2020年10月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記 28章 12節
    マタイによる福音書18章5〜10節
●説教 「天国と地獄」

 
 天国という言葉はどこでもよく聞きますが、地獄という言葉はあまり聞かなくなったように思います。これは仏教でもそのようでして、あるお坊さんがそのように言っておられました。きょうの聖書では、その地獄という言葉が出てまいります。
 
   段落の区切り方について
 
 先ほど読んでいただきました本日の聖書箇所について、聖書をお持ちの方は、「おや?」と思われたのではないかと思います。なぜなら、当教会で使用しています新共同訳聖書の段落の区切り方と違う区切り方をしたからです。
 このことについてちょっと説明させていただきますと、もとのギリシャ語の聖書には小見出しも段落もありません。この新共同訳聖書の小見出しと段落は、読者が読みやすいようにと、この聖書を日本語に翻訳した方々がつけたものです。ですから人によって、どこでどういうふうに段落で区切るかということは違う場合も出てくるわけです。
 私の今回の説教での段落の区切り方ですが、18章の1〜4節では「天国では誰が一番偉いか」という問いとイエスさまの答えが書かれていて、そこで区切りました。そしてきょうの5節〜10節では、「小さな者をどう扱うか」について書かれているので、そこで一区切りしました。そして次回は、11節〜14節で「失われた小さな者を救う神」について書かれています。そういうわけで、きょう読んでいただいた箇所は「小さな者をどう扱うか」ということについてイエスさまが教えておられるという箇所です。
 
   小さな者とは
 
 今申し上げた「小さな者」ということですが、これは第一に「おさなご」を指しています。つまり文字通り、小さな者です。それは前回の個所で、イエスさまの弟子たちが「いったい誰が天の国で一番偉いのでしょうか?」と尋ねたことに始まっています。弟子たちの問いに対して、イエスさまは一人の子供、この子供というのは幼子ですが、幼子を立たせて「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とおっしゃいました。
 そしてきょうの箇所である6節には「わたしを信じるこれらの小さな者」と言われています。ですから、イエスさまが今日のところでおっしゃる「小さな者」というのは、イエスさまをすなおに信じる幼子のことを指しています。
 そして、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節)とおっしゃっています。幼子を受け入れる人は、イエスさまを受け入れるのと同じことであると言われるんです。
 これは誰に向かっておっしゃっているかといえば、弟子たちに向かっておっしゃっているんです。弟子たちに向かっておっしゃっているということは、すなわち教会に対しておっしゃっているということです。私たちの教会に対しておっしゃっている。
 教会というと、世の中の人々には、何か難しいことを教えているんじゃないかと思っている人がいます。「とても自分なんか教会のような場所に行けない」と思っている人もいるようです。何か知的な、インテリが集まっていると思っている人もいるようです。しかしそうではないんです。いやむしろ、教会は、幼子が来れる場所でなくてはならないんです。なぜなら、幼子を受け入れることはイエスさまを受け入れることであると、イエスさまご自身がおっしゃっているからです。
 ですから教会は、昔から子どもたちを受け入れることに努めてきました。「子供にはまだ早い」などと言っているようでは教会とは言えないんです。なぜなら、それはイエスさまを締め出すことになるからです。
 
   幼子をつまずかせる
 
 そのように、まず幼子を受け入れるべきことが今日の箇所で言われています。そして次に続けて語られることは、逆に幼子をつまずかせるということについてです。
 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(6節)
 大きな石臼というのは、ロバなどの家畜に引かせる大きな石臼のことです。そんな大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれたら、決して助かることなく海の中に沈んでしまうことでしょう。そのほうがマシだという。要するに、死んだほうがマシだということです。非常に激しい言葉です。先ほどの、幼子を受け入れることはすなわちイエスさまを受け入れることであるということと対称的です。以下にイエスさまが、幼子をつまずかせるということについて強く警告なさっているかが伝わってきます。
 ここでいわれている「つまずかせる」ということですが、これは例えば歩いていて石や段差にけつまずくことをいう言葉です。そこから、信仰を挫折させることを指す言葉となりました。つまり、神さま、イエスさまを信じることを挫折させてしまうようなことをすることです。
 そしてここから言われている「小さな者」というのが、幼子のことだけではなくて、幼子のように疑いのない、すなおな心で信じようとする者を含めておっしゃっていることが分かります。だから、大人であっても、幼子のようなすなおな心で救いを求める、あるいは神を信じようとする者もこの「小さな者」に含まれています。あるいはそれだけではなくて、幼子のように軽く扱われている人のことも含まれていると言えるでしょう。おとなは、「子供だから」といって軽く扱う。神を求めているのに、軽く扱われる人。それもまたここで言われている「幼子」に含まれていると言えるでしょう。
 その幼子のような小さな者をつまずかせることが、どうしてそんなに大きな罪となるのか。それを考えてみたいのですが、前回の説教でも申し上げましたように、幼子は素直であり疑うことを知りません。教えたとおりに信じます。この前申し上げましたように、私がかつて幼稚園で奉仕をしていたときに喜びであったのは、幼子のそういう性質です。お祈りを教えれば、すなおにお祈りいたします。ですから、逆にこちらもいい加減なことは言えないなと思う。
 私の娘がまだ保育所の年中さんの頃だったと思いますが、うちで飼っていた金魚が死にました。そこで「金魚のお墓を作ってあげようね」と言って、庭の片隅を掘って、金魚を埋めました。そして、一緒にお祈りをしました。そして私は、「金魚は天国に行ったからね」と娘に言いました。そしてそれから2時間ほど経ってからでしょうか、ふと庭を見ると娘がさっき金魚を埋めたところを手にシャベルを持って掘り返しているんですね。私はびっくりして、「何しとる?」と聞きましたら、娘は「金魚が天国に行ったかどうか、たしかめてみる」と答えたんです。私はあわてて説明しました。「いや、天国に行ったのは金魚の体じゃなくて、金魚の魂なんだよ」と。すると娘は、またふしぎそうな顔をしたことを、忘れることができません。そして私はその後、真剣に考えたものです。「果たして金魚は天国に行くんだろうか。いや、少なくとも天国に迎えてくれるように神さまにお祈りするのは許されている‥‥」というふうに、金魚の神学を考えたりしました。いい加減なことは言えないなと。幼子はすなおです。教えたとおり信じます。だからこそ、こちらも襟を正される思いがいたします。
 そしてイエスさまは、その幼子を喜ばれる。そしてそれと同じように、幼子のようなすなおさをもって道を求めてくる人々を本当に喜ばれる。だからこそ、その信仰心をつまずかせるようなことについて、怒りをもって警告なさっていると言えます。
 
