2020年10月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教/世界聖餐日・世界宣教の日
●聖書 出エジプト記13章13節
    マタイによる福音書17章22〜27節
●説教 「魚の口から銀貨一枚」

 
   世界聖餐日・世界宣教の日
 
 本日は世界聖餐日であり、また世界宣教の日です。世界聖餐日は、1940年(昭和15年)にアメリカ連邦教会協議会で教派を超えた祝日として定められました。時は世界が戦争へ突入していった時代です。しかし世界中のキリスト者が、主の食卓である聖餐にあずかることで一つであることを確認することをもって、平和を願ったのです。
 また日本キリスト教団では、この日を同時に世界宣教の日としておりまして、世界に派遣された宣教師を覚えて祈るようにしています。日本キリスト教団の派遣宣教師は、海外にある日本語教会に遣わされることが多いです。日本にいるとなかなか教会に行くという気にならないけれども、海外ではじめてキリスト教会に行ってみるという人も多いようです。海外の日本語教会の働きは、そのように現地にいる日本人クリスチャンのためだけではなくて、ちゃんと福音伝道のために用いられているんです。私たちもこれらのことを覚えて祈る者でありたいと思います。
 
   受難と復活の予告
 
 さて、本日の聖書マタイによる福音書の箇所ですが、イエスさまが再びご自分の受難、すなわち十字架の予告をなさることから始まっています。そして、弟子たちが非常に悲しんだと書かれています。
 イエスさまは、ご自分が「人々に引き渡されようとしている」とおっしゃいました。引き渡されるというのは、十字架につけられるために引き渡されるということですが、ここで注目したいのは「人々に、引き渡されようとしている」と書かれていることです。「人々に」ということは、人間にということです。
 これまでイエスさまは、自由に行動されてきました。しかしそのイエスさまが、人々に引き渡されようとしている、すなわち人間の手に渡されて、人間の好きなように扱われるということになります。そしてその結果が「殺される」ことになるというのです。人間の手にイエスさまが渡された結果、殺されることになるんです。すなわち、人間は神の子であるイエスさまを抹殺するんです。否定するんです。神の子を抹殺するということは、すなわち神を抹殺するということです。神を否定するんです。それが私たち人間であるということです。人間の罪です。
 もっと具体的にいうと、今までイエスさまがご自分のご計画に従って自由にしておられたのが、私という人間の手に引き渡されるとどうなるか。私たちはイエスさまを私たちの思うがままにしようとする。それがイエスさまを抹殺することになるということです。このことから教わることは、イエスさまを、言い換えれば神さまを、私という人間のものにしてはならないということです。逆に、私たちがイエスさまのものになるべきだということです。
 人間の手に引き渡された結果、イエスさまは十字架にかけられ殺されることになる。しかしその死んだイエスさまが父なる神さまの手に戻され、3日目に復活するということです。人間の手に引き渡されると死ぬこととなり、神の手に戻されると生きることになる。そう予告されています。
 これらのことを聞いて、弟子たちは「非常に悲しんだ」。「殺される」のほうは耳に入っているんですが、「3日目に復活する」というほうは聞こえていない。復活、すなわちよみがえりなどということは信じられないんです。当たり前といえば当たり前ですが。人間の罪のゆえに、悲しみで終わってしまう人間の姿がここに表れています。しかしそれを打ち破る神の力が復活です。聖書は、人間の罪のゆえの絶望だけではなく、神の力による希望を同時に語っているんです。
 
