2020年8月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書42章6〜7節
    マタイによる福音書16章13〜20節
●説教 「天国の鍵」

 
   イエスとは何者か?
 
 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」イエスさまはそう弟子たちにお尋ねになりました。ここで言われている「人の子」というのは、イエスさまご自身のことです。すなわち、イエスさまのことを世の中の人々は何者であると言っているか、とお尋ねになった。すると弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」‥‥世間の人がイエスさまは何者かと言うことについて、いろいろウワサし合っていた様子がうかがえます。
 「洗礼者ヨハネ」は、イエスさまに洗礼を授けた人で、人々に対して神の前に悔い改めることを説いた人です。「エリヤ」、これは旧約聖書の列王記に登場する有名な預言者です。「エレミヤ」、この人も旧約聖書の預言者です。イスラエルのユダ王国末期に神の言葉を人々に伝えました。そうして迫害された人です。あるいは、いわゆる「預言者の一人だ」と言う人もいたという。
 洗礼者ヨハネと言い、エリヤといい、エレミヤといい、いずれも迫害されながら神の言葉を語り続けた著名な預言者です。世間の人々が、イエスさまについて、それら力ある預言者の姿と重なって見えたに違いありません。これらはたしかに当時の人々のイエスさまに対する預言者としての高い評価であることには違いありません。しかし、果たしてイエスさまはそういった預言者たちの一人なのかということです。
 世の中には立派な人というのがいます。そういう人の偉人伝という者も出版されます。この日本でも、イエスさまは愛に基づく尊い教えを説いた人として、学校の教科書にも出てまいります。イエスさまとはそういう立派だと言われる人間の一人なのか?
 
