2020年11月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書44章22節
    マタイによる福音書18章12〜14節
●説教 「一人の軽さと重さ」

 
   「人の子は失われたものを救うために来た」
 
 イエスさまは、11節で「人の子は失われたものを救うために来た」とおっしゃっています。「人の子」というのはイエスさまご自身のことを指す言葉として使われていますので、これはつまり、イエスさまが何をするためにこの世の中に来られたのかということを、ご自分の口で明らかにしておられるわけです。それは「失われた者を救うため」なのだと。
 実を言いますと、聖書をお持ちの方はお分かりかと思いますが、私たちの教会で使っている新共同訳聖書を見ますと本文にはこの11節がありません。抜けています。では11節はどこに行ってしまったかというと、マタイによる福音書の末尾のところに別に書かれています。これはどういうことか、細かい話しをここでするつもりはありません。ひとことで言えば、昔の古い聖書の写本の中に、この11節がないものがけっこうあるということです。だからこの11節が、一番最初にマタイによる福音書が書かれたときに、本当にあったのかどうかよく分からないということです。つまり、この言葉を本当にイエスさまがおっしゃったのかどうかということになるわけですが、私はこの11節の言葉を、本当にイエスさまがおっしゃったと思っております。なぜそう言えるかというと、イエスさまはたしかにこの言葉のとおりの方であるからです。
 「人の子は失われたものを救うために来た」‥‥この言葉は実に味わい深い言葉です。味わえば味わうほど、心に響いてきます。私たちが何か物を無くした時、どうでもよいものならば、あまり捜しません。しかしそれが高価なものであったら捜すでしょう。さらにそれが自分にとってかけがえのないものならば、地を這ってでも捜すでしょう。
 9月のことですが、山梨県のキャンプ場で小学校1年生の女の子が行方不明になった事件から、1年が経ったことが報道されていました。ご両親は今も手がかりを求めていっしょうけんめい捜し、情報提供を呼びかけているということでした。我が子がいなくなったとしたら、それこそ見つかるまで捜し続けることでしょう。本当に早く見つかれば良いと思います。
 イエスさまのおっしゃった今日の言葉、「人の子は失われたものを救うために来た」というお言葉には、そのような思いが伝わってくるように思います。
 
   たとえ話
 
 そしてイエスさまがお話しになったのは「迷い出た羊のたとえ」というたとえ話でした。同じようなたとえ話は、ルカによる福音書の15章にも書かれています。しかし違いもあります。それは、ルカによる福音書のほうでは、100匹の羊を持っている人が、そのうちの1匹を「見失った」と言われています。しかしきょうのマタイによる福音書のほうでは、1匹の羊が「迷い出た」といわれています。「見失った」と「迷い出た」。「見失った」というと、羊飼いのほうに責任があるような感じを受けます。しかし「迷い出た」というと、そのいなくなった羊のほうに責任があるような感じを受けます。
 羊というのは、ずいぶん昔から人間によって家畜化されたようです。その羊は、群れで生きています。というより、たいへん弱い動物なので、群れでないと生きていけないし、羊飼いがいないと生きていくのがむずかしいそうです。羊は自分では、食物となる草や灌木を見つけるて移動するということができない。日本のように、どこでも雨が降って草が生えているという国ではないんです。
 このたとえ話に登場する「ある人」というのは、羊の所有者であり、かつ羊飼いでもあるようです。そして100匹の羊を持っていた。ところがそのうちの1匹が群れから迷い出てしまった。そしてイエスさまは弟子たちにおっしゃいます。「99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか」と。
 私たちは何と答えるでしょうか。「そうですね、捜しに行きますね」と答えるでしょうか。いや、「行きません」と答えるでしょう。普通は行きませんよ。なぜなら、残された99匹の羊はどうなるんですか?‥‥羊飼いが1匹を捜しに出かけたすきに、狼が襲いに来るかも知れない。あるいは泥棒に取られてしまうかも知れません。だから普通は99匹のことを考えて、1匹を探しに出かけない。まあ探しに行くとしても、近くを捜して、見つからなかったらあきらめるでしょう。99匹と1匹の価値を天びんにかけて、99匹のほうを選ぶでしょう。
 ところがイエスさまは、「99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか」と、おっしゃいます。ここで、このお話の羊の主人は、普通の人ではないということが分かります。そうです。この羊の主人は、イエスさま、または神さまのことをたとえているんです。そしてイエスさま、神さまは、私たち人間の考えとはかなり違っておられるんです。
 そうすると、この「99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに」出かけるというのは、何か99匹がどうでもよいということではない。1匹の羊というものが、どんなに大切かということを強調するために、比喩として語っておられるんです。
 
