2020年9月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書18章32節
    マタイによる福音書16章21〜28節
●説教 「本当に大切なもの」

 
   李登輝さん
 
 一昨日の読売新聞に、この7月30日に97歳で亡くなられた台湾のもと総統の李登輝(り・とうき)さんについての記事が載っていました。李登輝さんは、日本統治時代の台湾に生まれ、京都帝国大学生のときに学徒出陣で日本兵として召集されています。戦後は蒋介石らのもとで働き、そして1988年に中国本土ではなく台湾生まれの人として初めて台湾の総統になりました。そして台湾の民主化を進めました。
 新聞の記事では、橋本五郎さんが「李登輝さんは私が出会った政治家の中で五指に入る偉大なリーダーでした」と書き、その理由として「第一に、李登輝さんには信仰がありました。敬虔なクリスチャンでした」と、彼がキリスト信徒であったことを挙げています。李登輝さんが総統に就任してからは「毎日が闘争だった」と振り返るほど困難な日々であったそうです。しかし、そんな困難な事態に直面したとき、李登輝さんは必ず『聖書』を手にし、まず神に祈ったそうです。そして聖書を開いて自分が指さしたところをいっしょうけんめい読み、自らどう対処すべきかを考えたとのことです。
 困難な問題に直面したとき、人間はうろたえ不安になるものですが、まず神のことばである聖書の言葉を読み、導きを求める。国の指導者として実際にそのように生きた人がいるということは、私たちにとっても大きな励ましであるに違いないと思います。
 
   受難の予告
 
 前回の個所では、イエスさまが「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」と弟子たちにおっしゃいました。するとペトロが、「あなたはキリスト(メシア)、生ける神の子です」と答えました。するとイエスさまが「あなたは幸いだ」とおっしゃり、「この家の上に教会を建てる」と言われ、さらに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃいました。イエスさまが救い主、神の子キリストであるという信仰告白に対して、そこに教会を建てると言われたのです。
 ですから教会はキリストのものであって人間のものではありません。教会は、好きな人同士が集まって作るサークルのようなものではありません。あってもなくても良いものではありません。教会は、この世の人々に対して天国の扉を開けるために、なくてはならないものなんです。そのようにキリストのわざの結果として教会が建てられることが予告されました。
 そしてきょうの聖書箇所です。するとイエスさまは、続けて、ご自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けたと書かれています。苦しみを受けて殺される、すなわち十字架にかけられることになるという予告です。
 ここでイエスさまは、「苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」とおっしゃいました。その「することになっている」という言葉ですが、これはギリシャ語では「そうする必要がある」とか「避けることができない」という意味の言葉です。すなわち、たった今ペトロが、「あなたはキリスト、生ける神の子です」とイエスさまのことを正しく告白した。イエスさまがそのキリストであり救い主であるならば、苦しみを受けて十字架にかかることは避けられないということです。なぜならそれが人間を救うために必要なことであったからです。
 しかし、イエスさまが苦しみを受けて殺されるということを言われたとき、ペトロはたいへん驚いたんだと思います。ショックだったと思うんです。ペトロはイエスさまを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と申し上げたと書かれています。ペトロは、そんなことが起こるはずはないと言ったんです。
 ここに、イエスさまが語られるキリストの姿と、ペトロら弟子たちが考えていたキリストの姿が違っていることが分かります。イエスさまは、十字架につけられて命を落とすキリストの姿を予告なさった。それに対してペトロは、そんなことがあるはずがないと思っている。なぜなら、ペトロら弟子たちが考えていたキリスト、すなわち救い主の姿というのは、この世の成功者であるからです。人々を飢えや苦しみから解放し、この世の利益をもたらす方がキリストであると思っていた。なのに、それが苦しみを受けて十字架で殺されてしまっては、それは失敗以外の何ものでもないではないか、と。まだペトロたちには、十字架こそが救いであるということがまったく分かっていないんです。イエスさまが殺されてしまっては、それは挫折であり失敗ではないか、と。たしかに、ふつうはそのように思うでしょう。この時イエスさまは、殺されたあと3日目に復活することまでおっしゃっているんですが、そちらのほうは耳に入っていない。
 
