2020年9月20日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編104章1〜4節
    マタイによる福音書17章1〜13節
●説教 「開かれた天」

 
   敬老とモーセ
 
 本日は例年ならば敬老祝福合同礼拝で、教会学校の子どもたちと共に守る礼拝であり、礼拝後は愛餐会を開くのですが、ご存じのとおり新型コロナウイルス対策で中止といたしました。しかし礼拝後に教会学校で作成したカードをお渡しし、先輩のみなさまを祝福したいと思います。
 新聞報道によりますと、今年の日本人の最年長の方は、福岡市にお住まいの田中カ子(かね)さんというご婦人で117歳だそうです。田中さんは日本だけではなく世界最高齢だそうです。さらに田中さんは、これまでの日本の最高齢記録を昨日抜いて、日本歴代最高齢記録を打ちたてたそうです。田中さんは老人ホームで暮らしておられ、オセロ風ゲームを楽しむなどして過ごしておられるそうです。そしてご家族によると、120歳まで生きることを目標としているということです。
 120歳といいますと、今日登場する旧約聖書の超有名人モーセが120歳まで生きました。この120歳という数字ですが、旧約聖書の創世記6:3にこのように書かれています。
"「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。」こうして人の一生は百二十年となった。"‥‥神さまが、このとき人の寿命を120年と決めたというのです。そしてモーセは、その限界の120年まで生きたんです。
 120歳というと大長寿ですが、しかしそのモーセも死んだことには違いありません。出エジプトという大事業のために神さまによって選ばれ、用いられたモーセ。そして旧約聖書の根幹である十戒をはじめとした律法を神さまから直接授かったのもモーセでした。しかしそのモーセも、今から三千数百年前に死んだのです。
 そしてそのモーセが、千数百年ぶりに登場しているのがきょうの聖書箇所です。
 
   おとぎ話か現実か
 
 きょうの聖書をお読みになって、「なんだかおとぎ話みたいだなあ」と思われた方もいるでしょう。マタイによる福音書をご一緒に読んできて、山上の説教などの尊い教えがありました。病気の人を癒されるという奇跡や、わずかのパンと魚でおおぜいの人々の空腹を満たすという奇跡もありました。しかしきょうの聖書に書かれている出来事は、何かそれらの奇跡とはかなり違った印象を受けるのではないでしょうか。急に何かおとぎ話の世界に入ってしまったような、たとえば竹取物語のラストシーンのような、そんな印象をお受けになるかもしれません。「きょうの聖書は事実ではなく、夢物語か何かだ」と思う方もいるかもしれません。
 しかし、とてもこの世の出来事とは思われないから事実ではないというのでしたら、そういうことはこの世の中にたくさんあるのではないかと思います。たとえば、この私たちが生きている世界である宇宙は、現代科学によれば、今から百数十億年前に突然誕生したということです。その誕生した時の宇宙というのは、今の宇宙よりもずっとずっと小さくて、針の先ほどの点にすぎなかった。しかしその百数十億年前に突然誕生した宇宙は、どんどん膨張し、そしてその中にやがて星が誕生していって、太陽系もできていったのだ‥‥と説明されます。これも普通に聞いたら、私たちの常識を超える話しであって、何か気の遠くなるような感じさえいたします。昔の人が聞いたら、それこそ荒唐無稽のおとぎ話だと思ったに違いないでしょう。
 私たちは何も分かっていないんです。分からないことだらけです。宇宙の外側がどうなっているのかも分からないし、宇宙ができる前はどうなっていたのかも分からない。この宇宙とは別の世界があるのかどうかも分からない。そういうことで、きょうの聖書箇所も先入観を抜きにして読み、神さまのメッセージを聞き取りたいと思います。
 