   迷い出た
 
 ともかく1匹の羊が、神さまのところから迷い出たわけです。どうして迷いでたという理由はおっしゃっておられません。とにかく迷い出たんです。イエスさまという主人のもとを。迷い出たんですから、それは自業自得だと思えます。自己責任です。
 ではこの迷い出た1匹というのは、誰のことをたとえているんでしょうか? だれか他の人のことでしょうか?
 
   私自身のこと
 
 私は、自分のことを思い出さざるを得ません。先週は、私が大学生になってから行った教会でつまずいたということをお話しいたしました。そしてもう教会というところには行かない、と決めました。
 日曜日の朝、教会に行かなくなったわけです。自由になったと思いました。もう神さまからも自由。そうすると日曜日も昼まで寝てるんですね。なんてのんびりできるんだろうと。しかし生活のほうは乱れていきました。当時のその大学の学生寮というのは学生による自主管理自主運営と称していて、要するに治外法権みたいなところでした。私も、授業はあまり行かずに遊んでいました。3回生の時は大学祭実行委員長というものをやらされる羽目になりまして、さらに授業には行かず、おかげで留年いたしました。徹夜マージャン、パチンコ屋がよい、また仲間と安酒を酌み交わし、お金がなくなるとアルバイトに出かけという生活。もう何をしに大学に行っているのか分かりません。神さまから逃れて自由になったと思ったと言いましても、単に自分のしたい放題のことをしているだけのことでした。ずいぶん人に迷惑をかけ、人を傷つけました。さらにその学生寮は、新左翼学生運動の拠点でした。新左翼といってもノンセクトなんですが。それで時々基地反対運動とか、成田空港反対闘争とかに出かけるわけです。ヘルメットをかぶってデモをする。そういうことにもかなり関わることとなりました。
 さて、教会へ行かなくなってしばらくしたときに、1回生の時に半年ばかり通った二つ目の教会の伝道師の先生が寮に訪ねてきたんですね。教会へ来ないから心配してきてくれたんでしょう。そして来てくれた時が、ちょうど寮が集会とデモの準備をしているところだったんです。寮の中庭には「○○闘争勝利」とか書かれた立て看板が準備され、ヘルメットが積まれ‥‥という状況の時でした。そこへ来客だと言われて私が呼び出されて行ってみると、その先生が立っていたんですね。かなり緊張したご様子でした。それは緊張するだろうという雰囲気の中でした。
 そのとき何を先生がしゃべったか覚えていませんが、「また教会に来てね、待ってるよ」というようなことをおっしゃったと思うんです。私は生返事をして、しかし心の中では「もう教会には行かないのに」と思っていました。そして実際、大学生時代、もう教会には行きませんでした。‥‥いま考えると、あの時よく来てくれたなと思います。私のような者がどうなろうと、心配するのは親ぐらいなものです。しかし、その先生は、ただただ私のことが心配できてくれた。いま考えると、やはりクリスチャンというのはそういうことなんだなと思います。それはイエスさまがそういう方だからです。
 さて、その大学を5年かかって卒業し、製薬会社に就職しました。新入社員になっても、まことに不真面目な社員でした。盛り場を飲み歩いて社員寮の門限を破るなどということは朝メシ前で、およそ新入社員とは言えないような横柄さでした。神さまを信じなくなると、倫理も道徳もなくなるのだということは身をもって体験しました。
 しかしこれも前にお話ししたように、入社しておよそ半年で持病のぜんそくのひどい発作が起きて、救急車で病院に運ばれることとなりました。死の淵まで行きました。呼吸ができなくて苦しくて、窒息寸前でした。酸素が不足して目が見えなくなり、真っ暗となり、かつぎ込まれた病院の救命治療室で意識が遠のいていきました。そのとき私は神さまを思い出しました。忘れていた神さまを思い出したんです。自分が捨てたはずの神さまをです。そして、わらにもすがる思いで心の中で叫んでいました。「神さま、助けてください!」と。そして失神しました。そして次に気がついたら、生きていたんです。‥‥そしてやがて再び教会へ戻ることとなる。‥‥
 
