2020年11月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教/召天者記念礼拝
●聖書 ミカ書7章19節
テモテの手紙一 1章12〜17節
●説教 「神のあわれみの現実」
召天者記念礼拝
本日は、この世の旅路を終えて、神のみもとに召されていった方々を覚える召天者記念礼拝です。
召天者名簿を見ますと、そこに多くのなつかしい方々のお名前があります。また、私がこちらに参りましてからも、名簿だけでも、もうすでに50名近い方々をお送りしたのだなあ、という思いになります。その中には、私を通して洗礼を受けられた方も7名いらっしゃいます。今年になってから神のみもとに召されていった方々も何人もおられます。その方々は、いま世界を覆っているこの事態、つまり新型コロナウイルス感染状況の中で逝かれました。そのことを思いますと、私は、この困難な状況の中でもキリストの福音を宣べ伝え続ける教会として、立ち続けるようにと、言われているように思われるのです。
なつかしい方々のお名前を拝見しておりますと、様々な思い出がよみがえって参りますが、この召天者記念礼拝は、天に召されていった故人を偲ぶときであると共に、私たち自身が自らの死と向き合うときでもあります。
近藤先生の証し
以前、当教団の伝道推進室が作成しましたトラクトに、東京神学大学学長の元学長の近藤勝彦先生の書かれたものがあります。それによりますと、近藤先生が中学生の時にお父さんが48歳で病死されたそうです。それで死を恐れる気持ちを持って、青少年の時期を過ごしたそうです。初めて教会を訪れたのは高校生の時だったそうですが、いつも心の底に「死よりも確かなものはないのか」という問いを抱えていたそうです。
教会の礼拝に出席するようになって10ヶ月した頃、聖書も読んだとはとても言えない状態で信仰の理解も十分ではなかったけれども、牧師に洗礼を受けたいと申し出たそうです。そこにも、いつ死ぬか分からないという意識があって、すぐにでも洗礼を受けたかったそうです。その後、神学のすばらしさに触れ、この信仰と学問に生涯を注ぎたいと思うようになり、そして伝道者として献身したいと思うようになったそうです。大学に入学したのは1962年。学生運動が分裂し、目標を見失って日本の活路を探しあぐねている時代。先生は、キリストの福音がもっと力強く、そして広く伝えられなければ、日本社会は本当の意味では良くならない、なにも変わらないと考えさせられるようになったそうです。そうして大学を卒業した後、東京神学大学に編入学し、伝道者への道を歩んで行かれました。
そして、ずっと持ち続けていた「死より確かなものはないのか」という問い。それはどうなったかというと、今から思うと、いつの間にか答えが与えられていたようでした、と先生は書いておられます。あの問いを持った後も、妹や母、妻の母といった家族との悲しい別れを経験してきたけれども、「死よりも確かなものはないのか」という問いが先生の心をさいなむことはなくなったそうです。それは、「死よりも確かなもの」が神さまにはあって、その確かさに信仰は触れていると感じている、と。そして、聖書のローマの信徒への手紙8章38節を引用され、キリストによって、何者も引き離すことのできない神さまのとの親しい交わりに入れられていることは、まさに「死よりも確かなもの」に捉えられていることである、と。
そして、洗礼を受けたことは「キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)というすばらしい事実であると。もはや裸でいるのではなく、神の前にキリストという死に装束をまとっているのであるというのです。キリストの義と、愛と、とりなしと、赦し、そしてキリストの力に身を包まれて神のみ前に立つことをゆるされている。それもまた死よりも確かなものであると。キリストを晴れ着として、そして死に装束として身にまとっていると思っていますと、書いておられます。
永遠の命
本日読んでいただいた聖書、テモテへの第一の手紙の個所ですが、そこに「永遠の命」(16節)という言葉があります。永遠の命。永遠とは、終わりがないということです。もっと言えば、始めもないということでもあります。終わりもないし始めもない。ずっと存在しているものです。
そのような永遠の存在というのは、神さましかありません。私たちの地球は約46億年前に誕生したと言われます。そして宇宙は百数十億年前に突然発生したと言われます。それは気の遠くなるような昔ですが、それでも決して永遠ではありません。では永遠なるものがないかといえば、それはその宇宙を造られた神さまだけが永遠の存在です。すべては神によって造られた、それが聖書の記すところです。永遠なものは神さましかいないんです。
きょうの聖書に記されている「永遠の命」、これは有限の存在であり、短い人生を送る私たちに向かって語られている言葉です。しかしその私たちは、この世に生まれた時が始まりなのではありません。例えば新約聖書のエフェソの信徒への手紙にはこう書かれています。‥‥「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、けがれのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)。
