2020年8月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書29章9節
    マタイによる福音書16章5〜12節
●説教 「教えの力」

 
   まだ分からないのか
 
 本日の聖書箇所で、イエスさまが弟子たちに向かって「まだ、分からないのか?覚えていないのか?」と言っておられます。なにか叱られているようであります。そうすると私はとても他人事とは思えないのです。
 先日も、ちょっと腹の立つことがありました。まあそんなことはよくあることなのですが、腹が立つと怒りの言葉や文句が口から出てくるんですね。なかなか腹の虫がおさまらない。すると聖書の言葉が頭に浮かんでくるんです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16〜18)というあのみことばです。そらんじているほど皆さんもよくご存じのみことばです。そのとき主がきょうの聖書箇所のようにおっしゃっているように聞こえてきます。「まだ、分からないのか?覚えていないのか?」 それで私も主に降参いたしまして、「主よ、あなたにお任せいたします」と心の中で呟くんですね。そうして平安を得ることが出来る。
 そういうことですから、聖書の中に出てくる弟子たちは、何か立派な遠い存在なのではなくて、親しみを持って読むことが出来ます。
 
   養うことの出来る主
 
 きょうの聖書ですが、「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持ってくるのを忘れていた」という言葉で始まっています。
 前回の聖書箇所が、イエスさまがファリサイ派とサドカイ派の人々を残して、そこを立ち去られたということで終わっていました。どうやらイエスさまはそこを立ち去って、先に一人でガリラヤ湖の向こう岸へ行かれたようです。それで弟子たちは、あとを追いかけるようにしてガリラヤ湖を舟で渡っていったのでしょう。しかしあわてていたのか、パンを持ってくるのを忘れていた。このパンとは、もちろん食料のパンことです。食べ物を持ってくるのを忘れた。忘れたのならコンビニで買うか、お店で食べれば良いじゃないかと思うのは現代人。当時はもちろんコンビニはありませんし、便利なお店もありません。
 その時イエスさまがおっしゃったのが、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」という言葉でした。それを聞いた弟子たちは、「これはパンを持ってこなかったからだ」と弟子たちの間で論じ合ったと書かれています。
 ここで「パン種」と「パン」が出てきます。パン種というのは、今で言えばイースト菌あるいは酵母菌です。今はドライイーストというような便利な物を売っていますが、昔はそんなものはありませんから、パンを発酵させるためにどうしたかというと、前回パンを作ったときのパン生地を少し残して取っておくんです。そうするとその中には酵母菌が混ざっている。それが「パン種」です。そして次にパンを作るときに、そのパン種をパン生地に混ぜる。そうするとパン種のなかにあった酵母菌が発酵してパンが膨らむというわけです。
 イエスさまは弟子たちに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」とおっしゃった。すると弟子たちは、イエスさまがそう言ったのは自分たちが食糧であるパンを持ってこなかったからだと誤解したということです。
 イエスさまは「なぜパンを忘れたのか」などとおっしゃっていないのに、弟子たちはイエスさまがそのように言ったと勘違いした。弟子たちは、イエスさまがパン種についておっしゃったのに、それを自分たちがパンを忘れたことに苦情を言っておられると勘違いしたのは、イエスさまが婉曲な言い方をなさったと勘違いしたからです。
 言い換えれば、弟子たちは食べ物のことばかりいつも心配していたということでもあるかと思います。この世のことばかり心配していた。だからイエスさまがおっしゃったことが、すぐには分からなかったんです。これもまた私たちにも同じようなことが言えるかと思います。
 
   残りを幾籠に集めたか
 
 するとイエスさまは、弟子たちが勘違いをしていることに気づかれ「信仰の薄い者たちよ、なぜパンを持っていないことで論じ合っているか」とおっしゃいました。そして、ちょっと前になされた神の奇跡、すなわち、たった5つのパンによって男だけでも5千人もの人々を満腹にされた奇跡、さらに7つのパンで男だけでも4千人を養う奇跡を思い起こすようにおっしゃいました。なのに、なぜ食べ物のパンのことを心配しているのかと。心配する必要はないではないかと。
 これは、またイエスさまがパンを増やす奇跡をするから心配するなとおっしゃっているのかと一瞬思いますが、ちょっと違います。いつもイエスさまがパンを増やしてくれるから、食糧問題は解決ということではありません。このイエスさまの言葉は、神を信じるように導く言葉です。神さまが、弟子たちに、そしてイエスさまを信じる私たちに、生きていくために必要なものを与えてくださることを信じるようにと。
 つまりパンが増えることばかりではありません。むかし、イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトを出た後、何もない荒れ野に、毎日「マナ」という不思議な食べ物を神さまが備えてくださったこともその一つです。また有名な預言者エリヤが、神さまの言葉に従って行ったときに、烏がエリヤにパンと肉を運んできたこともそうです。そのように、神を信じていくならば、必要な糧を神さまが備えてくださる。イエスさまは、そのことに目を向けさせているんです。いつも食べることばかり心配している弟子たちに、そのことを思い出すように言われる。
 これも私たちについても言えることです。私も、以前、食べていくことが出来るのかと心配した時がありました。しかし、不思議にも神さまはちゃんと生きていくことができるようにして下さいました。そういうことが何度かあったのにもかかわらず、「今度は大丈夫だろうか?」と心配になる。まさに「信仰の薄い者」であり、「まだ分からないのか、覚えていないのか」と叱られても仕方がありません。しかしイエスさまは、そういう信仰の薄い弟子たち、そして私たちを、愛と忍耐を持って導いて下さる方であるというところに、私たちの平安があります。
 さて、そしてもう少し言うならば、イエスさまは5千人を養った奇跡、そして4千人を養った奇跡を思い起こすようにここでイエスさまがおっしゃっておられるわけですが、その二つの奇跡とも「残りを幾籠に集めたか?」とおっしゃっていますね。群衆が食べ残して、残ったパンくずを集めたそれが幾籠あったかと。わざわざそのことをここで言われていることにも意味があると思います。つまりこれも前に申し上げたことですが、イエスさまが祝福されたわずかのパンを、弟子たちはまず群衆に配りました。自分たちの食べる分は後回しにして。すると奇跡によってパンが増えて、おつりが来たわけです。
 私たちは、自分のことで精いっぱいで、他人のことまで考えている余裕はないと思っている。しかしこれらの二つの奇跡は、与えることでおつりが来ることを教えています。しかもそのおつりで十分食べることが出来る、生きていくことができると。このこともここでイエスさまが改めて強調しておられるように思います。
 
