2020年7月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書28章22節
    マタイによる福音書15章21〜28
●説教 「パンくずに魂あり」
 
   叫びながらついてくる女
 
 本日の聖書箇所は、イエスさまが外国へ行かれた時のお話しです。外国と言いましても当時のイスラエルも周辺の国々も、みなローマ帝国という大きな国の一部となっていましたので、正確には外国とは言えませんが、昔からの民族とか国境のことで言うと外国と言っていいことになります。それがそこに書かれているティルスとシドンの地方ということです。今で言えばレバノンという国に当たります。イスラエルのすぐ北側に位置しています。
 イエスさまが、かつてのイスラエルの国の領域を出て外国に行かれるというのは、たいへん珍しいことです。イエスさまは何をしに行かれたのでしょうか?
 マタイによる福音書には何も書かれていません。しかし同じ出来事を書いているマルコによる福音書の7章24節を見ますと、こう書かれています。‥‥「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」
 つまり、神の国の福音を宣べ伝えるために行かれたのではなくて、なにか他の用事があったようです。そしてご自分がここに来たことを誰にも知られたくなかったのだけれども、知られてしまった。そしてきょうのこの女性の登場となるわけです。
 「この地に生まれたカナンの女」と書かれています。マルコによる福音書のほうでは、「ギリシャ人」と書かれています。シドンとティルスという町は、旧約聖書の時代のイスラエルの全盛期であるダビデ王の時にも、イスラエルの領土となったことはありません。また、ギリシャ人はイスラエルから見て完全に外国人です。つまり聖書はここで、この女性がイスラエルの範囲の外にある人であったということを強調しているわけです。
 そしてこの女性が、自分の娘が悪霊によって苦しめられていると言ってイエスさまに助けを求める。ところがイエスさまは、最初取り合おうとしない。‥‥そこが「いったいなぜだろう?」という疑問を呼ぶわけです。しかも「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまでおっしゃっている。これはどうしたわけなのか?
 
   神のご計画
 
 むかし、教団のある会議に行きましたときに、そこで「差別」ということが話題となっていました。そしてある牧師が「イエスも差別をした」ということを言ったんです。そしてきょうの聖書箇所を例に挙げました。たしかに差別は良くないことには違いありません。しかし果たして本当にイエスさまは、この女性を差別したんでしょうか?‥‥「差別」という言葉を辞書で引くと、「わけへだて」という意味が挙げられています(広辞苑)。そうすると聖書には、たとえばローマの信徒への手紙2章11節に「神は人を分け隔てなさいません。」とちゃんと書かれています。ですから、イエスさまが差別をなさるはずがないんです。
 では、このイエスさまの対応は何なのか?‥‥結論からいうと、神さまのご計画がある、ということです。もっと分かりやすくいうと、物事には順序というものがあるということです。
 たとえば、家を建てるというとき、早く快適に過ごしたいからといって、いきなりリビングルームから作り始める人はいません。まず基礎を作らなければなりません。それから柱を立て、梁を渡し、屋根を取り付け‥‥という順序に進んでいきます。また、フルコースの料理も、いきなりメインディッシュから出てくるのではありません。まず前菜が出され、スープがあり、そしてメインディッシュと進んでいきます。そのように順序というものがあります。
 イエスさまが、この女性の求めに対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられました。これは、イエスさまが父なる神さまからイスラエルの民に遣わされたということでしょう。それを「失われた羊」とたとえておられるのは、このままでは滅んでしまうからです。
 イエスさまはイスラエル人として生まれ、そしてイスラエルの民のところに遣わされたという。それは神のご計画であったのです。それはさかのぼれば、旧約聖書の最初の創世記までさかのぼります。その創世記12章で、神さまがアブラム(アブラハム)という人を選んで言葉を与えられた。アブラムはその神の言葉を信じて従って行った。ここから救いの物語が始まっていると言うことができます。そしてそのとき神さまがアブラムにおっしゃったことは、アブラムの子孫を通して世界の人を祝福するということでした。祝福するというのは、救うと言ってもいいでしょう。アブラハムの子孫を通して、世界の人を救うという神さまのご計画があった。そして、そのアブラハムの子孫というのがイエス・キリストのことなんだというのが、このマタイによる福音書の最初に書かれていたことです。思い出してください。
 そのように、神さまの救いのご計画には順序があるということが聖書を読むと分かってきます。そしてイエスさまは、その神さまのご計画に従ってこの世に来られたということです。それがここで言われている「イスラエルの家の失われた羊」ということです。
 しかしイエス・キリストの救いは、イスラエルの家だけにとどまらない。それは、このあとイエスさまの十字架という出来事が起きる。イエスさまが十字架上で命をささげられる。そして復活を経て、イエスさまが弟子たちにおっしゃいます。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(マタイ28:19)。もうそこでは、イスラエルの民も外国人も日本人もありません。しかしそのためには、イエスさまが十字架にかかるという出来事を経なければならなかった。それが神のご計画です。その意味でも、私たちを救うために、イエスさまは十字架で命を捨てなければならなかったんです。
 これでもう「差別」という言葉が全く当たっていないことが分かると思います。それどころではなく私たちを救うために命を捨ててくださった方なんです。
 
