2020年7月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記2章2節
    マタイによる福音書15章32〜39 
●説教 「数字の秘密」

 
   聖書の数字に意味はあるか
 
 本日の説教題は「数字の秘密」としましたので、中には「小宮山牧師はマニアックな世界に足を踏み入れようとするのか?」などと思った方もおられるかもしれません。確かに聖書に出てくる数字について、そこに何か特殊な意味が込められているのではないかと、いろいろ詮索するというタイプの読み方があります。しかしそれは、聖書が私たちに伝えようとしているメッセージから、それてしまう危険があります。ですから私は、これまで聖書に出てくるさまざまな数字について、あまり特別に意味を詮索することはしてこなかったつもりです。
 しかし、では聖書に出てくる数字に特別な意味が全くないかといえば、そうではありません。それどころか、聖書自身が、そこに特別な意味が込められているよと書いている場合があります。たとえばその一つは、これはむしろクリスチャンではない方のほうで有名かもしれませんが、ヨハネの黙示録13:18です。こう書かれています。
 "ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666である。"
 ここでいう「獣」というのはキリスト者を迫害する人のことで、その人を表す数が666であり、賢い人はその意味を考えなさいと聖書自身が書いているんです。ちなみに、この箇所の666はローマ皇帝のネロを指すというのが有力な説となっています。なぜ666がネロを表すのかについては、長くなりますので、説明を省略いたします。
 ともかく聖書自身が、数字に意味があるよと示唆している箇所は他にもあります。そういうことを考えると、聖書に出てくる数字というものに全く意味がないとは言えません。もちろん、単に実際の数を書き留めているだけの場合も多いわけですが、なにか数字に意味を持たせているのではないかと思われる箇所もあります。
 
   聖書の数字の実際
 
 聖書で、ある意味を持っている数字という例をいくつか挙げてみます。他にもいろいろありますが、よく知られているものだけを挙げてみます。
 1‥‥これは、神がお一人であるということを表す数字です。
 3‥‥「三位一体」を表す数字です。ただし、聖書ではそれは隠された形で記されています。
 4‥‥「全地」「全世界」を表します。東西南北の4つの方角から来ています。
 7‥‥完全数と言われます。神さまが7日間で世界を造られたことから来ています。ラッキー7の7ですね。
 12‥‥「神の民」を表します。イスラエル12部族ですね。それから、イエスさまが弟子の中からお選びになった12人の使徒。それでこれは「教会」を表す数にもなります。聖書は、この12の数字にはけっこうこだわっていて、12使徒の一人であるイスカリオテのユダが自殺で亡くなって11人となってしまったあと、ペンテコステの前に弟子たちはわざわざ一人補充して使徒を「12」人に戻しています。
 40‥‥神の定めた長い期間というような意味があります。たとえば、創世記でノアの大洪水のとき、雨が40日間降り続いたということが書かれています。また、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、40年間荒れ野で生活したこともそうです。イエスさまも世に出られる前、荒れ野で40日間断食をなさいました。この40という数字は、実際に40年間、あるいは40日間という時間を経過したという意味にもとれますし、細かく言うと実際は40日または40年ではなかったけれども、神さまの時が満ちるまでの長い時間という意味で使っているとも考えられるのです。
 さて、そのようなことをちょっと頭の片隅に置いて、きょうの聖書箇所を見てみましょう。
 
   四千人の給食
 
 きょうの聖書箇所は「四千人に食べ物を与える」という見出しがついていますが、皆さんすぐに思われることは、ちょっと前に同じようなことがあった、ということでしょう。そうです。前の章、14章の13節からのところに「5千人に食べ物を与える」と見出しのついた、この礼拝でも読んで間もない出来事がありました。そこでは、イエスさまが5つのパンと2匹の魚によって、5千人の人々(男だけでも)を満腹にさせるという奇跡がありました。そして今日の箇所では7つのパンと少しの魚で4千人を満腹にさせるという奇跡をなさっています。
 この二つの奇跡は、パンの数と人の数が違っているだけで似ています。なぜ同じような出来事を2回も記録しているのか? 「少しのパンと魚で、おおぜいの人々の空腹を満たしました」ということを書いて終わりでも良さそうな出来事を、あえて2回とも記している。これはやはり、聖書が私たちに伝えたいメッセージがあると考えるべきです。
 この二つの違いは何でしょうか?
 一つには、数が違います。パンの数が違い、人数も違う。
 もう一つは、場所が違います。5千人の給食はガリラヤ湖の西側、すなわちユダヤ人(イスラエル人)の住んでいる場所で起きました。そしてきょうの4千人の給食は、ガリラヤ湖の東、または東南側、すなわち異邦人が住んでいる場所で起きています。そしてこれは前回も申し上げたとおりですが、異邦人と言っても全くの異邦人ばかりではない。そこはかつてはイスラエルだった地域です。そしてその中にはイスラエル人の子孫が含まれている。もっと正確にいえば、そこはイスラエルから見て全くの異民族もいれば、かつてはイスラエル人だった人の子孫もいる。つまりかつては、聖書に証しされている真の神さまを信じていた人たちの子孫です。15章24節の言葉を借りれば、「イスラエルの家の失われた羊のところ」です。
 さらに細かく見ていきますと、5千人の給食では、夕暮れになり、弟子たちが「もう時間も経ったので、群衆を解散させ、買い物を買いに行くことができるようにさせて下さい」ということをイエスさまに提案しました。しかし今回は、イエスさまのほうから弟子たちに言っています。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」と。
 
