これは人間として最大限の赦しであり、寛容な態度だと言えるでしょう。もしかしたらペトロは「7回まで」と言えばイエスさまにほめてもらえると思ったのかもしれません。
 ところが、それに対するイエスさまのお答えは、驚くべきものでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」‥‥これは驚きを通り越して、絶句です。これはもう何回でも無限に赦しなさいと言っておられるわけです。いくらなんでもそんなことは人間には不可能です。
 
   天の国のたとえ
 
 そこでイエスさまは、あるたとえ話をなさいました。「天の国は次のようにたとえられる」と。「天の国」とは神さまの世界ですから、これは神さまとはこういうお方であるということを、たとえ話によってお話しになっているんです。
 このたとえ話で、まず「ある王」が登場します。その王が家来に貸したままになっている借金の整理をし始めた。そしてその家来は、1万タラントンを主君である王から借りたままになっていたというわけです。
 ちなみにこの1万タラントンというのはどういう金額かと言いますと、聖書の後ろのほうのページにある度量衡の表を見ますと、まず1タラントンは6000ドラクメに相当すると書かれています。では1ドラクメとはいくらかと調べますと、デナリオンと同じ価値だと書かれている。では1デナリオンとはいくらかと見ますと、1日の賃金にあたると書かれています。1日の賃金が、現在ではいくらに相当するか、当時とは経済構造も違うし難しいところがありますが、分かりやすく1万円だといたしましょう。そうすると、1タラントンはその6000倍ですから、6千万円ということになります。ということは、1万タラントンの借金とは6千億円の借金ということになります。
 ビックリですね。とてつもない大金です。当時のガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスの税収が200タラントンであったといいますから、それは120億円になります。それよりもはるかに多い。「いったいどうしてそんな大金を借りたのか?」と不審に思われる。そんな大金を王様から借りるなんて非現実的な話しです。ありえません。おかしいです。
 しかし、イエスさまのたとえ話には、ありえないようなおかしな点が出てくるんです。実はそこに神の恵みが隠されているんです。
 返せといわれても返せない。それで王は家来に、自分も妻子も奴隷として身売りして、また持ち物をすべて売って返せと言った。もちろんそれでも返せない額です。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。返せるわけもないのに、ひれ伏してお願いした。
 
   赦されたのに赦さない
 
 すると主君は、「憐れに思って」彼を赦して借金を帳消しにしてやったというんです。予想もしない展開です。こんなことってあるのか?‥‥ありえません。これもありえない話しです。なぜ主君がそのとてつもなく大きな負債を棒引きにしてやったかと言えば、「憐れに思って」だというんです。他に理由がない。ありえません。
 借金を帳消しにしてもらう理由も資格もないのに、帳消しにしてもらった。その憐れみ、この主人の憐れみが、ありえないほど大きいということを非常に強調しています。こうしてこの家来はありえないほどの借金を、ありえない仕方で赦された。
 ところがです。この家来は、自分に500デナリオンの借金をしている仲間を、ゆるさず、牢に入れたと言うんです。それを耳にした主君は、彼を呼びつけ「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言って、この家来を牢に入れた。借金の帳消しを撤回したわけです。
 このようなたとえ話をイエスさまがお話しになった。そしてイエスさまが最後におっしゃっています。‥‥「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 ここでイエスさまは、「あなたがた」とおっしゃっています。「あなたがた」とは、この時聞いている弟子たちであり、今みことばを聞いている私たちのことです。すなわち、今のたとえ話は、私たちに向けて語られているんです。
 
