2020年8月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書45章11〜12
    マタイによる福音書16章1〜4
●説教 「時代を見分ける」

 
   ある宣教師
 
 本日は、日本キリスト教団の暦で「平和聖日」です。このことを考えておりますときに、『百万人の福音』8月号に紹介されていた、あるアメリカ人宣教師のことが目に留まりました。それはセオドア・デマレス・ウォルサーという人です。彼は北米長老教会の宣教師として日本に派遣されたそうです。そして昭和16年、日本とアメリカの間に戦争が始まるとスパイの嫌疑をかけられて日本で監禁収容され、翌年アメリカへ強制送還されました。そしてウォルサー宣教師は、昭和20年にアメリカが広島と長崎に原爆を投下した時に、自国のトルーマン大統領に抗議文を送ったそうです。それには「私はアメリカ人であることが、人に顔向けできないほど恥ずかしい。それでも貴下はクリスチャンか。貴下と貴下の配下の米国政府は、神の前に責任を負わなければならない」と書かれていたそうです。アメリカ人には、クリスチャンであっても、日本に対する原爆投下は、戦争を終わらせるために仕方がなかったと考えている人が多いような印象を受けますが、そのように抗議をした人もいたのだと思い、感銘を受けました。
 このウォルサー先生のお父さんは牧師であったそうです。少年時代は戦争ごっこが好きなわんぱく少年で、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)というイエスさまの言葉などは弱虫のすることだとバカにしていたそうです。ところが、自分の弟を殴ろうとした悪童たちから弟を守るために、「打つなら僕を打ってくれ」となぜか落ち着いて言ったところ、逆に彼らが逃げてしまったという経験をしたそうです。それで、いつも父から聞いている聖書の言葉のたしかさを身をもって知ったのだそうです。そういうことが数多くあり、聖書で言われることに間違いはないとの確信を積み重ね、聖書の言葉に全信頼を持つようになったそうです。
 私たちは「聖書は聖書、現実は現実」というふうに思いがちではないでしょうか。しかし聖書のみことばが、私たちの毎日の現実を生きるために必要な言葉であり、現実の中でこそ力を発揮するということを信じていくことがたいせつであることを、このウォルサー先生の話は教えているように思いました。イエスさまの御言葉が、現実の中でこそ生きてくる。信じて行く。私は、それが世界の平和に直結することであると信じる者です。
 
   野合
 
 さて、本日の聖書の出来事は、イエスさまに対立する人たちが登場いたします。それがファリサイ派とサドカイ派の人たちです。これまでも、ファリサイ派と律法学者が出てきました。しかし今回は「サドカイ派」という人たちが登場しています。サドカイ派というのは、これまで出てきたおなじみのファリサイ派と対立する宗派です。そしてこの二つの宗派、ファリサイ派とサドカイ派が当時のユダヤの二大勢力でした。ともにユダヤ人議会(最高法院)を構成する宗派です。違いは、ファリサイ派がおもに庶民を基盤としていたのに対して、サドカイ派は神殿の祭司や貴族を中心としていたところです。またファリサイ派は律法主義、対するサドカイ派は儀式主義。サドカイ派が儀式主義であるというのは、彼らが神殿の祭司を中心とした宗派であったことと関係があります。エルサレムの神殿で行われることは儀式です。ですから儀式中心となります。そして使う旧約聖書も、サドカイ派は、旧約聖書の最初の創世記から申命記までの5つの書物(モーセ5書)であるのに対して、ファリサイ派は預言書や詩篇なども重んじるなど、さまざまな違いがありました。
 そういうことで、この二つの宗派は何かというと対立していました。ところがきょうの聖書を見ると、ファリサイ派の人とサドカイ派の人が一緒に来てイエスさまを試そうとしています。この「試そうとして」という言葉ですが、実は、イエスさまが世に出られる前に、荒れ野に行かれて悪魔の誘惑を受けられたことを覚えておられるでしょうか。マタイによる福音書の4章です。その悪魔の「誘惑」という言葉、それがきょう出てくる「試す」という言葉と同じギリシャ語が使われているんです。
 あの荒れ野での誘惑の時の「誘惑」とは、神さまに従うことから巧みにそらそうとするものでした。それとまさに同じ言葉がここで使われている。すなわち、このファリサイ派とサドカイ派の人たちは、父なる神さまに従って歩んでいるイエスさまのその歩みを、巧みにそらそうとするものであることを聖書は書いていることになります。
 すなわち、ふだん対立しているファリサイ派とサドカイ派の人たちが、イエスさまを敵と見なし、排斥することで一致したということです。こういうのを「呉越同舟」と言うんです。野合とも言いますね。こうしてついにユダヤ人議会の全勢力が、イエスさまを警戒し、取り除こうとし出したと言うことができます。
 