   イエスさまと共に登った3人
 
 きょうの聖書では、イエスさまがペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子だけを連れて、高い山に登ったと記されています。
 高い山に登るというのは、現代でしたら登山で登る人はたくさんいるわけですが、この時代はそのようにレジャーで登る人というのはあまりいなかったようです。ですから下界に比べると人がおらず、全く静かです。いつもイエスさまのあとを追いかけていた人々もいない。ですからイエスさまは、あえて人々を避け、イエスさまとこの3人だけという状況にするために、高い山に登られたのであろうと思います。
 しかしなぜこの3人なのか。本当のところはイエスさまにしか分からないことではありますが、まずペトロ。ペトロはやがてイエスさまが天に帰られたあと聖霊によって誕生する教会のリーダーとなっていく人です。また、イエスさまが十字架にかけられる前の晩には、イエスさまのことを知らないと言って見捨てることになる人でもあります。最後はローマの都ではりつけにされて殉教いたします。
 次にヤコブ。この人は12使徒のうちで、最初に殉教することになる人です。使徒言行録12章に、ヘロデ王によって殺されたことが書かれています。誕生したばかりの教会の指導者として命を落とすんです。
 そしてヤコブの兄弟ヨハネ。このヨハネは、逆に12使徒のうちで一番長く生きた人です。ほかの12使徒がみな殉教したのに対して、ヨハネは迫害の中でも生き延び、福音書、手紙、そして黙示録を書き記しました。新約聖書に載っている文書では、パウロの次に多く書いた人です。そういうかたちでヨハネは、キリストを証しし、ローマ皇帝による迫害の中に置かれた教会を励まします。
 それがこれら3人です。それぞれ特別な役割が与えられていることが分かります。大きな失敗と過ちを赦され、教会のリーダーとして世界にキリストの福音を宣べ伝えていく教会に仕えて行くことになるペトロ、12使徒のうちで最初にキリストのために命を捨てることになるヤコブ、最後まで生き残り、人々にイエス・キリストのことを伝え、永遠の世界を証しすることになるヨハネです。‥‥イエスさまは、それらの未来をご存じの上で、この3人を連れていったのかもしれません。
 しかし全員を連れて行ったのではなかった。もっといえば、世の中の人全員にこの光景をお見せになったのではなかった。それは「信じる」ということを教えるためであったと思います。世の中の人全員に見せたのなら、信じるという必要もなくなります。直接見たわけですから。しかし神を信じなくなった結果、すべての不幸が生まれたことを聖書は書くわけです。ですから、「信じる」ということをこの人間の中に取り戻すように、神は導かれます。そして神を信じるということは、聖書では、神の「言葉」を信じるということに他なりません。
 神が語られた言葉が真実であることを信じる。言葉をもって信じることへと導かれます。このように、書かれた言葉を通してです。
 