   叱責するイエス
 
 するとイエスさまは、ペトロに向かって「サタン、引き下がれ」とおっしゃいました。サタンというのは悪魔のことです。あなたは悪魔と同じだというのです。きびしい叱責の言葉です。先ほど「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたペトロが、今度は「サタン、引き下がれ」と言われている。イエスさまは続けて、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃいました。
 ‥‥「あなたはつい先ほど、わたしのことを『あなたはキリスト、生ける神の子です』と言った。あなたはわたしのことを救い主であると言った。あなたを救い、人々を救うためにわたしは苦しみを受けて十字架に行くのだ‥‥」‥‥イエスさまがそのように言われる声が聞こえるかのようです。「あなたを救い、人間を救うためには、あなたがキリストと告白したその神の子が、十字架に行って命を捨てなければならないのだ‥‥」
 それが「神のこと」です。しかしペトロは、人間のことを思っていた。救い主というのは、敵を駆逐し、敵に勝利し、この世の成功を収めるものであると。しかしそれでは私たちは救われないのです。神の子キリストが十字架で命を捨ててくださるのでなければ、私たちは救われないのです。私たちは、なにか小手先のことでは救われないのです。神の子キリストが、ご自分の命をなげうってくださるのでなければ救われないほど、私たちは罪深いのです。
 
   自分の十字架
 
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)。自分の十字架を背負ってイエスさまについてきなさいと言われる。十字架というのは、ローマ帝国における死刑の方法で一番ひどい死刑の方法です。つまり死刑台を背負ってイエスさまについてきなさいとおっしゃったのです。
 十字架を背負ってイエスさまに着いていく。これはどういう意味なのか。おもに二つの考え方があります。
 一つは、イエスさまと同じように、自分もまた十字架につけられる覚悟で、ということです。つまりそれは、自分がこの世で成功することを目標に歩むのではなく、イエスさまに着いていったために命を落とすこともあるかもしれないつもりで従って来なさいということになります。
 もう一つは、「自分の十字架」とは、この私を救うためにかかってくださったイエスさまの十字架を背負うという意味です。この罪人である私を救うために、神の子キリストであるイエスさまが、命をなげうってくださった。そのことを日々感謝しながら、イエスさまに従って行きなさいということだという解釈です。
 私はどちらが正しくて、どちらが違っているというのではないと思います。この二つの意味はどちらも正しいのだと思います。
 
   人生の目的は
 
 そのことを考えるときに、私たちの人生の目的はなんだろうか、ということを考えたいんです。私たちの人生の目的はなんでしょうか? 言葉を換えていえば、人はなんのために生きるのか?ということです。「この世で成功を収めるため」という人もいるでしょう。「平安な老後を過ごすため」という方もおられるでしょう。「そんなこと考えたって仕方がない」という方もいることでしょう。
 しかしこのキリストの言葉は、イエス・キリストと共に生きるように招いておられる言葉です。そしてキリストと共に神の国に向かっていくのであると。そこに人生の目的があるというんです。
 私たちは自分勝手に自分の好きなように生きるために作られているのではないんです。聖書によれば、神さまが私たちをお造りになったのであり、それゆえ神さまが私たちに命をお与えになり、私たちそれぞれに使命を与えておられるのです。そうして私たちを救う。その私たちを救うために、神の子キリストがご自分の命をなげうってくださる。それほどに私たちを愛しておられるんです。
 そのままでは滅びです。だからキリストと共に生きるように、と。招いておられるんです。
 前回、弟子のペトロは、「あなたはキリスト、生ける神の子です」とイエスさまに向かって言いました。そして天の国の鍵を授かりました。今回、ペトロは、「サタン、引き下がれ」と言われました。イエスさまがキリストである意味をよく分かっていなかったんです。しかし、与えられた天の国の鍵を取り上げられませんでした。イエスさまのことをまだよく分かっていない。しかし、イエスさまがキリスト、救い主であると告白した。そこに天国が宣言されているんです。
 これは私たちも同じです。私たちも信仰告白をして洗礼を受けます。しかしまだその時点では、神さまのこともイエスさまのことも十分分かっているわけではない。分からないことの方が多い。そうすると、私たちの信仰告白も十分なものではないと言えるかもしれない。けれども、私たちはよく分からないことがあっても、イエスさまを信じて、この方に着いていこうと決めて洗礼を受け、あるいは信仰告白をする。そして主はそれを受け入れ、着いていくことをお許しになる。そしてイエスさまと共に歩んでいくことによって、それからいろいろなことを教わっていくんです。
 最初に旧約聖書のエゼキエル書の言葉も読みました。(エゼキエル18:32)「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
 神は、誰の死をも喜ばれない。立ち帰って、つまり悔い改めて、生きよと招かれています。この罪人である私たちを救うために十字架にかかってくださったイエスさま。この方に付き従っていく。こんな私でも、付き従っていくことを許し、喜んでくださる。感謝というほかありません。


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