   しるし
 
 彼らがイエスさまに要求したのは、「天からのしるしを見せてほしい」ということでした。「天から」というのは神からの、ということです。つまりイエスさまに対して、「あなたが神から遣わされたというしるしを見せてほしい」ということです。
 さて、これまでにも同じようなことがあったな、と思いだした方もおられることでしょう。そうです。以前にも12章38節で、そちらでは律法学者とファリサイ派の人たちが同じことをイエスさまに要求いたしました。律法学者にはファリサイ派の人たちが多かったと言いますから、その時はファリサイ派の人たちがイエスさまにしるしを要求した。今度は、呉越同舟で、ファリサイ派の人たちとサドカイ派の人たちが連合してイエスさまにしるしを要求した。つまり、前回のときのイエスさまの答えに、ファリサイ派の人たちは全く納得していなかったことになります。
 こうして彼らは一緒になって、イエスさまが天の神さまから遣わされたという「しるし」、言い換えれば、イエスさまがメシア(キリスト)であるしるし、すなわち証拠を見せろと要求したのです。
 これを聞いて私たちは、これはおかしなことだと思うのではないでしょうか。なぜなら、これまでイエスさまは、数々の奇跡をなさってきたからです。今日の箇所の直前には、イエスさまが7つのパンと少しの魚でもって男だけでも4千人の人々の空腹を満たすという奇跡をなさったことが書かれていました。その前の箇所には、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を癒されたということが書かれていました。さらにさかのぼれば、イエスさまのなさった奇跡は数多くありました。なのに、それらは彼らの求める「しるし」ではない、証拠ではないと言うんです。病気を癒すことは神さまにしかできないのではないでしょうか。ならば、イエスさまのなさった奇跡は神さまから遣わされたしるし以外の何ものでもないはずです。しかし彼らにとってはそれは「しるし」ではないという。ではいったいなにが「しるし」になるというでしょうか?
 私がイスラエルに行きましたときに、エルサレムの東側にあるオリーブ山に上りました。そうするとそこからはエルサレムの市街地が一望できました。その市街地とオリーブ山の間の斜面に、ユダヤ人の墓地が広がっていました。石を切り出して長方形の棺桶のような形の墓が並んでいるんです。見ると、それらの墓は、みなエルサレムの町の方を向いているように見える。ガイドさんによると、それらの墓は、お金持ちの墓であって、エルサレムの神殿の丘の方を向いて作られているんだということでした。そのエルサレムの神殿が建っていたところには、現在はイスラム教のモスクが建っています。しかし現在もユダヤ教徒は、やがてメシアが来たときにはエルサレムの神殿の丘に降り立って、死んだ信仰者がよみがえると信じているそうです。つまり彼らにとってはイエスさまはメシアではない、キリストではないということです。そしてオリーブ山の山麓に並んでいる墓が、なぜその神殿の丘の方を向いて作られているかというと、メシアが来て神殿の丘に建ったとき、そちらを向いてよみがえることができるように、ということだそうです。
 たとえばファリサイ派の人々が要求する「しるし」とは、そのようなものであったかもしれません。あるいはほかのことかもしれません。また、サドカイ派の人々は、復活ということを信じていませんでしたから、もっとほかの「しるし」を指すのかもしれません。いずれにしても、イエスさまがこれまでなさってきた奇跡は彼らの求めるしるしではなかった。ではそのしるしとは何かということが、ここには具体的に書かれていませんが、とにかく彼らの要求することでなくては納得しなかったということです。
 