   神殿税
 
 続く24節からは、神殿税というものをめぐりやりとりについて書かれています。神殿税とは何かといいますと、先ほど旧約聖書の出エジプト記30章13節も読んでいただきましたが、そこに書かれているのが神殿税というものです。もともとは「神殿税」などという言葉は使われていませんでした。出エジプト記では、「命の代償金」と呼ばれています。それは、罪を赦していただく感謝として神さまにささげる献金です。イスラエルの成人男子は、毎年この代償金を払うようにモーセによって定められていました。
 その神殿税を集める人が、イエスさまの弟子のペトロの所に来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか?」と尋ねたという。するとペトロは「納めます」と即答しています。イエスさまに聞かずに答えています。ですから、当然納めるべきものと考えていたことが分かります。
 すると家に入られてからイエスさまがペトロに尋ねました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
 今日では総理大臣でも税金を収めるわけですが、昔の王様というものは、もちろん自分は税金を払わないし、自分の子どもからも徴収しませんでした。このイエスさまの問答は、要するに、神殿税は神さまへの献金なのだから、その神の子であるイエスさまは当然納める必要がないということです。イエスさまはそうおっしゃりたいわけです。これは分かりやすい話ですね。ただ問題は、世間の人々は、誰もイエスさまが神の子であるということを知らないということにあるわけです。
 
   罪を贖う方が
 
 そしてここではそれだけで説明を済ませず、さらにもう少し踏み込んで考えたいと思います。先ほど、ここで「神殿税」と呼ばれているものが、もともとは旧約聖書の出エジプト記では「命の代償金」(出エジプト記30:12)と呼ばれているんです。それは罪を赦していただき、災いが降りかからないようにするためのものでした。
 しかしもちろん、それは旧約聖書の話しですから、罪を赦していただき、自分の命を贖うことは本当にはできないんです。つまりそれは、やがて救い主が現れたときの予言であるということです。やがて救い主が来られたときに、この旧約聖書の預言は成就することになる。罪が本当に赦され、命が贖われ、新しい命が与えられる。そのことをはるか昔から指し示しているのが、この出エジプト記に書かれている命の代償金であり、贖い金なのです。
 さて、そうすると、それはまさに救い主であるイエスさまのことを予言していたということになります。イエスさまがきょうの聖書の最初の所で語られた十字架と復活の予言。イエスさまが十字架にかかられることこそが、まさに私たちの命を贖うことになった。このことを思い起こさなければなりません。イエスさまが、このあと十字架におかかりになって、ご自分の命をもって「贖い金」として支払ってくださったんです。
 もう一度繰り返しますと、イエスさまは十字架で、ご自分の命を私たちの代わりにささげて下さった。ご自分の命をもって、私たちを救う贖い金として、命の代償金として支払ってくださったんです! この私たちを、この私を救うためにです。
 さあ、こう考えていきますと、ますますイエスさまが神殿税を払うというのは、とんでもなくおかしなことであることが分かってきます。ご自分の命と引き換えに私たちの命を贖うために十字架に行かれるイエスさまに、命の贖い金である神殿税を請求するということが。それは、イエスさまに取ってみれば、自分に向かって神殿税を払うようなものです。
 しかしもちろん、弟子であるシモン・ペトロもこれらのことは分からなかった。これから起こる十字架が何であるかも分からなかった。
 