   食い下がる
 
 さて、そうすると、イエスさまはなぜ今日の箇所でこのような一見冷たく見える応対をなさったのか?‥‥ここはもう外国人だとかイスラエル人たとか、そういうことを抜きにして考えてみましょう。つまり、イエスさまと一人の人という、一対一の関係で見ることが大切です。病気の娘を持つ一人の母親である人間とイエスさまです。
 そうするとこの女性は、イエスさまに対して「主よ、ダビデの子よ」と叫んで呼びかけています。イエスさまを我が主と呼び、しかも「ダビデの子」と呼んでいる。この「ダビデの子」というのは、前にも出てきましたが、キリスト、救い主ということです。すなわち、彼女はイエスさまを救い主であると認めている。いったいどこでイエスさまのことを知ったのか、またイエスさまが神から遣わされた救い主であることをどうして知り、また信じるに至ったのか、それは書いていないから分かりません。とにかく、彼女はイエスさまを主と呼び、娘の病気のことであわれみを求めたんです。
 しかしイエスさまは何もお答えにならなかったという。道を急いでいたんでしょうか? それにしてもつれないイエスさまの態度に見えます。しかしなおもイエスさまに叫び求め続けている様子。それで弟子たちがイエスさまに「この女を追い払ってください」と言う。弟子たちが彼女に言っても聞かなかったのでしょう。それでイエスさまに言ってやってくれという。
 すると先ほど見ましたように、イエスさまは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃった。ところが彼女はあきらめない。食い下がるんです。イエスさまの進路をふさぐように、イエスさまのまえに来て、ひれ伏して「主よ、どうか助けてください」と懇願する。なんとしてもという思いが伝わってきます。
 するとイエスさまがおっしゃった。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。ちょっとショッキングな言葉に聞こえます。ここでいう「子供たち」というのは、イスラエルの民のことです。そして「小犬」とは、イスラエルの領域の外の民のことでしょう。「犬」というと、これはイスラエルでも日本でもバカにした言い方になりますが「小犬」というとかわいいものという感じになります。しかし、あなたは今の時点では神のご計画の対象外だということには変わりない。
 しかしさらにこの人は食い下がります。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。今の犬は、お犬様と申しますか、ことによったら人間よりも高価なものを食べさせる人もいるようですが、私の子どもの頃は犬と言えば残飯を食べていたものです。人間と同じものを食べさせるという人はあまりいなかった。しかし、たしかにご主人様の食卓から落ちるパンくずを小犬が食べたとしても、その小犬を叱る人もいなかったでしょう。自分はそのパンくずでけっこうだというのです。食卓からこぼれ落ちたパンくずをいただくのなら、あなたのご迷惑にはならないでしょうと。
 するとイエスさまはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」‥‥信仰が「立派だ」と日本語に訳されていますが、この「立派だ」という言葉はギリシャ語原文ではメガスという言葉になっています。メガトン級とか、メガバイトなどに使うメガですね。巨大という意味です。そして「おお」とか「ああ」とかいう言葉がくっついている。ですからここを私流に訳すと、「おお、婦人よ!あなたの信仰はすごい!あなたの願い通りになれ!」‥‥となります。
 この女性の予想外の行動と言葉に、イエスさまが驚いておられる。そして女性の願いがかなえられるように宣言されています。そうしてお嬢さんの病気は癒されたと書かれています。
 
   へりくだった信仰
 
 神さまのご計画というものがある。イエスさまはその神さまのご計画に従って歩んでおられました。しかしこのご婦人の願いをかなえることは、この時点では神のご計画の外でした。なぜなら、先ほど申し上げましたように、まだイエスさまが十字架にかかられる前だからです。しかし、このご婦人のイエスさまを求める熱意、それをイエスさまは「信仰」と呼んでおられます。
 彼女は、非常にへりくだっています。「小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」とイエスさまに申し上げました。自分は「子供たち」と呼ばれる資格のない者である。しかし小犬でも良い。小犬でも、子供たちが食べていて下に落としたパンくずはいただけるのだからと。このへりくだった、言い換えれば自分を無に等しいものとした言動は尊いものであると、イエスさまの目に映ったのです。
 この出来事の前の箇所は、ファリサイ派と律法学者とのやりとりがありました。このご婦人に比べて、人々の先生であったファリサイ派と律法学者はどうでしょう。イエスさまよりも高い立場に立っている。そして非難している。これではイエスさまがどなたであるのか、まったく分かりません。分かるはずもありません。
 我が身を低くするんです。そうするとイエスさまが見えてきます。イエスさまがどなたであるかということが見えてきます。そして恵みが見えてきます。
 主の祝福をいただく資格がない。私も主の祝福をいただく資格がない者です。しかし祝福をいただく資格のない小犬でも、食卓から落ちるパンくずはいただける。ここに救いがあります。
 そして、神のご計画になかったことが、ここでかなえられています。私たちは「すべては神のご計画だから」と言ってあきらめてしまってはならないのです。「すべては神のご計画だから仕方がない」と言ってしまったとしたら、それは運命論者と変わらなくなってしまいます。そもそも神さまのご計画というのは、私たちには分かりません。だから、私たちは、身を低くして、イエスさまに願いを申し上げて良いのです。そうしてあとは、イエスさまにお任せする。イエスさまはお任せして良い方です。私たちを愛してくださっているからです。


[説教の見出しページに戻る]