2020年5月10日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書61:1〜4
    マタイによる福音書13:51〜52
●説教 「倉を持った学者」

 
イエスさまのたとえ話
 
 さて、今日の聖書箇所で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、これらのことがみな分かったか?」と、お問いになりました。
 「これらのこと」というのは、たぶんこのマタイによる福音書の13章に入ってからの、イエスさまのなさった、たとえ話のことをおっしゃっていると思われます。もちろん、この福音書の5章から7章に渡って語られた、いわゆる「山上の説教」からのすべてのイエスさまのお話と考えてもよいのですが、流れとして考えると、やはりこの13章で語られている「たとえ話」のことだろうと思われます。
 そうすると、イエスさまは13章に入ってから、7つのたとえ話を語られました。はじめに「種をまく人のたとえ」、それから「毒麦のたとえ」、「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」「畑の中に隠された宝のたとえ」「良い真珠を見つけた商人のたとえ」「網の中の魚のたとえ」の7つです。そして、このうちの「種をまく人のたとえ」と「毒麦のたとえ」では、イエスさまご自身が、たとえ話の解説をなさっているという珍しいものです。すなわち、たとえ話の理解の仕方をヒントとして弟子たちにお語りになったといえるでしょう。
 そしてこれら7つのたとえ話は、一体何をたとえて話しておられるかと言いますと、それは「天の国」のことをたとえておられました。天の国、言い換えれば「神の国」のことですし、神様のことであると言っても良いでしょう。こうしてイエスさまは、たとえ話を使って神さまのことを語られました。そしてなぜたとえ話を使って天の国のことを語られたかというと、これもイエスさまご自身が途中で解説しておられたことに関係しているのですが、すべての人に天の国、すなわち神さまのことを直接語っても理解できない。だから「たとえ話」を使って、語られる。しかしそのたとえ話も、そのままでは何のことかよく分からない。しかし弟子たちのように、神を求め続ける者となったとき、言い換えれば救いを求め続ける者となったときに、その意味は鮮やかに明らかにされていく。そして喜びがあふれる。‥‥まさに「福音」ですが、福音が明らかにされる。そういうことでした。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」(マタイによる福音書7:7)のお言葉通りですね。
 
分かったというけれども
 
 さて、今日の聖書箇所の最初のところに戻りますが、イエスさまは弟子たちに対して「あなたがたは、これらのことがみな分かったか?」と、お問いになりました。すると弟子たちは、「分かりました」と即答しています。
 弟子たちが「分かりました」と言って即答‥‥!そうしますと私などは、「なんだって?全然分かっていなかったじゃないか」とツッコミを入れたくなります。「だって、あなたたちは、イエスさまが十字架にかけられる前の晩、イエスさまを見捨てて逃げたではないか、イエスさまを裏切った者もいるではないか、ペトロだってイエスさまとの関わりを否認したじゃないか!」って。それなのに、イエスさまに「分かったか?」と聞かれて「分かりました」と即答とは‥‥。いかにも軽い答えのように感じないでしょうか。
 ところが、イエスさまは「本当は分かっていないくせに」‥‥などと小言をおっしゃらないんですね。それは、やがてこのイエスさまを見捨てたり否認したりする弟子たちの弱さや罪深さといったものを、すべて織り込み済みでおっしゃっているかのようです。
 いうまでもないことですが、人間、頭で分かったということと、実際に体験してみて分かることがあります。たとえば、テレビ番組に俳句の先生が芸能人の俳句を査定するものがありますね。なかなか面白いです。芸能人が作った俳句を、俳句の先生が添削する。ある俳句などは、バッサリ切られる。その解説がなされます。見ている私たちは、「なるほどなあ」とか、「こんなんじゃダメや」などと分かった気分になるわけですが、ではいざ「じゃあ、おまえが俳句作れ」と言われたら、さっぱりダメということになるだろうと思います。
 そのように、頭で分かっていることと、実際にそれができるかということとは違います。しかし、イエスさまは、やがてこの弟子たちがご自分を見捨てることをご存じであった。すなわち、彼らがイエスさまを見捨てる。そしてイエスさまは十字架にかかって死なれる。しかし、復活されたイエスさまによってその罪が赦される。それは神の愛に基づく赦しです。‥‥そういうこれから起きる最大の出来事を弟子たちが経験してみて、初めてこれらのたとえ話が本当の意味で分かることになる。‥‥そういうこれからのことを含めて、イエスさまは見ておられるということができます。
 