   分け隔てをする
 
 さて、そうすると私は、私自身の経験をどうしても思い出してしまいます。私は高校生までは地元の教会に通っていましたが、大学に進学し、郷里を離れました。そしてその大学の学生寮に住むようになりました。そこに引っ越して、日曜日に教会に行くことにしました。そして電話帳で教会を調べ、寮から比較的近いところにある教会に行ってみました。そこでつまずきました。理由は、そこの副牧師の先生が、私に教会の紹介をしてくれたのは良いのですが、教会の自慢話をしたんですね。その自慢というのも、この教会には議員さんとか社会的に地位のある人々がたくさんいるということを話したんです。それで私はがっかりしました。この世の中の人と一緒だな、と思ったんです。それで「こんな教会は二度と来ない」と思って帰りました。
 また次に行った教会では、そこの教会員である大学教授にひどい目に会わされました。それで、もう教会には行かないと決めて、その後学生時代は教会から離れてしまったんです。そういうことを思い出します。
 そうすると、大学生になってから最初行った教会のその副牧師、そして次に行った教会のその大学教授は、いずれも大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められたほうがマシだということになります。つまり、地獄行きだということです。前の聖書の箇所で、幼子のように自分を低くする人が天国で一番偉いのに対して、その幼子のような人をつまずかせる人は地獄行きであるという対比になっているわけです。
 しかしそのように言われますと、「じゃあ、この私自身はどうなんだろう?」と不安に思います。‥‥自分は人をつまずかせたことがないと言えるのか? いや、そんなはずはない。自分も気がつかないところで、多くの人をつまずかせているに違いない。そうすると、私も大きな石臼を首に懸けられて海に沈められたほうがマシだと言われるに違いないと思えてきます。
 
   自分をつまずかせる
 
 8節には「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい」と言われていて、ここからは他人をつまずかせるという話しから、自分自身をつまずかせるという話しになっています。すなわち、小さな者をつまずかせることは、自分自身をつまずかせることだというのです。自分がキリストにつまずくことだからです。
 そして、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい‥‥」というように言われている。これもたいへん厳しい言葉です。しかし考えてみると、自分の手や足がつまずきのもとになるというのなら、むしろ分かりやすい話です。その手や足を切って捨てれば良いのですから。しかし問題は、手や足どころの問題ではないということです。自分自身の心が悪いんですから。だから心を切って捨てるしかない。しかしそうなると、それは死ぬということです。心が悪いんだから死ぬしかない。死んでしまったほうがマシだということになる。
 ‥‥そういう自分であることが分かってきます。神さまから見て、私は生きている資格もない。しかしそのとき、実はこの自分が取るに足りない「小さな者」であることが分かってきます。主の言葉の激しさの前に、自分の罪が指摘されて、この自分もまた小さな者であることが見えてくる。本当に小さな小さな者です。この私たちもです。
 
   天使が仕えている
 
 そのように自分が本当に小さな者であることが見えてきたとき、イエスさまが続けて語られたみことばが心に聞こえてまいります。
(10節)「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」
 幼子に天使が仕えている。それと同じように、この私にも天使が仕えていてくれる。驚きとなって聞こえてきます。
 最初に創世記28章12節を読んでいただきました。‥‥兄のエサウをだまして父の祝福を奪い、兄の怒りを逃れていくヤコブ。孤独な夜を迎え、ひとりで野宿し、石を枕に眠りについたとき、神は天国の階段を見せて下さいました。ひとり孤独に眠りについたヤコブの枕元に階段があって、天国まで達していた。そしてそこを、御使いたちが行き来していたのです。見捨てない神。
 私たちイエスさまを信じる者には聖霊が与えられているばかりか、神の御使い、すなわち天使が神との間を行き来して仕えていてくれるという。この石臼を首に懸けられて海に投げ込まれたほうがマシな、この私たちのためにです。なぜそんな神のあわれみが私たちに与えられるかというと、それはこれらの言葉を語られたイエスさまが、十字架にかかって下さったからに他なりません。そうして罪を償って下さったんです。
 石臼を首に懸けられて海に沈められたほうがマシだというこの私たちのために、地獄へ落とされて当然の私たちを救うために、この小さな小さな私たちのために、命を捨てて下さったイエスさま。このイエスさまをすなおに信じることによって聖霊が与えられ、さらには天使が仕えてくれている。この私たちが、本当に神の御心に沿って生きていけるようになるためにです。


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