   数字
 
 まず数字ですが、5千人と4千人。これは男だけの数ですが、それは女性と子供は数えないことになっていたからで、実際にはほかにも多くの女性や子供がいたと推測できますが、ここでは書かれている数としての5千人と4千人。この数字は、聖書ではどちらもそのままでは特に意味のある数字として使われている様子はありません。
 しかし4千のほうですが、これは4の千倍ですね。4が「全地」つまり「全世界」を表すことと関係あるかもしれません。あるいはまた、40の百倍ですね。40は、神の時が満ちる長い期間という数字です。40の10倍の400もイスラエルがエジプトに居住した期間が400年と前もって神が決めておられたことから分かるように、やはり神の定めた長い期間ということになります。そうすると、4千という数字はもっと多いわけですが、そこに意味が込められているとすれば、神さまがご計画なさった全世界の非常に多くの人々、ということがメッセージに込められているともいえるでしょう。
 そうしますと、現在の日本は非常に多くの人々がキリストを信じるに至っているでしょうか? 全然そうは言えません。しかしこのメッセージは、非常に多くの人々がキリストのもとに導かれるという神のご計画の言葉として与えられているとも言えます。そしてそのような解釈は、聖書の他の箇所と照らし合わせても合致しています。神は、わたしたちがまだ知らない、出会ったことのない多くの人々を、キリストのもとに導かれる。そういうことがこの奇跡を通して明らかにされている。そう考えると、希望と励ましを与えられます。
 
   与えなさい
 
 さらに、人々が食べ残したパンの残りを集めると7つの篭いっぱいになったと書かれています。 先の5千人の給食では、余ったパンを集めると12の篭いっぱいになったと書かれていました。ここでも「7」と「12」です。12は、先ほど申し上げましたように「神の民」を表す数字です。イスラエルの12部族。新約聖書では12使徒、そして12使徒が代表する「教会」です。
 5千人の給食のときは、5つのパンと2匹の魚がイエスさまに渡されました。そしてそれをイエスさまが感謝し、父なる神さまを賛美して配られると、男だけでも5千人の人々がお腹いっぱい食べることができました。このとき、イエスさまから渡されたパンと魚を配った弟子たちは、まず自分たちが食べてから群衆に配ったんでしょうか? それとも自分たちのことは後回しにして、まず群衆に配ったんでしょうか?‥‥まず先に群衆に配ったに違いありません。自分たちのことは後回しにして、まず群衆に配った。そして残ったパンくずを集めると、12の篭にいっぱいになった。先ほど申し上げたように「12」は教会を表します。
 そうすると、これは教会がするべきことを教えていると思います。まず人々に与えるんです。自分たちのことは後回しにして。ところが、ちゃんと教会の分もイエスさまは残して与えてくださる。そういうことが教えられます。私たちもそうです。まず人に与える。そうすると、ちゃんと私たちのこともイエスさまは考えていて下さっている。「受けるよりは与えるほうが幸いである」と主イエスはおっしゃったと、使徒言行録20:35に書かれています。
 あるいは、自分のことを後回しにして、頼まれた大切なことを先にする。そうすると不思議にも後回しにして大丈夫かなと思った自分のことがちゃんとうまくいくということが、皆さんにもあったのではないでしょうか。
 そして今日の所の4千人の給食では、残ったパンくずを集めると7つの篭いっぱいになったと書かれています。「7」は完全数です。神さまの数、調和のとれた数です。それはまた完成を表します。4千が全世界の多くの人々を表すとしたら、その全世界に教会が福音を届けることによって、完全な救いが訪れる。そんなふうにも読み取ることができると思います。そしてそれは、このパンを裂いたキリストによって成し遂げられる。私たちの教会も、そのような福音をあずかっています。その福音を人々に届けるという、教会の使命をあらためて思い起こさせます。
 
   学んでいない私たち
 
 さて、今日の弟子たちの言動を見てみましょう。少し前に5千人の給食の奇跡がイエスさまによってなされたわけですが、今日の所でイエスさまが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」とおっしゃったとき、弟子たちは「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と答えています。
 なんで弟子たちはこのように答えたんでしょうか? この前イエスさまが5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5千人という多くの人々を養ったことを忘れてしまったんでしょうか? 今日の箇所でイエスさまが弟子たちに「空腹のままで解散させたくはない」とおっしゃったとき、なぜ弟子たちはその時のことを思い出して、「イエスさま、あなたは、7つのパンでこの4千人の群衆に食べさせることがおできになります」と言わなかったんでしょうか? 
 弟子たちは、いつになったらイエスさまを信じることができるんでしょうか?‥‥
 しかしこれは他人事ではないんです。私もこの弟子たちと同じです。私はクリスチャンになってからも、何度もピンチに追い込まれたことがありました。「もうダメだ」と思うことが何度あったことでしょうか。しかしそのたびに、不思議にも解決されてきました。イエスさまが助けてくださったんです。そのように、今まで危機を何度もイエスさまによって助けられてきたのにもかかわらず、また危機が訪れると、平安を失ってしまう。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか?」と、弟子たちと同じように思ってしまう。不信仰です。
 私の若いときの恩師であるボストロム先生は、あるとき息子を叱った話しをなさいました。「何度言ったら分かるんだ!」と。するとそのとき主が先生に語られたそうです。「あなたは何度言ったら分かるんですか?」と。
 本当に不信仰な私たちです。しかしこのように正直に申し上げることができるのも、この不信仰な弟子たち、そして私たちをお見捨てにならないイエスさまがいらっしゃるからです。イエスさまへの信頼を、聖霊なる神さまが増してくださるのです。


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