   最初の信仰告白
 
 世間の人々の評価を聞いたあと、イエスさまはさらに弟子たちにお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」‥‥「あなたは」わたしを何者だと言うのか?‥‥そうお問いになったのです。
 するとシモン・ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」‥‥この聖書では「メシア」と表記されていますが、原文のギリシャ語では「キリスト」となっています。ギリシャ語では「キリスト」といい、ユダヤ人のしゃべっているヘブライ語では「メシア」といいます。この聖書では、ペトロはユダヤ人ですから「メシア」とこの時言ったんだろうということで、原文では「キリスト」となっているものを「メシア」と言葉をわざわざ換えて訳しているわけです。日本語では「救い主」とか「救世主」と訳されます。
 それはともかく、ペトロは世間の人々のイエスさまに対する評価である預言者ということから、さらに踏み込んで言っている。預言者以上の方である、すなわち、神がこの世を救うために遣わすことを約束されていたキリスト、救い主である、「生ける神の子」であると。
 これは最初の信仰告白の言葉であると言われています。私たちの教会の礼拝でも、毎週必ず信仰告白を唱和していますが、その最初がこれです。そしてイエスさまは、このペトロの信仰告白の言葉に対して、最大限の祝福をなさいました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
 シモン・バルヨナというのは、ペトロの本名です。と言うより本名はシモンであり、バルヨナというのは「ヨナの子」という意味ですから「ヨナの子シモン」と言っているんです。そしてペトロというのは、イエスさまが新しくこの時つけた名前です。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」‥‥この幸いだという言葉はギリシャ語ではマカリオスという言葉であり、「幸福な」「恵まれた」「祝福されている」という意味の言葉です。「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロを、イエスさまが祝福された。
 みなさん!これはすばらしいことではありませんか?!イエスさまを神の子キリスト、救い主であると告白することそのものが幸いであり、恵みであり、祝福されたことであるというんです! お金持ちだから恵まれているというのではない。何もかも自分の思うとおりに行っているから祝福されているというのでもない。イエスさまがおっしゃるには、イエスさまが神の子キリストであると告白するということそのものが、幸福なのであり、恵まれているのであり、祝福されているというのです!
 今、たいへん困難な中にある方もおられるでしょう。つらい目に遭っている方もおられるでしょう。健康を害しておられる方もいるかもしれません。しかし、だから神さまに見捨てられているのではありません。もしわたしたちが、イエスさまに対する信仰を告白するのなら、それは祝福されているんです!恵まれているんです!幸いなんです!このことを覚えておきたいんです。私はこのことを思うと、感動を禁じ得ません。私たちは何気なく信仰告白を口にしているかもしれない。しかしそれは極めて喜ばしいことであり、幸いなことであり、それ自体が神の祝福なのだというんです。
 どうしてイエスさまを生ける神の子であり救い主であると告白することが、そんなに幸いなことなのか? それは、私たちがキリストを告白するために、神さまは私たちを導いてこられたからです。イエスさまが続けておっしゃっています。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
 ペトロは、何か研究してイエスさまが救い主キリストであると知ったということではありません。あるいはペトロは、いろいろ考え、人の教えによってイエスさまがキリストであると告白するに至ったのでもありません。ペトロにイエスさまのことを「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白させたのは、神さまご自身であるというのです。神さまの働き、奇跡なんです。
 私は自分のことを考えてみました。私はどうしてクリスチャンになったのか、つまりイエスさまをキリストであると告白するに至ったんだろうか、と。それは何か聖書を研究して分かったというのではありませんでした。あるいは親から教えられてというのでもありませんでした。たしかに私の両親はクリスチャンでした。しかしだからイエスさまをキリストであると告白するようになったわけではありません。また、私はたしかに2度、神さまによって命を助けられました。そういう奇跡がありました。しかし、それだからイエスさまが生ける神の子キリストであると告白するに至ったわけではありません。‥‥考えてみると不思議です。それはやはり神の導きであり、神さまがそのようにさせたとしか言い様がありません。
 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とイエスさまはおっしゃいました。まさにその通りとしか言いようがないんです。同じように、私たちが教会に導かれたのは、それはやはり神さまの奇跡としか言いようがないんです。そうすると神さまは、イエスさまを主でありキリストであり生ける神の子であると私たちが告白するに至るために、どれほど心を砕いて、導いてこられたかということを感慨深く思うことができます。
 ちなみにこの最初の告白がなされたのは、フィリポ・カイサリア地方に行ったときのことだと書かれています。それはかつてのイスラエルの北のはずれといって良いでしょう。それは「カイサリア」という名前、つまりローマ帝国の皇帝の町という名前がつけられている。ここにはヨルダン川の水源となっている洞窟があり、ギリシャ神話に出てくるパンという神さまの祭壇があり、大理石でできた神殿が建っていて、ローマ皇帝の像が建てられていました。この世の王と神話の神の像が建てられた神殿。ペトロの告白は、まさにそのような場所でなされました。真の神なき世界のように見える。しかし、イエスさま、あなたこそ救い主です、生ける神の子ですと告白したのです。
 今日も同じです。この世はまさに神なき世界のように見える。しかし神はおられる、イエス・キリストがそのことを表していると私たちも告白しているんです。
 