   パン種に注意
 
 以上は、弟子たちの勘違いを正したイエスさまの言葉でした。そして次は、本題である「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」という言葉です。
 ここで言うパン種はなにを指しているのか? ファリサイ派の人、そしてサドカイ派の人というように、その人たち自身を指しているのでしょうか?
 そのイエスさまのお言葉の中の「よく注意しなさい」という言葉ですが、このギリシャ語を正確に逐語的に訳すと、「見なさい」または「理解しなさい」という言葉と、「注意しなさい」もしくは「警戒しなさい」という二つの命令形の動詞が使われています。つまり、「見なさい、そして警戒しなさい」とおっしゃっているんです。つまり、ファリサイ派の人あるいはサドカイ派の人に気をつけなさい、ということではなく、それらの人々の言動の元となっている「パン種」に注意しなさいということです。そして最後の12節で、パン種とは彼らの教えのことであると明かされています。ですから、彼らの教えに気をつけよ、よく見て警戒せよと言っておられるんです。
 
   教えの影響力
 
 本日は、今から75年前に長崎に原爆が投下され、多くの人が命を奪われた日です。戦後75年ということで、読売新聞が、今はもう生き残っている人が少なくなった戦争体験世代の人の証言を毎日掲載しています。
 8月3日には、今は91歳になられたクリスチャン作家の加賀乙彦さんの体験談が掲載されていました。加賀さんは、1943年(昭和18年)、両親から「どうせ軍隊に行くのなら早いほうが良い」と言われて14歳で名古屋の陸軍幼年学校に入ったそうです。そうすると連日「お前たちは天皇様のために命をささげよ」と、毎日「名誉の戦死」をすることをたたき込まれたそうです。誰だって死にたくありません。だから、戦場に行けと言われても誰も行きたくない。それを行かせるためには、行かせるための教えが必要となります。それが、天皇様のために命を捨てることが名誉であると毎日教えられる。14歳の少年にとっては、そのように一方的な教えと情報だけを与えられたら、そのようになっていくだろうなと思わされました。
 そのように、教えというものは人間の行動の土台となります。
 ファリサイ派はどうだったでしょうか。もうここで詳しく説明することは避けますが、ひとことで言えば律法主義です。戒律主義ですね。非常に単純化して言えば、定められた規則を守って生活することが神を信じると言うことだ、ということです。
 ではサドカイ派はどうでしょうか。これは儀式主義です。エルサレムの神殿でなされる礼拝は儀式でした。儀式は作法です。作法をちゃんと守って神を礼拝することが、神を信じることだということになります。
 私は今、非常に単純化して申し上げているわけですが、つまりはそういうことでしょう。規則をちゃんと守っていればいい。あるいは、作法を守り形さえ整っていればよい。もちろん、心がそこにこもっていないとは言いませんが、聖書に書かれているイエスさまとのやり取りを読んでいきますと、突き詰めていくとそういうことになります。見た目が整っていればいいのだという。
 
   心が問題
 
 その場合、心はどこにあるんでしょうか? 神さまを愛する心はどこにあるんでしょうか? 見た目の形が整っていれば神を信じていることになるんでしょうか?
 たとえば、愛する人から花束や高価なものをプレゼントされたとします。しかし、プレゼントしてくれた人に全く心がなかったとしたらどうでしょうか? 愛もないのに、くれただけというのはどうでしょうか? まあ、それでも良いという人がいるかもしれませんが、神さまは違います。神さまは心を見られるからです。たとえば次のようなみ言葉があります。
(サムエル記上 16:7)しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 心がなかったとしたら、どんなに形が整っていても、なんにもなりません。私たちが神さまを礼拝するとき、そこに心がこもっていなかったら、それは礼拝になっていません。讃美歌は音痴でも良い(まあ今はウイルス感染対策で心の中で歌うか小声で歌うかですから、あまり音痴も関係ないかもしれませんが)、祈りもつたなくて良い、問題は心です。神さま、イエスさまを愛する心、あるいは愛したいという心です。
 「パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。」
 イエスさまは、「残りを幾籠に集めたか」と言われました。残りが十分にあったでしょうと。あなたがたが食べていくために十分すぎるほどおつりが来たでしょうと、強調しておられます。まず主のみことばに従う。そうすると、おつりが来るというのは変な言い方になりますが、まず神さまを心を込めて礼拝する、祈る、そのことによって神さまが私たちを愛して下さっている方であることが分かってくると言うことができます。


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