2020年11月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント1
●聖書 出エジプト記3章14節
    マタイによる福音書18章18〜20節
●説教 「ここにいるキリスト」

 
   久しく待ちにし
 
 先ほど歌いました讃美歌94番(1954年版)。これは『讃美歌21』にも同じ曲があるんですが、どうもそちらは歌いにくいので昔の讃美歌のメロディーのほうで歌いました。これは、たいへん古い讃美歌です。メロディーは12世紀のものであり、歌詞のほうは9世紀と言いますから、今から千年以上も前のものです。内容は見てお分かりのとおり、キリストの来臨を待つ歌詞となっています。古くからキリスト降誕を待つこの季節が覚えられていたことが分かります。
 そういうことで、今日から教会はアドベント、主の御降誕を待望する時となりました。それはまた教会の一年の始まりでもあります。時は、新型コロナウイルスが再び感染を拡大しているという状況。よりいっそう、キリストの救いを待望する心をもって過ごしたいと思います。
 
   どんな願い事であれ
 
 きょうの聖書箇所を読んでいて、多くの人が注目し、印象に残る言葉は19節の言葉ではないでしょうか。
"また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。"
 「どんな願いことであれ」とイエスさまはおっしゃっています。それをかなえて下さるという。これは、たいへん励まされる言葉です。「はっきり言っておくが」と言われています。この元の言葉であるギリシャ語を直訳すると「アーメン、私はあなたがたに言う」となります。「アーメン」であると、イエスさまは言っておられるんです。アーメンとは、まことにという意味です。それほど力強い約束の言葉となっているのです。
 そうするとわたしたちには疑問が生じてくるのではないでしょうか。‥‥イエスさまはそのようにおっしゃるけれども、本当に「どんな願い事でも」かなえてくださるのだろうか? たしかに祈りが聞かれたこともあった。しかしむしろそうではないことのほうが多いのではないか?‥‥そのように思われるのではないでしょうか。わたしたちの願いに反して、わたしたちが望んでいなかったことが起きる。そういうことがしばしばあるのではないだろうか? そのように思われないでしょうか。
 
   心を一つにして求めるなら
 
 そこでもう一度きょうの聖書箇所を見てみます。わたしたちは、「天の父はそれをかなえてくださる」という言葉にどうしても注目してしまうわけですが、むしろその言葉の前にイエスさまがおっしゃっているんですね。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」と。それが前提、条件となっているんです。
 そこで「心を一つにする」という言葉に注目してみます。これは、ギリシャ語では「シュンフォーノー」という動詞です。これは「シュンフォノス」という言葉から来ていて、「音が調和して共に鳴ること」を意味しています。特に楽器の演奏で、それぞれの楽器が調和して一つの音楽を奏でることを言うのです。そしてこれが英語のシンフォニー、つまり「交響曲」という言葉になるのです。
 交響曲はオーケストラが演奏します。オーケストラは、バイオリンやチェロなどの弦楽器の他、フルートやトランペット、クラリネットやホルンなど、実にたくさんの様々な楽器によって成り立っています。そしてそれぞれの楽器がそれぞれ勝手な音を出したり勝手なリズムで演奏したりすれば、それはバラバラな不協和音になってしまって音楽になりません。ただうるさいだけです。聞くに堪えません。しかし不思議なことに、それぞれの楽器がバラバラに音を出していたときは全く聞くに堪えなかったものが、同じ楽譜に基づいて指揮者のもとに演奏したときは、それがまさに一つの美しい音楽となります。ところが全く同じ楽器を使っても、指揮者や楽譜を無視して、それぞれの楽器が勝手に音を出すと、それはもう全然音楽にならない。シンフォニーになりません。
 きょうのみことばで、主が「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」とおっしゃったとき、シンフォニーだどおっしゃっている。これは実に興味深いことだと思うのです。
 振り返って考えてみると、わたしたちの生活の中で、本当に心を一つにして祈り合うということが少ないのではないでしょうか。兄弟姉妹の集まりである教会が「心を一つにして」、まさにオーケストラがシンフォニーを奏でるように調和して、神さまに向かって祈り願うということができているだろうかと、省みざるをえません。
 そう考えると、わたしたちは最初「本当に父なる神さまは願い事を聞いてくださるのだろうか」と疑問に思ったわけですが、わたしたちが心からシンフォニーという一つの美しい音楽を奏でるほどに心を一つにする。そこが問題となってくることが分かります。イエスさまの願いはそこにあると言うことができます。教会が一つになるということ、主イエス・キリストの十字架によって救われた者の群れである教会が、心を一つにするということ。そのことを主は、どんなに願っておられるかということです。
 そのことが、今学んでいるマタイによる福音書の18章の中でイエスさまが語られてきたこととつながってきます。道を求めて教会の門をたたいてきた人をつまづかせてはならないというお話しがありました。迷い出た1匹の羊のたとえにもあらわれております。そして前回の兄弟への忠告の方法でもそのことが背景にあります。さらにこのあとの21節からの所、兄弟姉妹を7の70倍するまで赦しなさいという教えへとつなげられていきます。
 