驚くべきことに、私たちは、天地宇宙が造られる前から、神の心の中に存在していたということです。そして時を定めて、私たちはこの世に生まれたのです。
ところが、その私たちが、神にそむき、罪を犯して、死が入り込んだと、聖書は語ります(創世記3章)。永遠の命が失われたんです。そしてその命を再び取り戻すための物語を、聖書は記していると言えるでしょう。
罪人のかしら
そして先ほどお読みした、16節をもう一度読みます。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」
使徒パウロが、「永遠の命を得ようとしている人々の手本」になると自分で書いています。パウロがお手本であると、自分で言うんです。すごいなあ、すばらしいなあと思ことでしょう。とても私なんかこんな言葉は言えない、と思う人が多いでしょう。
しかし、その「手本」というのは、私のように立派に生きれば永遠の命が与えられる、というような手本ではないんです。むしろ逆なんです。全く逆です。それを告白している言葉が、その前の15節の後半の言葉です。「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
昔の聖書では「わたしは、その罪人のかしらなのである」と訳していました。「かしら」というと、紛れもなく最悪という感じがにじみ出ていますね。ともかく、一番ひどい罪人であるということです。
どれだけひどい罪人であったかということが、13節に簡単に述べられています。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」‥‥キリストと出会う前のパウロは、熱心なユダヤ教徒であり、イエス・キリストを信じるクリスチャンを片端から弾圧し、迫害していました。そういうかつての自分を思い起こし、懺悔の思いを込めて自分のことを「罪人の中で最たる者だ」と告白しているんです。
だから、神の教会を迫害した自分はひどい罪人であり、救っていただく資格もなければ、永遠の命を与えていただく資格もない者であった。ところがそんな自分の所に、キリストは天から現れ、近づいてきてくださり、救ってくださったという感謝がそこにあふれています。
なぜそんなに悪かった自分をキリストは救ってくださったのか。その理由をあらわす言葉が「憐れみ」(13節)という言葉であり、「恵み」(14節)という言葉です。憐れみも、恵みも、資格がないのに神さまの祝福が与えられることを意味する言葉です。その人が立派だったかどうかとか、良いことをたくさんしたかどうかとか、そういうことを問わない。‥‥たとえば、地震や水害が起こったときに、救援物資が集められ、現地に届けられたとします。そのときに、「あなたは善人だから救援物資をあげましょう」とか、「あなたは良くないことをした人だから、あげません」などということはありません。困っている人に分けられます。それと同じです。
パウロは、自分は救われる資格がない者だった。永遠の命を受けるのに、ふさわしくないものであった。しかし、そんな自分をキリストが救ってくださったのは、神の憐れみであり、恵みなのだと、感謝して述べているんです。
どうして、そんな自分が救われたのか。それは神の憐れみであり恵みであるのだけれども、それが「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということなんだと述べているんです。すなわち、イエスさまは、神の憐れみ、恵みのしるしとしてきてくださり、救われるべき何の資格もないこの私を救ってくださった。‥‥それがお手本であるということです。
従って、「手本」というのは、自分が正しい人で立派な人だから永遠の命を与えられるという意味での手本ではない。逆だといったのは、そういうことです。自分みたいな罪人でダメな人間が、キリスト・イエスにおいて現れた神の憐れみによって救われるという手本です。
罪の自覚と恵み
さて、パウロが自分のことを「罪人の中で最たる者」と述べていることについて、「いや、そんな程度の罪など、たいしたことはない。私のほうが罪人だ。私こそ『罪人の中で最たる者』だ」とおっしゃる方はいるでしょうか。もしそのようにおっしゃるのであれば、それはもうキリストの恵みと憐れみの中に入れられているのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という恵みの言葉が、そのとおりとなります。
私たちは、みな不完全な人間です。欠けの多い人間です。罪人であります。その罪人である私たちを救うために、イエスさまは十字架へかかってくださった。その恵みに生きるものでありたいと思います。
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