2020年7月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編5編10
    マタイによる福音書15章10〜20
●説教 「人間の外側と内側」
 
   言葉の力
 
 本日の聖書箇所を読みまして、あらためて言葉の持つ力というものを思います。
 きのう、ラジオのキリスト教放送局のFEBCから毎月送られてくる機関紙を読んでいましたら、放送を聞いている、ある女性からの手紙が目に留まりました。その方は、ヨハネによる福音書の9章で、イエスさまが生まれつきの盲人におっしゃった「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が罪を犯したのでもない。ただ神の御業が、彼の上に現れるためである」というみことばについて、「なんとうれしいみことばでしょう」と書いていました。それによりますと、昔その方のお祖母さんが、お母さんのことを「お前の育て方が悪いから孫は出来が悪いんだ」といつも言われていて、その方もそう思い込み、お母さんのことを尊敬できなかったそうです。そのように育ったので、自分自身に息子が生まれたとき、思うように育ってくれないので、「私の育て方が悪いんだ」「私の何が悪いの?」と心の中で自分を裁いていたそうです。しかし先ほどのイエスさまの御言葉に出会ったとき、心の霧がスーッと晴れたということです。そして、自分を責めることなく、「息子の人生だ」と思って寄り添っていけるようになったそうです。また、今は施設に入っている自分の母に心からわびて、手を握りしめるのだそうです。
 まさに言葉が人の心を生かしもし、殺しもするということを見た思いになりました。きょうの聖書箇所でイエスさまが、「口から出てくるもの」ということをおっしゃっていますが、それは人間が語る言葉のことを言っておられるわけです。
 
   神に受け入れるためには?
 
 きょうの聖書箇所は、先週からの続きの箇所となります。人々に神さまのことを教える宗教家であるファリサイ派と律法学者。彼らがイエスさまについて批判したことについて、イエスさまは厳しくその偽善を指摘なさいました。
 そして今日イエスさまがおっしゃっていることは、細かい宗教上の規則なんかどうでもよい、ということではないんです。イエスさまがおっしゃっているのは、神さまに受け入れられるためには何が必要か、ということなんです。神さまに受け入れられるために必要なことは、わたしたちの外側が清いことか、それとも内側が問題なのか、ということです。
 
   たとえ
 
 ファリサイ派と律法学者がイエスさまにつまづいて去って行った。「つまずいた」というのは、ここでは腹を立てたということでしょう。そしてイエスさまは群衆を呼び寄せて教えられました。(11節)「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
 これはたとえであるといいます。そしてこのたとえについて解説をして下さいと弟子たちがイエスさまに言っています。そしてその解説をイエスさまが語りになっているというのがきょうの聖書箇所です。
 イエスさまが17節「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか」とおっしゃっている。口から入るものは胃と腸を通って外に出て行く。だからそれが人を汚すのではない、と。ただそのように言われますと、「イエスさま、でも毒キノコを食べたり、フグを食べたりすれば当たります」と言いたくなる方もおられると思いますが、前回も申し上げたように、ここで言われている汚れ(穢れ)というのは、衛生上や健康上のことを言っているのではなく、宗教上の穢れについておっしゃっているわけです。
 前回のところでファリサイ派と律法学者が、なぜ食事の前に手を洗わないのかと言ってイエスさまをとがめましたが、それも宗教上の汚れを落とすために手を洗うということについてでした。
 そして今日のところでは、「すべて口に入るものは」と言っておられますが、それは食べ物のことを言っているんです。旧約聖書のレビ記の11章には、食べて良いものと食べてはいけないものについて書かれています。いわゆる食物規定というものです。たとえば皆さんも、ユダヤ人やイスラム教徒は豚肉を食べないということを聞いたことがあると思いますが、それは宗教上の食物規定なんです。そしてそれがそのレビ記の11章などに書かれている。そこには、動物で食べて良いものは、ひづめが分かれていて反芻する動物であって、そうではない動物は汚れているから食べてはならないと書かれています。そして豚はひづめが分かれているけれども反芻しないので食べてはダメということになります。他にも、水中の生物はひれとうろこのあるもの以外は汚れているので食べてはならないと定められている。ですからユダヤ教徒は今でもイカとかタコは食べません。
 しかしキリスト信徒は何でも食べます。キリスト教には食べ物のタブーというものがありません。なぜないかと言えば、イエスさまが今日のところのようにおっしゃっているからです。
 しかし、そうしますと、旧約聖書のレビ記や申命記に書かれている汚れの規定や食物規定というものは、そもそも神さまがモーセに語られたものではなかったのか?と疑問に思われますね。神さまが定めた律法をイエスさまが否定したのか?ということになってしまいます。
 このことについては、本日ていねいに解説することは目的ではありません。ただひと言だけ申し上げておくと、イエスさまが来られたことによって変わった、ということです。変わったという言い方が適当ではないとしたら、イエスさまが来られたことによって、それらの旧約聖書の規定は目的を果たし終えたと言うこともできます。イエスさまが来られたことによって新しいことが起こってるんです。その最たるものが、罪人である私たちが救われる、ということです。
 