     イエスさまが間に立っておられること
 
 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」‥‥この19節の言葉の根拠となっているのが次の20節なのです。この新共同訳聖書の20節では、最初の言葉が省略されています。実は20節の頭には「なぜならば」という言葉があるのです。つまり19節から続けて読みますと、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。なぜならば、二人または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのである。」‥‥そう主はおっしゃっているんです。
 19節だけ読んでいると、それはわたしたちと天の父なる神さまだけしかいません。しかし20節を読んだときに、わたしたちはなぜ父なる神さまが祈りを聞いてくださるかという理由を教えられるのです。それは主イエスがおられるからです。十字架におかかりになったイエスさまが、わたしたちと天の父なる神との間をとりなしてくださるからです。主イエス・キリストはこれらの言葉が真実なものとなるために、このあと十字架へと向かわれる。ご自分の命をなげうって、わたしたち罪あるものと天の父なる神の間をとりなしてくださったのです。
 
   天国の鍵の権威
 
 きょう読んだ聖書箇所の最初の18節に戻りますが‥‥"はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。"‥‥とおっしゃっています。
 これは16章19節で出てきた「天国の鍵」の権能ですね。教会が、イエス・キリストから与えられた天国の鍵の権能です。「あなたがた」というのは、ここでは教会を指します。教会につなげられた者は、天国でもつなげられるんです。天国に入れられるということです。逆に教会が戒規などを適用して、つながりを解いた者は天国からも解かれてしまうということになります。教会がそれほどの権威を主から与えられている。天国につなげるか、解くか、主から教会にゆだねられているんです。わたしたち罪人の集まりである教会が、それほどの大きな権能を与えられている。私たちは、聖なる畏れをもって、この言葉を受け止めなければなりません。それは重大で、厳かな任務です。決して、いい加減に扱ってはならないんです。
 "二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。"‥‥この「二人または三人」というのは、一番小さい集まりですね。しかしそこにキリストがおられるのであれば、それは教会と呼べるものです。
 
