2020年9月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書14章23節
    マタイによる福音書17章14〜20節
●説教 「からし種一粒の信仰」

 
   117歳の方・追伸
 
 先週の説教で、敬老祝福式を覚えて、世界最高齢者であり、かつ日本歴代最高齢者の記録を塗り替えた117歳の福岡市の田中カ子(たなか・かね)さんのことをご紹介しました。そうしましたら、そのあとキリスト教メディアの報道で、田中かねさんがクリスチャンであることを知りました。田中さんは、福岡市の日本バプテスト連盟・西戸崎キリスト教会員だそうです。
 田中さんは、1903年(明治36年)1月2日、福岡県の農家に9人兄弟の7番目として生まれました。そして19歳の時にいとこの英男さんと結婚しました。終戦後、1953年に英男さんが洗礼を受け、かねさんも1961年に洗礼を受けたそうです。そして103歳まで教会の礼拝に出席していたそうですが、それ以後は、入所している老人ホームで半年に一度牧師が出張して行われる礼拝を守っているそうです。現在は新型コロナウイルスのために出張礼拝はできなくなっているとのことです。
 田中カ子さんには、ぜひモーセの120歳まで元気でいてほしいと思いました。
 
   本日の聖書箇所のあらすじ
 
 さて、本日の聖書箇所ですが、前回はいわゆる「山上の変貌」と呼ばれる出来事がありました。そこでは天の国が垣間見えました。イエスさまが本当はどういう方であるかということが、強く印象づけられました。
 そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人と共にイエスさまが山から降りてこられました。すると山の下で待っていた弟子たちのところに人々が群がっていた。すると一人の人がイエスさまのところに近寄り、てんかんの息子を癒やしてください、イエスさまの弟子のところに連れてきたけれども、癒すことができなかったという。するとイエスさまは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか‥‥」と言って嘆かれ、その子を連れて来るように言われた。そしてイエスさまが悪霊をお叱りになると、子どもは癒された‥‥。あとから弟子たちがイエスさまに、「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか?」と尋ねると、イエスさまは「信仰が薄いからだ」とおっしゃり、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と言われました。
 そのように、弟子たちにはこの子を癒すことができなかった。しかしイエスさまはお癒やしになった。そして、信仰の驚くべき力について語られたというのが、きょうの出来事です。
 
   からし種一粒の信仰
 
 イエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」とおっしゃいました。ところが弟子たちには、病気の子どもを癒すことができなかった。ということは、弟子たちには、からし種一粒の信仰もなかったということになります。イエスさまは、「信仰が薄いからだ」とおっしゃっていますが、この「信仰が薄い」というギリシャ語は「信仰が小さい」という言葉です。小さいんです。
 そして、どれだけ小さいかと言うことですが、ここで出てくるからし種というのはクロガラシという種類のからしで、これはたいへん小さいものの代名詞として使われる言葉です。たとえばマルコによる福音書4章31節では、イエスさまが神の国のたとえ話を話しておられますが、そこではからし種が「地上のどんな種より小さい」と言われています。そのように極めて小さいもののたとえが、からし種です。そのからし種よりもさらに小さい信仰となりますと、それはもうほとんど「ない」と言っているようなものです。あるのかないのか分からないぐらい小さい。ほとんど「ない」んです。
 さて、そうしますと私たちは首をかしげたくなるのではないでしょうか。なぜなら、弟子たちはイエスさまを信じていたからこそイエスさまについて来ているのではないかと。そう思うわけです。それなのに、その弟子たちが「信仰が薄く」小さく、からし種にも満たない、無いに等しいとなると、それはいったいどういうことかとなります。
 弟子たちだけに限ったことではありません。この私たちもそうです。この私たちにしても、たしかに立派な信仰などとはとても言えませんが、無いに等しいと言われますと、納得がいかないのではないでしょうか。少なくとも、イエスさまを信じているから洗礼を受けて教会に来ているのであって、また礼拝の中で信仰告白をしているのです。またたしかに、私たちが山に向かって「ここから、あそこに移れ」と命じたとしても、山はびくとも動かないだろうことは分かります。
 しかしイエスさまは、からし種一粒ほどの信仰があれば、山に動けと命じれば言うことを聞くとおっしゃったわけですから、私たちにはやはりからし種一粒の信仰もないということになります。すなわち、信仰が無いに等しいと。そうすると、ここで言われている「信仰」とはいったいどういうものかということになります。
 