   神の赦しと恩返し
 
 すなわち、この主君である王は神さまであり、家来は私たち一人一人のことであるということがわかります。そして借金は、罪のことであることが分かります。罪が借金にたとえられていたんです。そしてこの家来が、主君から1万タラントン、約6千億円のとてつもない額の借金をしていたように、私たちもとてつもない罪を犯してきたのだと。それはもう私たちの想像を超えて大きな罪、数多くの罪を犯してきたし、そういう罪・悪が私たちの中にあるんだということです。まずそのことに気づけ!‥‥と、主がおっしゃっているんだと思います。
 私たちは、そんなにも大きな罪が、悪が、自分の中にあるということがなかなか分からない。「私は悪いことなど何もしていない」と思う。しかし実は、とてつもなく大きな罪・悪が私たち一人一人の中にある。わたしたちにはそれがなかなか分からない。そしてその罪は、何か私たちが良いことをしたぐらいでは帳消しにならないんです。それぐらい大きい。大きすぎるんです。私たちの力では返すことができない。
 ところが、この主君は家来を「憐れに思って」赦してくれた。これもありえないほどの赦しですね。何の理由もない。ただ憐れに思って、と。‥‥実はこの背後には、イエスさまの十字架が隠れています。これからイエスさまがおかかりになる十字架が、神の憐れみなんです。イエスさまが身代わりになってくださった。そして帳消しにしてくださったということ。それが隠れている。神の憐れみのすごさです。大きさです。それがこのようにありえないほどの出来事であることをみごとに描いています。
 いわば、私たちはそれほどの恩を被っているんです。その莫大な恩をイエスさまによって被っているのなら、あなたも他人の過ちを赦すことができるはずではないか、と。神の赦しの恩は、隣人に対して返しなさいと言われているんです。
 
   コーリー・テン・ブーム
 
 オランダにコーリー・テン・ブームという女性の伝道者がいました。第2次世界大戦の時、ブーム先生と家族は、ユダヤ人をかくまったという理由で、ドイツの強制収容所に入れられてしまいました。その収容所で、彼女の両親と姉妹は、残忍な拷問に絶えきれずにみな死んでしまったそうです。しかし奇跡的に助かったブーム先生は、戦争が終わってオランダに帰り、残りの人生を主にささげて、キリストの伝道者となったそうです。
 そのうちブーム先生は、ドイツに行ってキリストの福音を述べ伝えるように神さまによって導かれました。彼女は、自分たち家族をひどい目にあわせたドイツにだけは行きたくなかったそうですが、神さまの命令に逆らうことはできないので、仕方なく出かけたそうです。そして彼女は、敗戦後のドイツの人々にキリストのゆるしの福音を説教しました。
 敗戦後の混乱の中で病んでいたドイツ人たちは、ブーム先生の話を聞いてとても喜び、神さまに感謝をしたそうです。先生がメッセージを終えて、講壇から降りると、人々は列をなして先生のところにやって来て握手をし、あいさつを交わしたそうです。しばらくの間握手をしていたブーム先生は、彼女の前に手を差し出して立っているひとりの男性を見て、その場に立ちすくんでしまったそうです。そして心臓が止まりそうになりました。なぜなら、その男こそ、あの強制収容所で、ブーム先生を裸にして拷問した、まさにその兵士だったからです。
 彼はそのことに全く気がついていませんでした。そして他の人々と同じように手を差し出していたのでしたが、ブーム先生は当時のことを悪夢のように思い出し、とうてい手を差し伸べて握手をすることができなかったのです。その男が手を差し出しているのは短い時間でしたが、ブーム先生にはそれが何十年ものように思われたのでした。彼女は、説教をするときには、大胆にキリストのゆるしを伝えましたが、彼女の家庭と青春を踏みにじったこの男を、どうしても赦すことができませんでした。そこでブーム先生は、次のように神さまに祈ったそうです。「イエスさま、私はどうしてもこの兵士をゆるすことができないのです。どうか私を助けてください」。
 その時、主の言葉が与えられたそうです。「私が、私を殺そうとしていた人たちを赦してあげたことを、あなたは知っているでしょう。早く手を差し出して、握手をしなさい。」 ‥‥たしかにイエスさまは、十字架にかけられた時、ご自分を十字架にかけた人々のために父なる神さまに祈りましたね。「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
 主の言葉を聞いた彼女は、鉄の魂のように重い手を差し伸べ、その人と握手をしました。まさにその瞬間、天からキリストの愛が注がれて、その愛が全身を覆い、彼女は涙を流しながら、本当にその兵士を赦してあげることができました。そして彼女の体は、10年以上も若返ったように感じられたそうです。キリストの祝福が来たのでした。
 
 イエスさまが山上の説教で、主の祈りを教えてくださった時のことを思い出しましょう。‥‥「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14〜15)
 私たちは、イエスさまによっていかに大きな罪・過ち・悪を赦していただいたかを知ったのなら、隣人の罪も赦さずにはおれなくなるということもでもあります。それは隣人が悔い改めるために赦すのです。そして赦した者に主が祝福と平安を与えてくださるということです。


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