2020年11月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記7章13節
    マタイによる福音書18章15〜17節
●説教 「忠告のしかた」
説教 小宮山剛牧師

 
   終末主日
 
 本日は教会の暦で終末主日と呼ばれます。これは教会のカレンダーの一年の終わりです。教会の暦はアドベント(日本語で「待降節」)から始まります。つまりキリストの降誕を待つところから始まります。そして本日の終末主日で終わります。
 終末主日は、世の終わりを覚える日です。世の終わりというと、一巻の終わりというように考えられますが、私たちキリストを信じるものにとってはそうではありません。この世は終わるけれども、キリストが再臨し、新しい神の国が名実共に到来する日です。すなわち救いの完成の日です。私たちにとっては肉体の死が死なのではなく、神の国へ移されるときであるということと同じです。
 教会は、その終末を希望をもって待つ群れであるということができます。この世のすべての人を招きつつ、終末を待つのであります。
 
   兄弟の忠告
 
 本日の聖書ですが、前回は「迷い出た羊のたとえ話」というものがイエスさまによって語られました。群れから迷い出た1匹の羊。羊飼いは残りの99匹を残して、いなくなった1匹の羊を捜しに行きました。こうなると、もうそれは損得の問題ではありません。その1匹の羊が、かけがえのない尊い1匹であるということになります。イエスさまの目からみたら、迷い出た1匹の羊はそのように尊いものに見える。そして、その迷い出た1匹の羊こそ、この私たちひとりひとりであることが示されました。そのように、失われた1匹の羊を捜し求めるイエスさまであるからこそ、私たちは救われたのです。
 そのことが話されたあと、今日先ほど読んでいただきました聖書の個所が続いています。すなわち、イエスさまは、失われた1匹の羊を捜しに行かれる。では私たちはどうするのか、ということです。
 
   教会はどうあるべきか
 
 この礼拝では、現在マタイによる福音書の18章を読み進めています。18章はイエスさまの教えがまとまって書かれている所です。そのような個所で一番有名なのは、5章〜7章の「山上の説教」でしょう。山上の説教は山の上で、弟子たちと、そのまわりに集まったおおぜいの人々に向かって語られました。それに対して、いま読んでいる18章は、たぶん弟子のペトロの家の中で、弟子たちに対して語られています。
 弟子たちに向けて語られているということは、教会に対して語られていると言うことができます。17節に「教会」という言葉が出てきます。つまり、のちに誕生する教会に向かって語られています。
 
   罪を犯したとき
 
 そしてお話の内容ですが、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語られています。この「兄弟」というのは、教会員のことです。教会ではお互いのことを兄弟姉妹と呼びますが、その兄弟です。つまり、教会の誰かが罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさいと言われています。
 ずいぶん具体的に教えておられるように思います。キリストの教えというものが、決して浮世離れしたことを教えておられるのではなく、この現実の中で起こる身近なことに関わることが教えておられるということがよく分かります。
 教会の兄弟姉妹の誰かがあなたに対して罪を犯す。罪を犯すということは、主のみこころに反することですから、それは先の羊のたとえ話に関係してきます。罪を犯して、主の羊の群れから迷い出ようとする羊。そのように関係づけて読むこともできます。
 
   二人だけのところで
 
 「あなたに対して罪を犯したなら」と言われています。ここでいうとは、過ちと言ってもよいでしょう。そのように教会の兄弟姉妹の誰かが、自分に対して過ちを犯したら、「行って二人だけのところで忠告しなさい」と言われます。
 この「行って」という言葉は、離れるという意味がある言葉が使われていまして、つまり、まわりに人がいたらそこから離れて、ということです。その人と二人きりの場所で忠告しなさいと命じられているんです。忠告するのであって、復讐しなさいというのではないことに注意が必要です。
 そう言いますのも、私にも覚えがありまして、私がまだ神学生の時に、信頼していた先輩が陰で私を批判していることを知った、ということがありました。私は本当に腹が立って腹が立って、今度会ったら一発お見舞いしてやろうと思ったんです。この場合は、明らかに復讐してやるということになるわけですが、さいわい、主がそのような私を止めてくださって、また彼自身に直接過ちを教えてくださったのでした。
 そんなことを思い出すのですが、ここは「忠告しなさい」なんですね。つまり、それが間違っていると言うことを相手に分かるように話しなさい、ということです。 あくまでも、相手が自分自身の過ちを悟ることができるようにしなさいということです。
 なぜ「二人だけのところで」なのか? 他の人たちがいる前で相手の過ちを指摘したらどうでしょうか?‥‥これはもうみなさんお分かりと思いますが、その場合はだいたい過ちを認めないですね。メンツがあるからです。みんなの前で恥をかかされた、ということになるからです。それは決して悔い改めにつながらないでしょう。
 そもそも、みんなの前でその人の罪をあばくなどということには、心からその人の過ちをなんとか分からしてあげたいという気持ちがないんですね。なぜそう言えるかというと、私が若い頃、そんなことをしていたからです。学生時代、私は左翼学生運動に関わっていたと前に申し上げました。そうすると、対立するグループだとか、我々を批判する教授などを非難するチラシや抗議文を作って大学中に蒔くんですね。攻撃するわけです。ハンドマイクを持って押しかけたりもしました。その場合には、対立するグループや、けしからん教授に、なんとか間違いを分かってもらいたいという心からの気持ちなど全くないわけです。それは単なるケンカであって、相手の間違いを暴いて宣伝して、屈服させて勝つということしか頭にないわけです。ですから、最初から相手と二人きりになって忠告するなんてことは、考えもしないわけです。相手には直接言わずに、最初から多くの人に相手の過ちを言い広め、宣伝するということになります。そのような場合、相手は全然反省しないどころか、逆にこちらを憎み、よりいっそう対立していくことになります。‥‥そんなことを思い出します。私の苦い思い出です。
 他の人々がいる前で、相手の罪・過ちを指摘したら、それはほとんどの場合、かたくなになるだけでしょう。あるいはみんなの手前、認めたとしても、指摘した人に対して悪い感情を抱くでしょう。心から過ちを認めて悔い改める、ということにはならないでしょう。
 先ほど読みました出エジプト記で、エジプトの王ファラオの心がかたくなになって、モーセが要求することを聞かなかったと書かれていました。なぜファラオの心はかたくなになったのか? それはやはり、ファラオの家臣たちのいる前で要求したということもあったでしょう。しかしこの場合は、最初から主のご計画であったので、モーセもそのようにしたわけです。あえてかたくなにするために。
 だから、「行って二人だけのところで忠告しなさい」なんです。目的は、その人が悔い改めることにあるんです。悔い改めというのは、神さまの方を向くことです。神への信仰を取りもどすことであり、愛を取り戻すことです。
 ですから、これはなにか他人の話をしているのではありません。私たちはお互いに過ちをおかしやすい人間です。だからお互いにそのようにして、悔い改めて主なる神さまのほうを向くことができるように助け合うんです。そういうことが言われているんです。そして「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われます。本当の兄弟姉妹になれるということです。キリストのもとの本当の兄弟姉妹です。
 