   イエスの権能
 
 聖書を振り返りますと、弟子たちが悪霊を追放したり病気を癒したりしたことがあったことを思い出します。このマタイによる福音書で言えば10章1節ですね。そこではイエスさまが12弟子に、穢れた霊を追い出して、あらゆる病気や患いを癒すための権能をお授けになったと書かれています。イエスさまが弟子たちにそういう力を授けたと。弟子たちが癒やしの力を持っていたのではない。イエスさまが授けたんです。しかしきょうのこのときの弟子たちは、何か自分にそういう力があるんだと錯覚してしまったのかもしれません。
 きょうの聖書の17節をもう一度見てみましょう。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
 イエスさまは、「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」とおっしゃっています。子の病気の息子を持つ父親は、子どもを弟子たちのところに連れて行った。でもダメだった。それに対してイエスさまは、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」とおっしゃっているんです。弟子たちのところにではなく、わたしのところにと。よく見ると、「その子をここに、わたしのところに」と言っておられます。これはちょっとくどい言い方のように聞こえますね。「その子をここに連れてきなさい」で十分ですし、あるいは「その子をわたしのところに連れてきなさい」でも十分伝わります。なのにイエスさまは、「その子をここにわたしのところに」と、イエスさまのところに連れて来ることを強調しておられるんです。
 すなわち、イエスさまのところに連れて行くということです。弟子たちのところにではなく、私たちのところにでもなく、イエスさまのところに連れて行く。イエスさまのところに案内するということです。
 
   信仰が薄い
 
 そして信仰ですが、そのような信仰自体が私たちのものなのではなく、聖霊の賜物であるということです。
 新約聖書のコリントの信徒への手紙一の12章に、聖霊の賜物について書かれている箇所があります。聖霊の賜物というのは、聖霊が与えてくださるものということです。
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(Tコリント 12:4〜10)
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
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 この9節で言う「信仰」が、きょうのところでイエスさまがおっしゃっている、山に命じたら山もそれに従うような信仰であると考えられます。そのように、信仰もまた神さまから、聖霊から与えていただくものであります。
 チイロバ先生こと榎本保郎先生の言葉が忘れられません。それは「信仰は24時間しかもたない」という言葉です。たしかにそうだなと思います。きょう礼拝で恵みを得て平安に満たされても、次の日起きると、もういろいろな心配事で平安を失ってしまうということがよくあるわけです。あるいはまた、テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節で
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と教えられているのに、その時は主に感謝し喜んでも、数時間後にはちょっとしたことで腹を立て、あるいは不平不満でいっぱいになってしまっているような自分がいます。
 私たち自身には信仰がないんです。残念ながら、からし種一粒の信仰もない。だから、主から与えていただくんです。イエスさまのところに行くんです。礼拝して、お祈りをして。そして聖霊の賜物をいただくんです。主から賜る信仰です。
 
   山も動く
 
 またもう一つ付け加えておけば、「この山があちらに動く」ということが、神の御心であると信じられなければなりません。自分の勝手な思いで動けと命じてもダメなんです。
 たとえば、イエスさまが世に出られる前、荒れ野で40日間の断食をなさいましたが、悪魔が来てイエスさまを誘惑いたしました。断食してお腹が空いているイエスさまに対して、「あなたが神の子なら、これらの石ころがパンになるように命じたらどうですか」と言いました。するとイエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、と書いてある」と答えられました。そして石をパンに変えることはなさいませんでした。そのとき石をパンに変えることが神の御心ではないということを知っておられたんです。そしてすべてを神さまにゆだねられたんです。そのようにイエスさまと言えども、父なる神の御心を第一に従われました。
 もし山に命じれば山も動くからと言って、神の御心と反して自分勝手に山を動かしたとしたら(もちろんそんなことできるはずもありませんが)、それは自分が神さまになってしまうということであり、それこそ信仰ではありません。信仰とは、三位一体の神さまを信じることです。神さまを信頼することです。
 しかし、いっぽうで「神にはできないことはない」のは事実です。それは聖書が力を込めて断言することです。
 神にはできないことはない、その神さまが、この人間である私たちを用いて不可能を可能へと変えてくださるんです。神さまが私たちを用いられるのですから、その神さまの御言葉を聴かなければなりません。そして神さまが私たちを用いてことをなさろうとするとき、その神さまには不可能なことがないんです。
 日々、神の言葉に耳を傾け、そして信仰を与えていただきたいと思います。


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