2020年11月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教/幼児祝福礼拝
●聖書 ヨナ書2:3
    ヘブライ人への手紙12:4〜7
●説教 「神の愛と鍛錬」
説教 小宮山剛牧師

 
   幼児祝福
 
 本日は幼児祝福式があります。例年ですと、いつもの主日礼拝をしたあと幼児祝福式をしていますが、今年は礼拝そのものを幼児祝福礼拝としました。そして礼拝の中で幼児祝福式をいたします。
 日本の教会で、この時期に幼児祝福式をする教会が多いのは、いわゆる「七五三」のお祝いに合わせているわけで、今日はまさにちょうど15日の七五三の日になるわけです。しかし、幼児祝福をするのは、そもそも聖書に基づいています。例えば聖書では、次のように書かれている個所があります。
(マタイ19:13〜15)"そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。"
 そこで言われている「子供たち」というのは「おさなご」です。このように、イエスさまは、子供たちがイエスさまの所に来るのを妨げてはならないとおっしゃり、神の国はこのような者たちのものだとおっしゃいました。そして、子供たちに手を置いて祝福されました。そういうことで、教会も子供たちを招き、祝福いたします。
 
   苦難、不本意な出来事
 
 そういうわけで、今日の聖書箇所は幼児祝福を念頭に選びました。しかしこの聖書箇所は、直接幼児祝福を述べているのではありません。むしろ、子供たちがこれから人生において経験すること、そして親が経験し、またわたしたちが経験しつつあることについて述べている個所です。それは、私たちがこの人生を生きていて味わう苦しみや困難、つらいことについて述べています。幼子たちも経験するでしょう。私たちも経験したし、またこれからも経験することでしょう。それは聖書では「試練」と呼ばれます。
 私たちは生きていて疑問に思うことがしばしばあるに違いありません。それはつまり、「なぜつらいできごとや苦しいできごとが起きるのか?」ということです。「本当に神がいるのなら、なぜこんなにひどいことが起きるのか?」‥‥そのように思うできごとです。あるいは神を信じていても、時にひどい苦しみを味わうことがあります。そうすると、「神を信じているのに、どうしてこんなことが起きるのか?」と思います。「本当は、神などいないのではないか?」あるいは、「神さまはこの苦しみを見て見ぬふりをしているのか?」‥‥そのように思ったりします。
 きょうの聖書箇所は、そのような疑問に答えています。それは神が与えている「鍛錬」だというのです。「鍛錬」、他の聖書は「訓練」と訳しています。鍛錬というのは、例えばスポーツ選手がきびしい練習を積み重ねるようなことと同じです。きびしくつらい練習をなぜするのかと言えば、試合で良い結果を出すためです。鍛錬を怠ると、試合で負けてしまうことになります。だから試合で良い結果を出すことを目標にして、鍛錬を積み重ねるわけです。ですから鍛錬、訓練は、自分をきたえるために進んで行うわけです。
 それと同じように、主が私たちを鍛錬されるというのです。それが苦しみであり、試練であるということになります。
 
   ある信徒
 
 先週、私が牧師となって最初の任地であったW教会の男性信徒が亡くなりました。今日は能登でお葬式が行われることになっています。
 彼は、かつて若いときに洗礼を受けたけれども、その後教会を15年間離れていて、私が牧師になってから教会に戻ってきたという人です。私よりもやや年上の人でした。彼は最初、外国航路の船員をしていました。何ヶ月も家を空けているような仕事でした。その後、船乗りをやめて陸上に上がり、長距離トラックのドライバーになりました。そのとき、教会に戻ってきたんです。W教会は当時、礼拝に来る人が10名ぐらいの小さな教会でした。彼は、教会に戻ってきた理由を次のように話してくれました。‥‥彼は趣味で自動車に熱中していたそうです。スポーツカーに乗り、しかもそれを改造して楽しんでいたんです。運転席以外の座席を全部取り払い、車内を鉄パイプで補強する。そんな改造をしていたそうです。ところがある日、その車の窓ガラスが突然破裂したそうです。なぜ破裂したか。陽射しの強いときに窓を閉め切っていると車内の空気が膨張します。しかし、座席がクッションとなってそれを吸収する。ところが座席を取り払っていたから、空気の膨張を吸収できなくなって、爆発して窓ガラスが粉みじんになったんだそうです。その時彼は「ああ、これは神さまからの警告だ」と感じたそうです。それで教会にまた戻ってきたというのです。ふしぎです。
 大好きな車がそんなことになったというのは、つらいことだったでしょう。しかし、その結果、彼はもっと大事なことに気がついたんです。私たちの主である神さまは、彼を目覚めさせるために、そのようなことをなさったということになります。
 