 私が能登の輪島教会におりましたときに、能登半島の西側の海岸沿いの道を行った所に富来という町がありました。今は志賀町と合併して志賀町となりましたが。そこに伝道所がありました。今も建っています。それは輪島教会にとって西側の隣の教会となります。隣の教会といっても、能登は教会はたいへん少ない所ですから、車で50分かけて行くことになります。その富来伝道所の夕礼拝に、隔週で礼拝の奉仕に行きました。夕方6時から、のちには5時からとなりましたが、毎週礼拝がありました。そこに、その富来伝道所の親教会である羽咋教会の牧師と一週おきに交代で礼拝をしに行くわけです。そしてその伝道所の礼拝に来る人は一人だけでした。外見は普通の古い民家です。それは、昔その伝道所の信徒の方の家だったんです。その建物が伝道所となっていたんです。2007年の能登半島地震で被害を受け、その後全国募金で立て直すことが来て、今は新しい建物になっています。しかし当時は、畳敷きの家でした。その畳の部屋で、夕方に行われる礼拝に来る一人の人。その人と牧師と一対一の礼拝となります。私が行くときは、たいていは妻と子供も連れて行きましたが、行けない時は私とその方と二人だけの礼拝となります。
 二人が向かい合って座りますので、まさに一対一の礼拝になるわけで、讃美歌を歌うのはまだ良いのですが、説教になると、なかなか難しいものがありました。何が難しいかというと、一対一で向かい合っているわけですから、下手をすると単なる雑談か対談をしているような感じになってしまうんですね。そうではなくて、神の言葉を説き明かす「説教」なのであるという形を保つには、どうしたらよいかといろいろ考えさせられました。そうやって私も神さまから訓練させられたんです。
 とにかく、二人または三人しか礼拝していないわけです。その町の中で。何かたいへん心細い思いもいたしました。この先この伝道所はどうなってしまうんだろうとも思ったことがありました。しかし一方で、「ここはたしかに神さまによって立てられたキリストの教会なのだ」ということを強く思わされました。その根拠が、今日のみことばです。"二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。"
 そこにはイエスさまがおられるというんです。目には見えないが、たしかにいてくださる。イエスさまが今日の聖書個所で、約束してくださっているんです。これが、この世の中のほかの集まりと決定的に違っている所です。その伝道所は、建物は古く、集うのは町の人がたった一人かもしれない。しかしそれはたしかに教会です。なぜなら、イエスさまが、"二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。"と約束してくださっているからです。それゆえに、その小さな小さな礼拝は、たしかにキリストの教会であり、天国の鍵をあずかっている所であると言える。‥‥そのことを思い出します。
 
   主イエスが共におられる
 
 さて、そうしますと、今この逗子教会で礼拝をしているわけですが、ここにもたしかにイエスさまがいてくださるということになります。イエスさまがおられるんです。これはすばらしいことではありませんか。もう一度言います。ここにはイエスさまがおられるんです。それがイエスさまの約束です。ここにイエスさまが生きておいでになっている。もう、何もほかに要らないという思いがいたします。
 この一年、私たちは今までの人生で経験したことがなかったような出来事を経験してきました。3月、突然すべての学校が休校となりました。子どもたちは卒業式もすることができず、入学式もなくなりました。高校生も、授業はもちろん、部活もなくなり、甲子園を始め、スポーツに青春をかけていた生徒たちはすべての大会がなくなり、活躍の場が失われました。社会では、飲食店を始め、旅行業の方、交通関係の方々をはじめ、多くの方々が仕事がなくなり、職を失い、店をたたまなくてはならなくなりました。生活に困っている人が多く出ることになりました。
 教会も未曾有の困難に直面しました。礼拝堂に集まっての礼拝を休止し、原則としてそれぞれの自宅での礼拝という措置をとりました。そして教会学校、聖書を学び祈る会など諸集会をすべて休止という措置をとりました。前代未聞の事態でした。高齢者施設や特別養護老人ホームは面会禁止となり、病院も面会禁止で入院した方にもお会いできない。訪問もはばかられる。そのように何もかもが制限される事態となりました。
 しかし一方で、キリストがおられなくなったのかといえばそうではありません。まずこの礼拝堂では、役員さんたちが牧師と共に礼拝を守り続けました。そしてそれをYouTubeライブ配信というオンラインによって中継し、それを画面の向こう側で同時に礼拝を守る兄弟姉妹たちがいました。またオンラインで見ることはできないけれども、自宅でプログラムにしたがって礼拝を守り、祈り続ける兄弟姉妹たちがいました。
 今回の新型コロナウイルスがもたらした危機は、私たちが心を一つにすることを妨げたでしょうか。そうは言えないと思います。たしかに私たちは今、たいへんな困難の中に置かれています。しかし、主は、"二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。" とおっしゃいました。そのイエスさまは、ここにおられ、現在の事態をよくご存じであることは間違いのないことです。ここに希望があります。
 "また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。"‥‥この言葉を感謝と喜びを持って受け取り、心を一つにして祈っていきたいと思います。


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