   教会を建てる
 
 続けてイエスさまはおっしゃいました。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
 ここでイエスさまはシモンにペトロという名前を付けられました。今までペトロ、ペトロと言ってきましたが、実はここで初めてペトロという名前をつけられたんです。そしてペトロという言葉の意味は、岩、岩石という意味です。そしてイエスさまは「この岩の上に教会を建てる」とおっしゃった。ここで新約聖書で初めて教会という言葉が出てきます。イエスさまが教会を建てられるという。
 ここで問題となるのは、「この岩」とは何を指すかということです。イエスさまはシモンに岩を意味するペトロという名前をつけたことから、ペトロを指すという考え方があります。しかし詳しく見ると、ペトロというギリシャ語は、岩は岩でも岩石、もっと言うと石ころを意味する言葉です。小さい岩ですね。それに対して、イエスさまが「この岩の上に教会を建てる」とおっしゃった、そちらの「岩」はペトラというギリシャ語になっていて、これは岩は岩でも岩盤です。つまり大きな岩の塊です。
 そして旧約聖書を読めば分かることですが、岩という言葉が人間に対して使われることはありません。旧約聖書では岩は神さまを指す言葉として使われています。それは岩というものが揺るぎないものだからです。だからイエスさまが「この岩の上に私の教会を建てる」とおっしゃったその岩は、ペトロのことではないことがはっきりします。
 では「この岩」とは何を指すのか。それはペトロが告白した言葉、すなわち信仰告白です。これが私たちプロテスタント教会の考え方です。ペトロも弱い一人の人間に過ぎません。私たちも弱い一人の人間に過ぎません。それは岩ではなく小石です。しかしその私たちが、先ほどペトロが「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白したその信仰告白をしたときに、それは揺らぐことのない岩となる。そしてその岩である信仰告白の上に、イエスさまはご自分の教会を建てるとおっしゃっているのです。
 教会という言葉は、ギリシャ語の集会をあわらすエクレシアという言葉に、定冠詞がついた言葉です。英語で言えば「the」です。「ザ・集会」それが教会という言葉です。しかもこの集会は、単なる集まりではない。呼び集められた集まりという意味があります。すなわち、神さまによって呼び集められた群れ、それが教会です。
 私たちは自分一人で信仰が成り立つのではありません。私たち一人一人は小石に過ぎません。しかしその私たちが神さまによって導かれ、呼び集められて共に信仰を告白する。そのとき、その信仰告白は岩という揺るぎないものになる。そこにイエスさまは教会をお建てになる。イエスさまは「私の教会」と言っておられます。教会は私たちのものではありません。イエスさまのものです。イエス・キリストのものです。
 そしてその教会は、「陰府の力」、すなわち死の力も対抗できないと言われる。私たち人間に最後に立ち塞がる絶対の力は、死です。しかしそれさえも凌駕するのが教会であると言われるんです。
 
   天国の鍵
 
 そしてその教会が天国の鍵を授かっている。私たちの聖書では「天国」ではなく「天の国」と訳されています。たぶん、「天国」というと、あの世のことを連想するので「天の国」という言葉に変えたんだと思います。しかし同じことです。聖書で言う天国は、あの世の世界のことだけを指すのではありません。神さまが共にいて下さるところはすべて天国となります。つまり神の国です。
 そしてその天国に鍵があるという。天国には鍵があるんですね。鍵というものはなぜあるんでしょうか?‥‥誰でも入れるなら鍵は要りません。つまりだれでも天国に入れるわけではないということです。最近の日本では、「死んだら誰でも天国に行く」と思っている人が多いのかもしれません。しかし本当にそうでしょうか? その根拠はどこにあるのでしょうか?
 聖書はそんなことは書いていません。しかしもちろん、立派な人にならないと入ることができないとも書いていません。誰でも入ることができるんです。しかし誰でも入ることができるわけではありません。何か矛盾した言い方のようですが、どんな罪人でも入ることができる。その意味では、誰でも入ることができる。しかし逆にどんなに立派そうに見える人でも入ることができるということではない。その意味では、誰でも入ることができるというわけではない。
 では、天国の鍵とはなにか?‥‥それは先ほど述べた信仰告白です。言い換えれば、イエス・キリストを信じるということです。そのイエス・キリストを信じる者の群れである教会に、天国の鍵が授けられているんです。そしてイエス・キリストを信じるという人に、鍵を開けて差し上げる。そういう鍵がイエスさまから教会に授けられている。
 私たちの教会も私たちの教会ではありません。イエス・キリストの教会です。そして天国の鍵を授かっています。私たちが鍵を開けなければ天国の扉は開きません。そういう大きな務めを与えられています。私たちは、世の中の人々を招き、キリストをあかしし、天国の扉を開ける。大きな務めです。この大いなる務めを私たち教会が授かっていることを忘れてはなりません。
 弱い私たちですが、今週も、イエスさまを主と告白しながら歩んでまいりたいと思います。イエスさまを私たちの救い主と告白したとき、それは揺るぎない岩となって私たちを支えて下さいます。


[説教の見出しページに戻る]