 私は、そのことを思い出すんです。今日のイエスさまのたとえ話では、1匹の羊が群れから迷い出ていきました。その1匹を探し求めて出かける主人。99匹を残してまで捜しに行く主人。私も迷い出ていったんです。そして人生を棒に振るところだった。それは自業自得です。自己責任です。死んで当たり前です。「神さま、助けてください!」って叫んだって、助けてもらう資格などないんです。「それはお前が悪いんだよ」と言われて当たり前の私です。
 しかし神の御子イエスさまは、そうは言われなかった。助けていただく資格のない私の叫びを聞いてくださったんです。‥‥と、ここまでお話しして、実は、そういうことではなかったと最近気がつきました。私は死の淵まで行って、私が神さまを思い出したと言いましたが、実はそうではなかった。「神さま、助けてください!」と私が自発的に叫んだのではなくて、そのように叫ぶように主が、イエスさまが導いてくださったのだと。そのことが分かったんです。
 それは、まさしく迷い出ていった1匹の羊を、どこまでも捜しに行ったこのたとえ話の主人のように。イエスさまは、私が死の淵まで行ったときに、忘れていた神の名を呼ぶようにさせて下さったのです。助けていただく資格の全くない私に。すべてはイエスさまのおかげだったんです。
 イエスさまは14節で言われています。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 こんな小さな私でも、滅びることは天の父なる神さまの御心ではないと、イエスさまはおっしゃってくださるんです。そこまでなさるとは。私は、もう絶句であります。ただただ、感謝しかありません。
 
   命を与えた神のもとから迷い出た
 
 迷い出た1匹の羊を捜しに出かけるイエスさま。しかし中には、「私はもともと教会に行ったことがないから、神さまやイエスさまのところを迷い出ていったんじゃないよ」という方もおられることでしょう。たしかに、もともと教会に来たことがなく、また最初から神さまを信じていなかった人にとっては、群れから迷い出たのではなく、最初から羊の群れにいなかったと思われるかも知れません。
 しかし、果たしてそうでしょうか?私たちの命は、誰が与えたのでしょうか?
 私事ですが、9月に孫が生まれまして、私もおじいちゃんとなりました。初孫はかわいいとよく言われますが、本当にかわいいものです。しかし、孫を抱っこしていて思ったんですね。生後2ヶ月の孫を抱っこしてあやしているこの私のことを、やがて大きくなったとき、孫は何も覚えていないだろうということです。私たちもそうですね。私は、5歳よりも前のことを全然覚えていません。だからこそ、そんな自分が幼子の頃、赤ちゃんの頃、世話をしてくれる人というのは尊いことだと思います。
 しかし、さらにもっと前にさかのぼるとどうでしょうか?‥‥私たちの人生の最初です。私たちに命を与えたのは誰でしょうか? たしかに「勝手に生まれてきた」と思っている人もいるでしょう。でも、もちろん違います。命を与えたのは、神さまです。神さまなんです。でもそのようなことは誰も覚えていません。記憶の彼方の彼方です。誰も覚えていませんけれども、たしかに神さまが私たちに命を与えてくださったんです。勝手に生まれたんじゃないんです。だからすべての人はみな、もともと神さまの羊の群れの中の1匹なんです。だから「神さまなんか知らない」「信じない」という人は、みな迷い出ていった1匹の羊なんです。そして、その1匹を、ひとりひとりをどこまでも捜して、救うために、イエスさまはこの世に来られた。
 「人の子は失われたものを救うために来た」とおっしゃるイエスさま。この私たち一人一人を「失われた者」と呼び、捜しに来てくださるイエスさまです。


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