   天国と十字架
 
 さて、山の上で、イエスさまの姿が変わります。この出来事は一般に「山上の変貌」と呼ばれています。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています。そして、見ると、モーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合っていた。先ほど申し上げましたように、モーセもエリヤも旧約聖書の中に出てくる有名人であり、とっくの昔に亡くなっているはずの人です。これはいったいどういうことなのか? ペトロが何を言っていいかわからず、わけの分からないことを口走っていることからも、これが想像を超えるような出来事であることが分かります。
 イエスさまの顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなった。‥‥これは何をあわらしているのか?
 テモテへの第一の手紙6:15〜16に次のように書かれています。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。」‥‥神が近寄りがたい光の中に住まわれると。
 最初に読んだ聖書の詩編104編にも「主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい光を衣として身を被っておられる」とありました。他にも様々な箇所があるのですが、要するに、光り輝く、白く輝くという表現は、神さまに関して使われています。すなわち、イエスさまと神さまの姿がここで重なるわけです。
 そしてモーセとエリヤ。二人はとっくの大昔に亡くなっている人ですが、亡くなり方がちょっと変わっています。変わっているというよりも、エリヤは死んでいないんです。預言者エリヤは、天から現れた火の馬車に乗って天に昇っていったと書かれている(列王記下2章)。このようにしてこの世を去ったと書かれているのは、全聖書の中でエリヤだけです。聖書は古代文書だから、荒唐無稽なことが書いてあるなんて思わないでください。このような不思議なことが書かれているのはエリヤだけなんです。そして旧約聖書の一番最後のマラキ書という書物には、世の終わり、救い主が来る前に再び神さまがエリヤをこの世に遣わすと予言されています。
 そしてモーセのほうですが、モーセの最後は120歳で亡くなりましたが、モーセを葬られたのは主であると、申命記34章に書かれています。そしてモーセがどの場所に葬られたかは誰も知らないと書かれています。そういう二人です。
 そしてイエスさまが光り輝かれた。これらのことをまとめて申し上げますと、これは天の国、天国がここに出現しているということができます。天界が開けて見えたんです。もちろん、ふだん私たちはこの世に生きているわけですから、直接天国を見ることはできません。しかしこのとき、イエスさまが垣間見せてくださった。それで、もうとっくに亡くなっているはずのモーセとエリヤが現れているんです。
 モーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合っていた。このマタイによる福音書には書かれていませんが、同じことを書き留めているルカによる福音書のほうには、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)と書かれています。つまりやがてイエスさまがエルサレムでかけられる十字架について語り合っていたと。
 この前の箇所では、イエスさまが弟子たちに対してご自分が十字架にかけられて死ぬことを予告なさっていました。そしてその前の箇所では、イエスさまのことを神の子キリスト救い主と告白したペトロに天国の鍵が授けられ、教会をお建てになることが宣言されていました。そのように振り返ってみますと、弟子たちにしてみれば、救い主であると信じたイエスさまが、エルサレムで殺されることになるとはあり得ないことだったでしょう。とても悲しいことだったでしょう。前回のところで、死ぬことになることだけではなく、3日目に復活することをおっしゃっているんですけれど、そちらのほうは弟子たちの心に留まっていない。イエスさまが苦しみを受けて死ぬことになるという、そちらのほうが衝撃的すぎて、復活まで聞こえていないんです。
 そういうときに、イエスさまはこの3人を連れて高い山に登り、今見ましたように驚くべき光景を見せられた。天界を見たわけです。それは永遠の世界です。そしてそこにモーセとエリヤが復活しているのを見た。イエスさまがおっしゃった「復活」ということを、目の前に見せられたんです。それは永遠の命の世界です。つまりそれは、イエスさまがこれから受けられる苦しみ、十字架の死がもたらすものがなんであるかを指し示しているんです。イエスさまが命を捨てられることによって、永遠の神の国が開かれるんだということです。
 
   神の子イエスさまが人の子に変貌された
 
 イエスさまの顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなり、神の栄光の姿に変わられたというこの出来事を読んで、「イエスさまがそのように変わられるなんて、すごいな」と思うかも知れません。しかし、本当はそうではないんです。それは逆です。もともとイエスさまは、そのようなお方であったということです。もともとイエスさまは、父なる神の子であられたんです。人間の肉眼の目には、光り輝く栄光のお姿であったんです。そのイエスさまが、人の子となられて私たちの世の中に来てくださったんです。身を低くされて、私たちに仕える者となられたんです。
 すなわち、人の子であるイエスさまが、光り輝く神の栄光の姿になられたのではなく、光り輝く神の栄光のお姿であられたイエスさまが、神の形であられたイエスさまが、人の姿になられて低く私たちのところに下ってきてくださったんです!
 いったいなんのために?‥‥私たちを救うためです。それだけのためです。それだけのために、苦しみを受けられ、十字架にかかって命をささげて下さったんです。私たちには考えられないような愛です。しかしそれがイエスさまというお方です。
 このイエスさまが私たちをこの天の国の世界へと連れて行って下さるという。モーセもエリヤも、イエスさまによってここにいる。私たちもイエスさまによって、この世界に招かれています。
 きょうの聖書の中で、父なる神さまの声が聞こえてきたと書かれています。それはこのように語られています。(5節)「これは私の愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」‥‥「これ」とはイエスさまのことです。イエスさまの言葉を聞け、と神は言われたんです。それが神のことばであると言われたんです。私たちはそのような言葉を与えられているんです。尊い御言葉です。生きるためのみことばです。永遠の神の国につながっているみことばです。


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