   つまずかせないように
 
 ですから、本来はイエスさまは当然払う必要はないわけです。いや、払ってはおかしいわけです。しかしイエスさまはおっしゃいました。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と。そして払うことになさった。
 「つまずかせる」という言葉の意味ですが、ギリシャ語でいうと、「(文字通りの)つまずかせる」、すなわち石につまずいて転ぶというような意味の他に、「罠を仕掛ける」「罪を犯させる」「不快で信じられなくなる」というような意味があります。
 人々はイエスさまが神の子であり、しかも十字架にかけられてご自分の命をもって私たちの罪を贖い、命を贖ってくださる方であることを知らない。だからといって、いきなり「イエスは神の子であり、あなたがたの命を贖ってくださるのだから、神殿税など払わない」と言っても誰も理解できません。それどころか、イエスは義務を果たず神をないがしろにする悪い者だということになり、誰もイエスさまの言うことを聞かなくなるでしょう。すくなくとも、彼ら神殿税を集める人は、神さまのご用のために集めていると信じているわけですから。
 それでイエスさまは、「わたしは神の子だから納めなくても良い」と言ってもよいところを、それでは人々がつまずくということで、一歩ゆずって、納められるというのです。それは人々を本当の救いに導くために、譲られるんです。
 私たちはこのことを覚えておく必要があります。教会は真の神さまを信じています。天地の造り主である真の神さまを信じています。そして、私たちを救ってくださるイエス・キリストを信じています。これは全く神の御心にかなうことであり、正しいことです。しかしだからといって、世の中はみな間違っている、世の中の人の言うことなど聞かない‥‥などと言ってしまってはならないんです。それでは人々が、教会の語る言葉に耳を傾けない。つまずいてしまうでしょう。
 私たちは、イエスさまでさえも、人々をつまずかせないために一歩譲られたことを思い出さなくてはなりません。なかなか真の神さまと救い主であるイエスさまを信じないことを、世の中のせいにしてしまってはならないんです。低くへりくだって、粘り強い祈りをもって仕えていくんです。そもそも私たちが信仰に導かれたのも、クリスチャンたちがそのようにして影で仕えてくれたからではなかったでしょうか。
 
   魚の口から銀貨一枚
 
 さて、こうしてイエスさまは、神さまのために働いている人々がつまずかず、真の救いに導かれるために、神殿税を払うことになさいました。しかしその方法がまことに変わっていました。聖書に書かれているように、ガリラヤ湖に行って魚釣りをしなさいと言うんです。そして最初に釣れた魚の口に銀貨が一枚入っているから、それで私とあなたの分として神殿税を納めなさい、とおっしゃったんです。
 まるでマジックのように見えますが、なぜこんな手の込んだことをなさったのか。まず、イエスさまご自身が財布を持っておられたのかどうか。持っていらっしゃらなかったかも知れません。ヨハネによる福音書の12章6節を見ると、イエスさま一行の会計係をイスカリオテのユダがしていたことが分かります。そしてそれは、イエスさまと弟子たちの集団の会計であったのです。それは、イエスさまの弟子たちが献げたもの、また人々が自発的にイエスさまのご用のためにと献げたもので成り立っていたことでしょう。しかしイエスさま個人のお財布ではなかった。そういうこともあったんだろうと思います。
 それでイエスさまはペトロに釣りをするようにおっしゃった。そして、最初に釣れた魚の口に一枚の銀貨があるとおっしゃった。
 ちなみに、この魚は現在では「セント・ピーターズ・フィッシュ」と呼ばれています。聖ペトロの魚という意味です。私も以前ガリラヤ湖に行きましたときに、そのそばのレストランで食べました。これがその写真です。食べかけですみませんが。唐揚げにしたものでした。白身で、たいへんおいしい魚でした。ちなみに、イスラエルでは何を食べてもおいしかったことを思い出します。
 この魚は、カワスズメ科のティラピア属の魚だそうです。カワスズメ科の魚というのは、卵からかえった稚魚を、親が口の中に入れて育てることで有名だそうです。子どもの魚が危険を察すると、親の口の中に逃げ込むんです。何十匹と。ですから、口の中に入れることには慣れている魚と言えるでしょうか。
 それにしても、イエスさまはなんでもお見通しであることが分かります。そして、何もご自分のお金は持っていなかったイエスさまが、このような形でご自分の分の神殿税を用意なさったということを読むと、私はなんだか楽しくなるんです。それはたとえ私たちがお金に困るようなことがあったとしても、心配はないとイエスさまが言われているように思えるからです。いざとなれば、魚の口に銀貨が一枚あることをご存じで、思いもかけない仕方で用意してくださるということを信じていいのだと、おっしゃっておられるように思えるんです。実際、私もそうだったと振り返ることができます。ピンチの時も、イエスさまが思わぬ方法で助けてくださったことを思い出すことができます。
 私たちの命を、ご自分の命をもって贖ってくださるイエスさま。その愛をあらためて思うことができます。 


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