天の国の学者
 
 そしてイエスさまは続けておっしゃいました。「だから、天の国のことを学んだ学者はみな、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
 これもまたたとえのような、謎解きのようなことをおっしゃいました。これは、弟子たちの「分かりました」という答えを受けておっしゃったのです。つまり、「あなたがたは天の国のことを学んだ学者だ」とおっしゃっているんです。
 ここでイエスさまが弟子たちのことを「学者」と言っておられる。この学者という言葉は、新約聖書では律法学者に対して使われている言葉です。律法学者とは、人々に神の掟を教える先生でした。もちろん当時は聖書と言えば旧約聖書しかなかったわけですが、その聖書をよく研究し、先生について学び、究めた人たちです。だから聖書のことは何でもよく知っていました。たとえば、有名な神の掟に「十戒」がありますが、その中に「安息日を心にとめ、これを聖別せよ」という掟があります。そしてそこには、安息日には、いかなる仕事もしてはならないと書かれています。では、何がその仕事に該当するのか、というようなことを律法学者の先生は自分たちで研究して、答えることができるわけです。たとえば、「漬け物石を持ってはならないが、お茶碗を持つことなら良い」‥‥という具合です。そうして人々を教えた。聖書の先生です。ですから、人々は尊敬していました。神の言葉である聖書が、そこで教えられるからです。これが、ここで言う学者です。
 ところが、イエスさまは、目の前にいる弟子たちが「学者」だと言われるんです。そう言われましても、この弟子たちは、律法学者のように聖書を学んだ人ではありません。どこかの有名な律法学者の先生について学んだわけではありません。彼らのうちの少なくとも4人はガリラヤ湖で魚を捕る漁師です。また、この福音書を書いたマタイは、徴税人でした。そのほかの弟子たちも、とくに律法学者と呼ばれるような人たちではなかったようです。一般庶民です。
 しかし、彼らはイエスさまによって「天の国のことを学んだ学者」と呼ばれています。人から見たら学者ではない、学者の資格もあるように見えない。しかし「天の国のことを学んだ学者」だと言われています。
 そうすると、イエスさまは、何をもって学者と言っておられるんだろうかという疑問がわいてきます。「天の国のことを学んだ」とおしゃっている。しかしそれなら、律法学者こそが聖書に精通し、神さまのことについて学んできているのではないのか?それなのに、彼らが「天の国のことを学んだ学者」なのではなくて、この頼りなさそうな弟子たちが「天の国のことを学んだ学者」だと言われる。いったいどうしてか?
 その違いは、弟子たちはイエスさまに従ってきて、イエスさまのなさることを身近で見聞きしてきて、そしてイエスさまのお話に耳を傾けてきたということです。これは新しいことです。
 
