2020年10月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記21章17
    マタイによる福音書18章1〜4
●説教 「子供に見る天国」

 
   偉くて愚かな質問
 
 イエスさまの物差しと人間の物差しは、かなり違っているところがあります。私たちが価値あるものと思っていることが、イエスさまにとってはそうではなく、逆に私たちが価値がないものだと思っているものが、イエスさまにとってはかけがえのない尊いものとみられる、というようなことです。その価値観の違いというものが、私たちにとっては意外に思われ、驚きとなる。そういう驚きに出会うのが、聖書を読む喜びの一つであると思います。きょうの聖書もそういうところがありまして、私たちにはまことに意外に思われることが言われています。
 本日からマタイ福音書も18章に入りますが、「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」とはどのときかというと、これは前の箇所の続きということになりますが、ガリラヤ湖のほとりのカファルナウムの町にありましたペトロの家でのことと思われます。そこで弟子たちがイエスさまに言うには、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と。天の国、すなわち天国であり神の国ですが、そこでは誰が一番偉いのかとイエスさまに尋ねたというのです。
 何か唐突な質問です。何でそんなことを弟子たちはイエスさまに尋ねたのかということですが、おそらく前の17章の最初には、いわゆるイエスさまの「山上の変貌」と呼ばれる不思議な出来事がありました。そのとき、イエスさまにその高い山に連れて行かれたのは弟子たち全員ではなかった。ペトロとヤコブとヨハネの3人だけでした。もちろん、イエスさまがその3人を連れていったのには何か理由があったに違いないのですが、その3人が連れて行ってもらえたということ。‥‥たとえばそのようなことがあって、この3人が他の弟子たちに向かって、「どうだ、俺たちはお前たちより偉いんだゾ」‥‥というようなことを言ったかどうかは知りませんが、何か優越感のようなものを持ったのかも知れません。そこで弟子たちの間で、いったい誰が一番偉いかという議論になったのかも知れないのです。
 そのように人間に優劣をつけようとする。しかしそれは私たち人間の姿そのものだと思います。この世の中では、誰が偉いか、誰が優秀か‥‥などと比較し、優劣をつけています。弟子たちもまさに同じような発想をしていることが分かります。
 
   子供が一番偉い
 
 そうすると、イエスさまは一人の子供を呼び寄せて彼らの真ん中に立たせ、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とおっしゃったというのです。
 この子供ですが、子供と言っても赤ちゃんから小学生・中学生ぐらいまでいるわけで、どれぐらいの子供だろうかと思いますが、ギリシャ語の言語では小さい子供のことを指す言葉が使われていて、「幼子」という日本語に訳している聖書もあります。ですから、だいたい保育所や幼稚園児ぐらいを想像しても良いでしょう。その子を目の前にして、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたんです。
 もう、こうなりますと、誰が偉いどころの騒ぎではありません。天の国に入れるかどうかの大問題になっているんです。しかも「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と。決して入れないんです!
 このように聞くと、「あ〜、私はダメだ、入れない」とか、「もしかしたら入れるかも」とか、いろいろなことを思うでしょう。しかし、実際に入ることのできる人がいると言うんです。しかも何か難しいことをおっしゃっているのでもない。実際に目の前に子供を連れて来て言われ たんです。実際に天の国に入ることのできる人が、ここにいると、事実をおっしゃったんです。そして、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と。
 天の国、すなわち神さまの世界では、子供が一番偉いとは、驚きです。私たちは子供に聖書の話しをするときに、「あなたたち子どもにはまだ難しいけれども、大人になったら分かる」と言ってしまいがちですが、これも逆だということになります。むしろ、大人には分からない、いや、分からなくなってしまったんです。
 
   子供の何が偉い?
 