   それでだめなら
 
 しかし、二人きりで親身になって忠告しても聞き入れない場合がある。そのときは、「他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と言われます。
 これは、客観的に判断してもらうということでしょう。自分は相手が間違っていると思うけれども、もしかしたら間違っていないかもしれない。だから他の人の意見も聞くということでしょう。相手にしても、本当に自分が過ちを犯したということが分かるために、ということも考えてのことでしょう。だからこれは、圧力をかけるためではありません。あくまでも、なんとか相手に分かってもらいたい。また自分自身も客観的な意見を聞きたいということです。
 しかしそれでもダメな場合もある。そのときは「教会に申し出なさい」と言われます。ここで教会が出てきます。
 教会といった場合、それはおそらく教会員全員ということではないでしょう。教会員全員の前でということになったら、それはもうあまりにも白日の下になってしまいます。ここは、教会の制度のことだと考えられます。それは教会では「戒規」と呼ばれます。戒規というと、なにか懲戒処分のように聞こえるかもしれませんが、そういうものとは全く違います。日本キリスト教団においては、信徒の戒規は「戒告」「陪餐停止」「除名」の3つがあります。陪餐停止というのは、聖餐式にあずかることができないということです。そして、これらの戒規は役員会が扱うことになります。
 「戒告」とか「除名」が、企業や団体のの懲戒処分とは全く違うというのは、教会の戒規は、あくまでも当人の悔い改めが目的であるということです。企業や団体の場合は、たとえば「懲戒解雇」というような処分が出された場合、再びもとの職場に戻ることはないでしょう。どんなに反省しても戻ることができないのが普通です。ところが教会の戒規では、たとえ「除名」の戒規が適用されたとしても、悔い改めるならば元に戻ることができるんです。そのように、教会の戒規というものは、あくまでも当人が悔い改めて、主の信仰に立ち帰ることを目的としているものです。
 しかしそれでも悔い改めないということがある。その場合は、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。それは何が罪であるかも分からない人ということになります。イエスさまを信じる前の状態に戻ってしまったんです。そうなると、私たち人間の力でどうなるものでもありません。ですから、これはもう、すべてをイエスさまにお任せするという意味になります。
 
   神の示し
 
 こうしてみますと、きょうの聖書でイエスさまがおっしゃっていることが、トコトン悔い改めをうながすものであることが分かります。そして信仰に立ち帰ることを願うものであることが分かります。教会は、お互いについてそのように兄弟姉妹としてお互いに愛をもって接していくのであると言われているんです。
 そう考えると、これは罪とは言えないまでも、言いたいことがあれば直接本人に言いなさいということでもあるかと思います。例えばこんなことはよくあるのではないでしょうか。「私からは言いにくいから、あなた言ってやってよ」というようなことです。自分からは言いにくいから、他の人に言ってもらう。これはせっかく与えられた、本当の兄弟姉妹になるチャンスを失うことになります。また、他の人に言ってもらうのでは、決して正しく伝わることはないでしょう。そもそも愛ある行為とは言えないでしょう。他人に言わせてはいけないんです。自分で言えなければ、黙ってその人のために祈っている、そして主が働きかけてくださるのを期待するのが良いでしょう。
 いずれにしろ、教会は、この世の企業や団体とはかなり違ったところだということがわかります。この世の企業や団体は、過ちを犯したものは処分を受け、追放されるということになります。その中では生き残りをかけた競争があったりします。
 しかし教会は違います。過ちを犯せば、心から心配して忠告し、悔い改めて再び主の方を向くことができるように願い、祈るんです。それが教会という所です。なぜなら、イエスさまという方が、迷い出た1匹の羊を捜し求めに行かれる方だからです。その一人が尊いものとみてくださるからです。この私のような者でも、尊いものと見てくださっているからです。
 こうして教会は、互いに支え、励まし合いながら、主の来たりたもう日を待ち望みつつ、神の国を目指して歩んでいくのです。


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