古くて新しい問い
 
 以前、北陸におりましたときに、地元の新聞社から、毎月一回コラムを執筆するように依頼されました。そして仏教のお坊さんたちに交じって、月に一回コラムを担当するようになりました。そうすると、新聞社の担当の方が、聖書を読むようになりました。彼は旧約聖書から読み始めました。そうして読み進めていくうちに、だんだんと聖書を批判的に見るようになりました。それは、戦争のことばかり書いてある、ということです。また、神が罰として人を殺していると言うんです。確かに旧約聖書の物語を読んでいると、戦争の出来事が多く出てきます。まさに中近東は戦乱の地です。そして、神が罰として人間を裁くと言うことも出てくる。その裁きによって人間が死ぬんですね。そうして彼はつまづいたようでした。私はそれを聞いて、新約聖書まで読んでくださいと申し上げました。新約聖書まで読むと、イエスキリストが登場しますから。そうすると、聖書が分かってきますと、そのように申し上げました。
 そういうことなんですね。旧約聖書だけ読んでも、それは話としてはまだ半分です。その旧約聖書を読んで持つ疑問がある、出てくる。問いですね。その答えが、そのあとの新約聖書にある。言い換えれば、イエスさまにあるんです。たとえば、推理小説を読むときに、前半だけ読んで犯人が分かるんでしょうか?‥‥たいていは分かりません。謎と謎解きのヒントが出てくるだけで終わりです。後半まで読まないと分かりません。
 それと似ています。イエスさまが登場して、お話しくださって、そしてそれらすべての真実の証として、十字架におかかりになって死なれる。この私たちを救って、天の国に連れて行くためです。そして神がイエスさまを復活させなさる。そして、イエスさまは天に行かれますが、それと引き換えにして、聖霊が弟子たちのところに来られる。‥‥そうしてはじめて、イエスさまがお語りになったことが真実であったことが分かったんです
 きょうのこのときは、まだ弟子たちは、頭で分かったといっているのに過ぎない。しかしこのあと実際に自分たちがイエスさまを見捨てて逃亡し、またイエスさまとの関わりを否認することになる。しかし十字架で死なれたイエスさまが、その自分たちを赦し、受け入れてくださる事実を体験する。‥‥そのことを見越して、イエスさまは、「天の国のことを学んだ学者」と言われているんです。
 それは本当の学者です。実際に私たちの力となる学びです。私たちはなぜ生まれたのか?偶然生まれたのか?それとも、神という方がいて、その方の意思によって生まれたのか?‥‥。そして私たちは、なぜ生きるのか? 困難があり、試練がある、病気にもなる。苦しいこともある。それなのに生きる理由があるとしたら、それは何なのか?‥‥そして人はなぜ死ぬのか? 死ななければならないとしたら、なぜ生きるのか?‥‥
 そのような私たちの持つ根源的な問い。それに答えを与えるものです。その古くて新しい問いに、答えを与えるものです。
 
   倉を持つ主人
 
 「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
 イエスさまを信じたとき、私たちはどこから来たのかを知ります。その永遠に古いルーツを知ります。そしてまた私たちは、私たちはどこに行くのかということを知ります。その永遠の未来について知ります。しかもそれが、イエスさまが十字架に捧げられた命によってもたらされたものであることが中心となっています。そういうことが分かってくる。
 倉。私が子供の時、近くの田んぼに面して倉が建っていました。それは商売をしている人の倉でした。私たちは近所の子供たちとともに、冬にその田んぼで駆け回って遊んだものですが、田んぼの土をその倉に投げつけて遊んだりもしました。悪ガキですね。その倉は、私の家と同じくらい大きなものでした。その倉の中には、それこそ昔のお宝から、そのときの商売に使う新しいものまで入っていたことでしょう。
 天の国のことを学んだ学者。それはこの世の物差しでいうところの学者ではありません。しかし、私たちが生きている根本のところを教えるイエスさまの教え。学者は人を教えることができます。イエスさまのところに答えがあると。そして、教えを受けるということには終わりがありません。私たちは、永遠にイエスさまから学び、そして揺るぎない平安と喜びを受けていくことができます。そういうイエスさまの招きがここにあります。
 
【祈り】 父なる神さま。本日もみ言葉に学ぶことができたことを感謝いたします。その学びが、私たちが生きることについての学びであり、また事実として私たちを救ってくださるものであることを思い、心から感謝いたします。主よ、この私のような者を招いてくださって感謝いたします。どうか、私たちを教え続け、また私たちも隣人の救いのために祈るものとなさしめてください。今、試練や困難の中に置かれている兄弟姉妹たちに、そして世界の人々に、あなたの励ましとお導きを与えてください。
 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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