   穢れの問題
 
 いずれにしても、宗教上の汚れの問題というのは何かといえば、それは神さまに受け入れてもらえないということです。汚れているままでは神さまに受け入れていただけない。それで、ファリサイ派と律法学者をはじめとした人たちは、自分たちの汚れを清めようとして、いっしょうけんめいになっていた。しかし問題は、彼らは汚れというものが、外からやって来て自分を汚すのだと考えていたことです。汚れたものに触れたかもしれないから、外出から帰ってきたときは水で洗って清める、食事の前には汚れを取り除くために必ず手を洗う。そのように、汚れというものは外からやって来て自分を汚すのだと考えていた。
 
   問題は内側
 
 それに対してイエスさまがおっしゃっていることは、人を汚すのは外から汚れがやって来てその人を汚すのではない。その人自身の内側に原因がある。その人の心に原因がある。そこから出てくるものが人を汚すということです。つまり、自分を汚すのは、自分自身だということです。
 私が中学生の時、クラスでいじめを受けている女子生徒がいました。暴力を振るわれるってことはなかったんですが、今でもそのことを思い出すと心が痛みます。まわりの同級生たちがその子のことを「汚い」って言うんです。だからその子が使ったものを触らないようにするんです。そして誰も話しもしない。ひどい話しです。しかしイエスさまによれば、汚いのはその子をいじめている人自身の心です。それはどんなに汚れていることか。どんなにみにくいことか。私はそれを傍観していた。同罪です。だから50年近くもたった今でも心が痛みます。
 ファリサイ派と律法学者たちは、敬虔な宗教家であるけれども、汚れは外からやってくるものだと考えていました。そう考えるとだんだん実感を伴って分かってくると思います。外から汚れがやってきて、自分に移る。だから自分に移らないように、せっせと水で清めて汚れがなくなったと思っている。
 そうじゃないって、イエスさまは言われるんです。そう考えると、ファリサイ派と律法学者に対して、なぜイエスさまがあんなに激しく反論なさったか、お分かりと思います。イエスさまの怒りです。神さまが問題とするのは、そんなことではない。他の人を汚れていると言って裁いている、そのあなたの心の中なんだ、と。それこそが汚れている。神が忌み嫌われるものがあると。
 
   内側の汚れ
 
 19節に、心から出てくる汚れのリストが述べられています。‥‥「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」。ここまで言われないと、私たち人間は分からないんですね。神さまの心が。「いや、私にはそのようなものはありません」という人がいたら、それこそが最も汚れていることになるでしょう。気がついていないんですから。自分の心の中の汚れが。聖書を読んでいくと、そのような汚れが自分の心の中にあることに気がついていきます。
 新約聖書のヤコブの手紙に次のような言葉があります。
(ヤコブ 3:9〜11)「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。」
 わたしたちは神を賛美する。しかしその同じ口で人を呪う。これはあってはならないことではないかと、使徒ヤコブは語りかけています。私たちは胸を打って、悔い改めなければならないんです。そして汚れを清めていただかなければなりません。
 しかしどうやって清めていただけるんでしょうか? 外からの宗教的な汚れならば、水で洗って清まるかもしれません。しかし口から出てくるもの、その源泉である心の汚れはどうすれば清まるのでしょうか?
 自分の力で清めることはできません。しかし聖霊によって清めていただくことができるんです。ではその聖霊は、こんな汚れの満ちた私たちのところに来てくださるんでしょうか?‥‥来てくださいます。罪人である私たちを救うために十字架にかかってくださったのが、他ならぬイエスさまだからです。今日の言葉をおっしゃったイエスさまが、十字架にかかってくださって、この言葉を真実なものとされたんです。
 こうして私たちの心の中という泉から、救いを求める言葉の水と、救ってくださった主を賛美する言葉の水が出てくることになります。そしてその願いを主は聖霊によってかなえて下さる。ここに私たち自身についての希望があります。


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