 ただ注意して見なければならないのは、ただ子供のようになれとイエスさまはおっしゃっているのではないことです。ただ子供のようになれということになりますと、世の中には「子供みたいな人」というのがいます。‥‥わがままで、自分勝手で、無責任で脳天気‥‥というような人です。しかしここでイエスさまがおっしゃっているのは、子供のそういう面ではないようです。イエスさまがおっしゃっているのは、「自分を低くして、この子供のようになる人」です。つまり、自分を低くしているという点です。
 「偉い」という意味のギリシャ語は、メガスという言葉で、巨大という意味です。偉いが大きいとしたら、低くするというのは、小さくするということです。偉大ということとは反対です。その偉大の反対である人が、偉大だというのは、なんだかユーモアのようにも聞こえますが、そういうことです。
 私は、今まで何度か幼稚園に関わったことがあります。私が牧師をしていた教会に直接には幼稚園はなかったんですが、隣の教会の幼稚園の副園長兼事務員をしたり、あるいは幼稚園のチャプレンを務めたり、あるいはこちらに来る直前には小さな幼稚園の園長を務めたりもしました。園長といっても、小さな幼稚園では事務員を兼ねたような形になりますので、それこそ多忙を極めたわけです。県庁に提出する書類を整えるなど、不慣れな仕事に忙殺されている日々の中で、至福の時がありました。それは園児と共に礼拝をするときであり、また園児と共にお昼ご飯をたべる時でした。
 礼拝で説教をすると、その幼子たちは目を輝かして聞いてくれます。うなずいたり、笑ったり。喜んでイエスさまのお話しを聞いてくれる。「お祈りします」といってお祈りをすると、みんな大きな声で「アーメン」と言います。そこには何の疑いもない。すなおです。ですから私は子供と一緒に礼拝するのが大好きでした。お昼ご飯のときには、保育室に入って一緒にお昼をいただきました。テーブルにつくときに、「園長先生、ここに座ってもいい?」と聞くと「いいよ!」と言って隣に座らせてくれます。そしてすぐに受け入れて、友だちになってくれます。幼子はケンカもします。しかし、先生がきちんと叱ると、時には泣きながらも、お互いに謝ります。そしてすぐに仲直りする。幼児に対しては、「こんなこと言って、あとから根に持たないかなあ?」などと心配する必要はありません。悪いことは悪いときちんと言えば、すなおに分かってくれます。幼児は根に持ちません。裏表がありません。楽です。
 大人はどうでしょう?‥‥大人に注意するというのはたいへんですね。根に持ったり、悪意を抱いたりされかねません。教会に誘っても興味を持ちません。神さまと言っても、信じません。それどころか、神さまよりも自分のほうが高い所に立って、神など信じないとか、神さまを上から目線で見ます。
 それに対して幼子はどうでしょう。幼子は自分を低くしているとイエスさまはおっしゃいます。幼子は親、あるいは保護者がいなければ生きていけないことを本能的に知っています。自分が小さいものであることを知っています。だから親に頼り、保護者に頼ります。神さまに頼ることを教えれば、神さまに頼ります。すなおです。
 イエスさまは、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」とおっしゃいました。これは何か途方もないことをおっしゃてるんじゃないんです。なぜなら、私たちにもこのようなときがあったからです。私たちにもたしかに幼子の時があった。ですから、あの頃に戻れということです。自分を低くして、神さま、イエスさまに頼らなければ自分には何もできないことを悟り、すなおに信じて行けと。
 
   キリストによって
 
 あの幼子の心に戻りたい。しかしそれはなかなか難しいことです。この罪の世の中で私たちは生きてきました。傷つけられ、だまされ、失敗を重ね、過ちを重ね、年を取ってしまいました。今さらどうなるという思いが先立ちます。
 聖書の中に出てくる人に、ニコデモという人がいます。ヨハネによる福音書の2章に登場します。この人はユダヤ人の議員であったというのですから、地位も名誉もあった人でした。しかも、イエスさまとは対立しているファリサイ派の人でした。しかし人の心の中というのは、外からは分からないものです。この人は、人目に付かない夜に、こっそりイエスさまのところに教えを乞いに来たんです。
 おそらくこの人は人生やり直したいと思っていたんでしょう。その心をイエスさまは見抜いておられました。それでイエスさまは彼におっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われたんです。それでニコデモはすぐに尋ねました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか?」
 人生やり直したい。あの幼子の頃に戻りたい。でも時間の針を戻して、もう一度母親の胎内から始めることなどできないじゃないですか? いったいどうしたらいいんですか?‥‥
 するとイエスさまはお答えになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」‥‥あなたはもう一度新たに生まれることができる。聖霊によって生まれることができる。キリストを信じて、聖霊を受けて、その聖霊によって新しく生まれることができる。
 それゆえ、新しく生まれることには年齢は関係ありません。たとえ時間の針を戻すことができて、母親の胎内に返って、そこから生まれてやり直すことができたとしても、もしキリストを信じなかったとしたら、同じことです。やり直した意味がありません。しかしキリストによって新しく生まれることができる。
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とイエスさまはおっしゃいました。心を入れ替えて子供のように自分を低くすることも、難しいことに違いありません。しかしそれもキリストを信じて、聖霊をいただいて、その聖霊のお働きによって、この自分を低くしていただくんです。なぜなら、聖霊なる神さまは、私たちを神の前に低くするようにしてくださるからです。そうして私たちが、天の国の祝福を受けることができるようにしてくださるんです。
 
   イエス・キリストの低さ
 
 そしてなによりも、私たちの主イエス・キリストこそが、最も低くなってくださった方であることを忘れてはなりません。弟子たちはイエスさまに尋ねました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と。
 ふつうに考えれば、天の国、すなわち神の国でいちばん偉いのは、父なる神さまであり、イエスさまです。ということは、神さまイエスさまこそ、一番ご自分を低くして下さったということになります。そして、それはその通りです。しかしイエスさまは、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」とおっしゃっています。ということは、イエスさまこそ自分を最も低くされた方だということになります。事実その通りで、フィリピの信徒への手紙に次のように書かれています。
(フィリピ 2:6〜11)「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
 この私という罪人を救うために、十字架に死に至るまで低くへりくだってくださった。この方に頼っていくのです。幼子が、親に頼らずには生きていけないことを知っているようにです。


[説教の見出しページに戻る]