   愛
 
 私たちの神さまは、私たちを成長させるために、ときには試練を与えます。成長というのは、イエス・キリストと似た者となるということです。イエスさまと似た者となるように、そのように成長させるために、私たちを訓練なさるというのです。
 先ほど読みました、ヘブライ人への手紙の12章6節にこう書かれていました。「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。」‥‥現在では、子供を鞭で打つ親はいないかもしれませんし、そんなことをすれば虐待ということになってしまいますが、この当時は子供を鞭で打ったんですね。しかしもちろんそれは虐待するためではなく、子供を愛すればこそです。悪い事は悪いと教えるために教育としてしたようです。
 子供を愛している親は、子供が願うものをなんでも買ってやるでしょうか?‥‥もしなんでも買ってやったとしたら、それは本当には子供を愛していないんです。なぜなら、そんなことをしたら、子供が成長したときにダメな人間になることが分かっているからです。子供は「なんで欲しいものを何でもかってくれないんだろう」と不満に思うでしょう。しかし、親は、子供がちゃんと成長してほしいから、そのために必要なものは買ってあげるけれども、なんでも望む物を買ってあげるようなことはしません。そして、子供がちゃんと自立して、良い人になるために成長を助けようとするでしょう。時にはきびしくしつけることもあるでしょう。その子のためにです。
 それと同じように、私たちの主は、私たちを成長させるために、しばしば試練を与える。それが鍛錬であり訓練です。人は困難を通して成長するからです。
 私も、社会人になったとき、病気で死にかけました。それで会社を辞めなくてはならなくなりました。それはひどいことでした。人生の挫折をしました。しかしそのおかげで、神さまのもとに再び導かれたのです。もしあの時、あの苦しみがなかったとしたら、いまだに神を信じなかったばかりか、とてつもなく傲慢な自己中心の人間になっていたことでしょう。
 
   ヨナ
 
 今日はもう一個所、旧約聖書のヨナ書の中の一節を読んでいただきました。ヨナ書というのは、とても短い物語で、読みやすいですから、まだ読んだことのない方は一度ぜひ読んでいただきたいと思います。そのあらすじはこうです。‥‥
 ヨナという人がいました。ある日、神さまがヨナに語りかけました。ニネベの都に行って、悔い改めるように呼びかけなさい、と。ニネベは外国のアッシリアという国の首都でした。
 しかしヨナは神さまに逆らって、反対のほうに行きました。そして船に乗ってスペインのほうに逃げようとしました。ところがその船が、途中でひどい嵐に巻き込まれ、沈みそうになりました。それで人々は、それぞれが信じている神さまに助けを求めました。しかし嵐は収まらない。それで、だれのせいでこんなひどいことになったのか、くじを引くことになりました。するとくじはヨナに当たりました。それでヨナは、船に乗っている人たちに正直に言いました。‥‥自分は天地を造られた神、主を信じている。そして主の命令に逆らって、逃げていって、この船に乗ったのだ。‥‥だから、私を海に投げ込みなさい。そうすれば嵐は収まるでしょう‥‥と。それで人々は、ヨナを海に投げ込みました。すると嵐が収まりました。
 いっぽう、海に投げ込まれたヨナはどうなったのか。主が、大きな魚にヨナを飲み込ませました。助けたんですね。その魚のお腹の中で、ヨナが語った言葉が、先ほど読んでいただいた聖書の言葉です。
「苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。」
 そしてヨナは悔い改めました。
 主は魚に命じて、ヨナを陸に吐き出させました。そして、ヨナは今度は主に従って、行きたくなかったニネベの都に行きました。そして主に言われたとおり、「あと40日すればこの都は滅びる」と言って回りました。すると意外にも、この外国の都の人々は、王様に至るまで皆悔い改めました。それで主は、この都を滅ぼすのをやめられました。‥‥これがヨナの物語の前半です。
 ヨナは、海に投げ込まれて死ぬところでした。誰もそんな目に遭いたくありません。しかしその結果、大切なことを教えられました。それは、主なる神さまの言葉がいかに大事なことであるかということです。そして、自分が傲慢であったことに気がつきました。
 
5〜6節「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
 主は、私たちを愛する子として取り扱ってくださっていると書かれています。私たちが試練や苦しみに遭ったとき、神さまが大切なことを教えようとなさっていると考えることができれば幸いです。そこに必ず新しい道が開かれていくことでしょう。


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