   私たちにとってのしるしは
 
 こんな傲慢なことがあるでしょうか。もし彼らが、イエスさまが実は何者であるかを知っていたのなら、決してこのような要求をしなかったでしょう。ひれ伏して拝むしかなかったでしょう。しかし彼らは信じなかった。彼らの心の中の高ぶり、高慢が、真実を見えなくしていたんです。
 イエスさまはおっしゃいました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
 この「ヨナのしるし」というのは、12章の所でも出てきました。すなわち、預言者のヨナが三日間大きな魚のお腹の中にいたように、イエスさまが死んで墓に葬られ陰府に三日間行かれたあとよみがえられることを指しているのです。それこそが、決定的な「しるし」となると。ここでははっきり語られませんが、そのことを暗示しています。
 私たちにはイエスさまのしるしが見えているでしょうか? イエスさまは数々のことを私たちにもしてくださっているに違いないのです。先週一週間を思いだしてみるのもいいでしょう。どんな一週間でしたか? 「散々な一週間だった」という方もおられるかもしれません。「神さまは何もしてくれなかった」と思う方もおられるかもしれません。私も振り返ってみると、いろいろなことに振り回された一週間だったように思います。しかし「神さまは、私の願うとおりにしてくれなかった」と言ってしまったとしたら、それは今日のファリサイ派とサドカイ派の人たちと同じことになってしまいます。つまり、自分たちの要求するとおりの「しるし」を見せてくれなければ信じない、と。
 そんな思いでもう一度振り返ってみると、実はイエスさまのお守りやお導き、神さまのご配慮というものが、この小さな私の所にもあったことが見えてまいります。またたとえば、昨日行われたCSの「お楽しみ会」。新型コロナウイルス感染拡大の中で、悩み迷いつつも万全の対策をとって行いました。あまり大きく宣伝せず、しかし、予想よりも多くの子どもたちが親御さんと共に来られました。また、インターネットの当教会ホームページを見て初めて当教会に来られた方もいました。これらは、皆さんに祈っていただいた祈りを主が聞いてくださったのだと思っております。
 
   時代を見分ける
 
 イエスさまはおっしゃいました。「このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」
 「時代のしるし」‥‥これは、時代を見てイエスさまが救い主メシアであることを悟れ、ということです。今の時代はどうでしょうか? 新型コロナウイルスの登場によって、世界は一変しました。これがなければ、今頃は東京オリンピックが始まり、日本中が盛り上がっていたことでしょう。世界の人々は、神なき現代文明の中で、相変わらず神さまのことなど忘れ、この世の生活に追われ、またこの世の楽しみを求めて何事もないかのように歩んでいたことでしょう。
 しかし今や、誰も予想もしなかった厳しい現実に直面しています。世界は不安と不満のまっただ中に投げ込まれています。これは時代のしるしではないのでしょうか?‥‥真の救い主を求めるようにとの、時代のメッセージを私たちは聞き取るべきではないでしょうか。
 きょうの聖書箇所の最後に、「イエスは彼らをあとにして立ち去れた」と書かれています。立ち去られるイエスさま。彼らは、「主よ、待ってください」と言ってあとを追いかけ、身を低くして教えを乞うべきではなかったでしょうか。
 (ローマ 10:17)「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 平和聖日の今日、あらためてキリストの言葉に耳を傾ける思いを新たにしたいと思います。また、世界の人々が、そのキリストの言葉に耳を傾けるようにとりなして祈る者でありたいと思います。


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